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『神彰−幻を追った男』

連載『神彰−幻を追った男』を終えて

 デラシネ通信を立ち上げたのはいまから二年前になるが、そもそもは神彰のことを書くことが大きな目的であった。神のことを書こうという思いがふくらみ、取材をはじめたのだが、発表する場がないことは、最初からわかっていた。いままでは、雑誌とかに連載して、それを出版社にもちこみ企画を通すというやりかたをとっていたのだが、昨今の出版事情を考えれば、そんなことが許されない状況にあることは、鈍い私にでも把握できていた。それならば自分でその場をつくってしまおうということでデラシネ通信を立ち上げることになったのだ。『デラシネ通信』があったからこそ、ここまで書き続けるができたのだと思っている。
 その意味で、今回連載を終えることについて感慨深いものがあるし、ここで連載できてほんとうに良かったと思っている。

 連載しているなかで、一番驚いたことは、予想を越えるインターネットの力だった。ここで連載したことで、思いがけない情報が集まることになった。
 AFAの公演を見たという人からの情報が数多く寄せられたのがひとつ。幻のアート・ブレイキー日本ツアーのドキュメンタリー映画を見たという人も現れた。「北の家族」で神彰の元で働いていたという人からもメールをいただいた。クラシック音楽関係やジャズ愛好家でHPを主宰している人たちが、紹介してくれたり、リンクしてくれたのも予想外のことだった。記事を書くことで発信し、情報も集めたいという狙いもあったのだが、それは十分にかなえられたと思う。

 情報収集という意味だけでなく、この連載中で私にとって最大の出来事は、生死さえわからなかった、探していた人物のひとりの連絡先を読者から教えてもらい、直接取材はできなかったものの、電話で話すことができたことだった。
 函館出身で、AFA時代の幹部社員富原孝の行方については、「情報求む」欄でもとりあげていたのだが、まったく思いもかけないところから情報が寄せられた。かつてのAFA時代の仲間たちも、富原の消息については誰も知らず、たぶん亡くなっているのではないかというのがおおかたの見方だった。しかしデラシネをみてくれた早稲田の学生T氏が、富原は生きていますと、教えてくれたのだ。T氏のいまは亡きお父さんが富原と親しかった関係で、会ったこともあるという。しかもT氏は、詩人であった富原の詩が大好きで、「富原孝」の名前をネットの検索にかけ、デラシネにつきあたったというから、ネットの世界は面白い。
 T氏とすぐに連絡をとり、早稲田であったのが今年の五月であった。この時T氏は、富原が出した詩集を何冊か持参してくれた。工藤、石黒、木原とAFA幹部は、いずれも文学者であったのだが、富原もまた詩人として活躍していたことは、まったく知らなかった。しかもT氏が持ってきた詩集を見ると、いずれも壮大なスケールで書かれたアイヌをテーマにした叙事詩で、詩人としての実力も相当なものであることがわかった。T氏から、富原と会ったときに神との思い出やAFAのことを懐かしそうに話していたということを聞いて、会って取材するのが楽しみになった。
 取材したいという手紙は早くにだしていたものの、仕事がたてこみ、なかなか連絡がとれず、取材の申し込みの電話をかけることができたのは、9月になってからだった。
 最初電話にでられたのは、夫人だった。「以前手紙を書いたものですが」と言って、取り次ぎを頼んだのだが、どうやら事情は察してくれたようで、富原を電話口に呼んでくれようとした。しかし本人が電話に出るまでは、時間にして3、4分はかかったのが気になった。
 しかも電話に出た富原の声は弱々しかった。
 「丁寧なお手紙をもらいながら、返事もせずにすいませんでした」と言って、しばらく間があった。
 「神とはねえ、新宿のコマ劇場で・・・・」
 また間があったので、私は「ボリショイバレエですかね」と口をはさんだ。
 「・・・・そうだったね、・・・・函館新聞で働いていたときに、神はアルバイトしていたんだ・・・・」
 ここでまた長い沈黙が続いた。電話に出るまでに長い時間がかかったこと、そしてこの長い沈黙から、富原が決してふつうのからだではないことは想像できた。
 「懐かしいねえ・・・・神のことはねえ・・・・話したいんだけどね・・・」
 そばでこのやりとりに聞いていた夫人に助けを求めているようだった。
 夫人の声が電話の向こうから聞こえてきた。
 「なんで神のことをいまさら話さなくてはいけないの、私が代わるから・・」
 受話器は夫人に渡された。
 「いったいなんだというのですか。主人は病気なんです。神のことを聞くために、主人に話を聞きたいというのはどういうことなのですか? 私たちはアートフレンド時代にどれだけ苦労したか知ってますか? その神のために主人になにを話せというのですか?」 電話の声は真剣に怒っていた。
 AFAで働いていた女子社員を取材していたとき、「私たちはいいですけどね、家庭を持っていた男子社員の人たちはたいへんだったと思いますよ。安い給料で・・・ みんな神さんのために青春を捧げていたでしょうね。でも家族のかたはねえ・・・」とポツリともらしていたことが思い出された。
 夫人にしてみれば、思い出したくもない、自分たち家族が苦労していた時代のことを、いまさら本人からほじくりだそうというのは、たまらないという気持ちだったのだと思う。必死に、神だけのことでなく、AFAで青春を賭けた人たちのことも書きたいし、そのために富原さんの話を聞きたいと説明はしたのだが、半ば取材は無理だと諦めたのも事実である。嫌な想いまでさせて、話を聞いてもしかたがないとも思ったからだ。
 デラシネのこの連載を読んでくれたT氏のナビゲートでやっとたどりつけた富原であったが、思いもかけない結果に終わってしまった。ただ電話を切ったあとも、富原が「懐かしいねえ、話したいねえ」としみじみ言ったあの言葉が耳から離れなかった。神彰に叛旗を翻した富原だったが、それは憎しみからではなかったのだと思う。家族を犠牲にしてまでも、賭けた男のことを彼は懐かしんでいたということ、それがわかっただけでも十分だった。
 富原夫人は、少しずつ冷静さを取り戻し、「主人と会って話しを聞くのは無理かもしれないけど、手紙で聞きたいことを書いてみたらどうですか」と最後に言ってくれた。
 ありがたい申し出であった。実は、どう尋ねたらいいものかずっと考えて、いまだにこの手紙をだしていない、手紙を出す必要がないのかもしれないとも思っているからだ。


