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『神彰−幻を追った男』

第四部 驚異の素人集団「アートフレンド」
 第十一章 革命の時 その2

キオの奇跡
謎ときに挑戦
トリックの秘密

キオの奇跡

 「二回目のボリショイサーカス、あれはまさに空前絶後と言っていいんじゃないですかね。内容もそうだったし、よく人も入りました。あんなサーカスはあのあと、ないんじゃないでしょうか」

 AFAの票券担当をしていた宮川淳は、ボリショイサーカスの奇跡をこう振り返る。宮川はAFAをやめたあとも、中国から最初にパンダサーカスを招聘する仕事をしており、さまざまなサーカスを見てきたはずなのだが、この二回目のボリショイサーカスにまさるサーカスはなかったと断言する。
 第一回目のボリショイサーカスは、クマが話題になったが、今回はクマも登場するし、犬のフットボールはある、ジギドと呼ばれる馬のアクロバットもあると、前回をしのぐ盛り沢山の内容になっていた。しかもそれに加えて話題を呼んだのは、キオの大魔術であった。
 キオが、この空前絶後のサーカスの主役であったことは間違いない。神は、苦境をキオの魔術によって救われたといってもいいであろう。

 イブ・モンタンのキャンセル、レニングラードバレエの思わぬ赤字、しかもソ連に借金までしているということで、神はまさに剣が峰に立たされていた。このサーカスで失敗するわけにはいかなかった。前回のボリショイサーカスは確かに大成功であったが、サーカスだから当たったわけでないことは、チェコサーカスの不入りが証明している。サーカスは大衆を相手したエンターテイメントである、大衆を動かすには、宣伝が最も効果的な手段であることを、神は知っていた。この失敗が許されない公演を成功させるために、神は、ひとつのばくちとも思える宣伝をやってのけたのである。この宣伝の成功が、神のもとに信じられないほど莫大な利益をもたらすことになった。

 ボリショイサーカス一行が横浜港に来日したのは、1961年6月17日。その二日後に磯子プリンスホテルから、品川プリンスホテルまでクマのゴーシャをはじめ、出演者たちによる大パレードを行っている。いまからから考えると、信じられないような長時間にわたる、しかも長距離のパレードである。これも宣伝のためであった。

 そして6月23日会場となる千駄ヶ谷の東京体育館で記者会見とデモンストレーションが行われた。
 これは神にとっても、AFAにとっても大きな賭けだったのだ。
 通常マジックは、さまざまなトリックが仕掛けられている舞台で演じられることが多い。背景や袖は黒い幕で被われ、死角がいくつもつくられ、天井にはバトンも吊るされている。それに対してキオのマジックは、サーカス場の四方から観客に取り囲まれる円いリング上で演じられている。ここが通常のマジックと大きく異なるところである。しかしそこにはひとつ、トリックが隠されている。つまりソ連のサーカスは、常設のサーカス場で演じられているため、マジシャンのために床に穴を開けることは簡単だったのである。床に穴をあけることで、信じられないような早替わり、消失が可能となっていた。
 前年交渉のためにモスクワを訪れた工藤は、床に穴をあけなければできないようなマジックは番組から外してくれと注文をつけていた。円いリンクでも床に穴を開けているのではないかと思われては、謎ときの興味がうすれてしまうことを恐れてのことだった。これは賢明な判断だった。謎ときで夢中にさせること、それが日本公演の成功の鍵を握っていたのだ。
 それを最初に試す場が、この記者発表であった。裸舞台にちかい状態、しかもまだ舞台はできておらず、床に仕切りの箱枠が円形にただ並べられているだけである。何の仕掛けもないところで、デモンストレーションをしようというのだ。
 しかし神たちには勝算があった。何の仕掛けもないところだかこそ、キオのスケールの大きなマジック、しかもなぞときが難しいマジックの魅力を存分に見せつけることができるはずだという読みだった。

