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『神彰−幻を追った男』

第三部 赤い呼び屋の誕生
 第七章 ボリショイの奇跡 その3

赤い国での淡路人形芝居

赤い国での淡路人形芝居

 レニングラードフィルを乗せたジェット機はチャーターされたもので、日本からの帰り、そして迎えに来る時は、空のまま乗客なしで飛ぶことになる。考えてみたらこんなもったいないことはない。神は、木原と石黒に、なにか日本の芸能をソ連に持っていき、紹介したらどうだろう、なにかいいものはないかと相談をもちかけていた。

 「歌舞伎とか能ではなく、なにか親しみのある芸能がいいとは思ったけど、じゃ具体的になにかということになるといいアイディアが出てこない。ある日銀座を歩いていたとき、偶然昔の知り合いで、民俗芸能に詳しい男と出くわしたのです。彼にこんな話があるんだけど、なにかいいものないかと聞いたら、淡路人形芝居がいいんじゃないと言う。これだと思った。日本的だし、人形劇というのも面白い。神もこれでいこうということになって決まったのです」(木原談)

 木原のアイディアで淡路人形一座を、ソ連に派遣することが決まった。決まったのはいいが、肝心の淡路人形一座が、なかなかウンと言わない。この交渉を任されたのが、訪ソ団の団長をつとめる石黒だった。
 石黒は淡路島を訪れ、ソ連公演の意義を説明、一座を説得するのだが、これが難航する。人形遣い師の大半は年輩者が多く「ロシアに行くと捕虜となる」と真剣に心配していたのである。
 捕虜としてシベリアに抑留されていた石黒が、懸命に説得にあたり、なんとか一座のソ連行きが実現する。
 レニングラードフィルが来日した翌日4月13日午後1時55分発のジェット機で淡路人形一座が羽田を出発した。一行は兵庫県津名郡五色町で八百屋をしている座長の若竹新六(70歳)他21名、一行には同県三原郡三原町三原高校二年生神代初美(16歳)と徳島県鳴門市北浜の細川常子(57歳)のふたりの女義太夫も含まれていた。
 この一行に付き添ったAFAの社員で、シベリアに12年抑留されていた宗像は、給油で立ち寄ったハバロフスクを見て、「俺たちがつくった町、泣けてきた」と帰国して、木原に語っている。
 5月9日朝日新聞夕刊に、石黒の報告によるソ連巡業の記事が掲載された。

「モスクワの初演は4月15日の予定だったが、劇場や宣伝、準備の都合で18日が初日となった。劇場は「テアトル・エストラード」といい、日本流にいえば寄席名人席というところで、収容人員はは七百人ぐらい。・・・
 初日にはソ連外務、文部の高官、在モスクワ日本人や関係者が出席し、ソ連の人民芸術家の称号をもつ人形劇場の代表オブラスツォフ氏がユーモアたっぷりに日本の人形劇を、外国の人形劇などの例をあげて面白く解説してくれた。
 出し物は『五条橋』『阿波の鳴門子別れ』『一谷×軍記』『狐七化』の四つ。観客が理解してくれるか心配したが、舞台のはじまる前と間に面白い解説がついたので十分観客を満足させた。この解説には助手として岡田嘉子さんが美しい和服で登場し、お手伝いした。また夫君の滝口新太郎氏もそれを助けてほねを折ってくれた。一番人気のあったのは『子別れ』と『狐七化』で、ナミダを流す人もいて非常な感動を与えた。新聞にも大きく扱われ、戦後はじめての日本の集団芸術家の訪ソなので各方面で注目されている。また淡路人形劇が日本の古典、伝統芸術であり、日本民衆、とくに農民の間で生まれたことに、ソ連では特別の関心が持たれている。
 一行は年よりがかなり多いので赤ゲット(おのぼりさんのこと)ぶりに、案内者があわてたが、みんな元気で、到着ごろの腹くだしもなおっておおいに熱演している。だがレーニンびょうなどへも、みんな紋付、ハカマ、ゲタばきというスタイルの団体で出かけるので、市民もさすがにビックリ。そして静かに眠るレーニン、スターリンのそばをゲタ音高く通りすぎるので、これにはあぶらアセを流した」

 ここに出てくるオブラスツォフ氏は、モスクワ中央人形劇場の総裁セルゲイ・オブラスツォフ、私にとっても思い出深い人である。私が呼び屋という業界に入って、最初に仕事をしたのが、モスクワ中央人形劇場日本公演であった。オブラスツォフ氏は、優しいおじいちゃんで、子どものような純粋な心をもった人だった。
 オブラスツォフや岡田嘉子、そして滝口新太郎も登場したこの淡路人形一座のソ連公演は、戦後ほとんど交流のなかった日本とソ連の間に、確かに大きな橋を架けたといえる。 おそらくこの公演の意義を誰よりも深く噛みしめていたのは、団長の石黒だったはずだ。彼はハルビン学院史に載せたエッセイ「対ソ交流の二十五年」の中で、この公演に寄せて次のように書き留めている。

「約一ヵ月間、モスクワ、レニングラードで公演したが、物珍しさもあってか、各地で大好評であった。公演に当たっては有名な人形劇の指導者セルゲイ・オブラズツォフの適切な助言を得、また在ソ中の岡田嘉子女史に舞台脇で解説してもらった。出し物は「阿波の鳴門」、「陣屋の熊谷」などであったが、ソビエトの観客に分かり易くするため、ドストエフスキーの小説の題を借りて「罪と罰」としたことを思い出す。
 公演中に舞台の大道具が倒れて大慌てしたり、羽織、ハカマ、下駄履きの一行が着物の裾をはし折りながら雨のモスクワの街を走り市民の微笑を買うなど、悲喜交々であったが、戦後初の日本芸能のソ連公演としてその意義は大きかったと思う」

 一行は、5月21日午前十一時半に羽田に到着、22日夜東京発の列車で淡路島に向かった。
 AFAは、金儲けだけを目的にしていたわけではなかった、幻や夢を追い求めていた集団でもあった。淡路人形芝居が当時まったく交流のなかったソ連で公演することに意義を感じていたこと、そしてそれに夢中になって取り組んでいた人たちがいたのだ。


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