 AFAが解散したところで、連載は終わったが、取材は続いてるし、AFA解散後のことも書きはじめている。このあとは、神彰がアートフレンドのあとに、創設した呼び屋の会社アートライフ時代、平野義子との二度目の結婚、神がスポンサーとなった幻の雑誌『血と薔薇』のこと、居酒屋チェーン『北の家族』時代、そして晩年と書く予定になっている。たった一度しか会ったことがない、それも銀座のバーですれちがっただけなのだが、少しずつ私のなかで神彰という男がはっきりとしたかたちで像を結ぼうとしている、そんな手応えは感じている。

 神彰という男は、いろいろな顔をもった男であった。実際彼の顔の遍歴だけみても、そのあまりにもちがう相貌に驚かされる。そんな男の生涯を、すっきりとは書きたくないし、書けるわけがないと思っている。彼の紆余曲折した人生は、直線的には書けない、曲線的に書くしかない。大胆で、嘘パッチなのだが、どこかロマンチックなところもあり、人を騙しているようで、騙されている男、一途なのだけど、多情な男、豪胆だけど、小心な男、そんな風に書きたい。
 神彰という男は、評伝の対象としては、扱いにくいということは、これをテーマに選んだ時からわかっていたことだ。人によっては、評価がまるっきりちがう、そんな一筋縄ではいかないところがある。だからこそ、書き始めてからますます神彰にはまったことも事実である。
 神彰は自伝を書きたかったのだと思う。ただそれを書くだけの能力も時間もなかったことは本人が一番知っていた。実際に彼が残したふたつの自伝『怪物魂』と『天機を盗む』は、ゴーストライターになるものだった。
 取材しているなかで、神がこの自伝を書いてもらいたかったのは、かつての親友木原であったり、「血と薔薇」の編集をしていた内藤三津子であることがわかった。内藤は実際にゴーストライターとして100枚ぐらいの原稿を書き、それが小冊子のようなかたちで出版されたらしいが、これはのちに『怪物魂』に吸収されることになったという。
 神はこの二冊の自伝に、満足してなかったのではないだろうか。
 私は、三人目のゴーストライターとして、いまこれを書いているのだと思っている。別に神彰から指名されたわけではない、自分で買ってやっているだけなのだが・・・。
 神彰の自伝を私が書くこと、それがこの『神彰−幻を追った男』なのだと思っている。
 「私はあなたのゴーストライターです。たぶん最良のゴーストだと思います」という私の声を、函館の立待岬に眠る神彰は、きっと聞き届けてくれるのではないだろうか、そんな思いを抱きながら、これから先を書いていきたい。

 ある出版社が、この連載を本にすべく検討をはじめてくれている。
 あとどのくらいかかるかはわからないが、来年ぐらいには本としてかたちにしたいと思っている。売れなくてもいいから、今度こそは絶版にならない本にしたいものだ。


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