 神たちは、この日「美女とライオン」と「炎に消える美女」というふたつの番組をデモンストレーションとして見せることを決めていた。
 前評判も高く、各社への案内も徹底していたこともあって、当日は大勢のマスコミ関係者がつめかけた。マジックのデモンストレーションにも関わらず、大がかりなセットもなく、床に箱枠が並べられただけのステージを見て、取材陣は一様に驚きの表情を浮かべる。神たちが仕掛けた罠に、彼らはひっかかってきたのである。主催者の挨拶と簡単な説明のあと、キオがいよいよマジックを披露する。
 まず人間の腰ほどの高さの脚に車輪のついた、空っぽの大きな鉄の檻がステージ中央に運び込まれた。続いて助手が箱型の踏み階段を押してくる。そして美女の手をとったキオが登場。美女は踏み階段を昇ってゆっくりと檻の中に入る。ポーズをとり、笑顔をふりまいたあと、すばやく助手たちが、大きな被いを檻にかけた。キオが檻をたたきながらゆっくりと一周したあと、踏み階段が運び去られる。キオの合図とともに被いが取り去られると、檻の中では美女が消え、ライオンがあたりをにらみながらゆっくりと歩いていた。
 この場に居合わせた外国部の工藤は、この瞬間のことをこう回想している。

「みんな呆気にとられて、声もない。そしてわずかの間をおいて大きなどよめきと万雷の拍手が起こった。これは主催者のぼくらも同じで、何がどうなったのかわからず、ただ首をひねるばかりだった。
 その場でインタビュー取材の予約申し込みが殺到し、処理しきれないほど、首都の話題をさらうことは確実になった」

 このマスコミの取材のなかで、神が一番興味を示したのは、週刊文春の提案だった。これは、日本を代表する文化人を集めて、実際にキオのマジックを見て、その謎ときをしてもらおうというものだった。
 デモンストレーションの時は、取材陣をけむに巻けることは十分に予想できていたが、この取材はさらにリスクが多い。神たちが仕掛けたものではなく、マスコミが仕掛けた取材で、もしもトリックが簡単に見破られてしまったら、せっかくの盛り上がりに水をかけることになるかもしれない。それでも神はあえて、この取材要請を受けたのである。

謎ときに挑戦

 ボリショイサーカスの幕が開いて4日目の7月4日8時10分、第二部キオの魔術が始まったこの時、正面最前列に6人の男女が居並んでいた。
 推理小説家の松本清張、東大教授で東京マジシャンズクラブ会員の上野景福、推理作家の戸板康二、特殊撮影監督の円谷英二、漫画家の西川辰美、シャンソン歌手の石井好子の面々である。
 6人はキオが演じる20のマジックのうち、三大魔術といわれている「空中での男女のすりかえ」、「ライオンになった美女」、「美女の火あぶり」の謎ときに挑戦、その回答に対して、翌日キオが答えることになっていた。
 「ソ連の世界的魔術師がなげかける謎に、日本の文化人が頭脳をしぼって立ち向かう一代推理ゲームが展開」することになったわけである。
 30年以上も前の話だが、いまでもワクワクしてくるような企画ではないか。この企画を思いたった編集部のアイディアにも脱帽させられるが、これを堂々と受け入れた神、そしてキオの潔さにも驚かされる。のるかそるか、一丁やってやろうという、気合が感じられる。サーカスのPRとして、これほど話題を呼ぶ企画はないだろう。受け入れる側からすれば、もしも三つとも簡単にトリックの秘密が見破られたら、動員にも影響するリスクを背負わされている。それでもこれが話題になることを見通して、バクチに乗るところに、この興行に賭ける切羽詰まった神たちの思いが込められている。
 海外のサーカスの日本公演の宣伝で、売れっ子のタレントをつかって「○○に連れていって」というのがあったが、サーカスそのものを宣伝するのではなく、タレントの力に依存するこの宣伝方法の安易さから比べれば、サーカスそのものの力に勝負を託そうというこの意気込みから、興行に賭けるまさに真剣勝負の迫力がヒタヒタと伝わってくる。

 この日ソ推理合戦の一部を、「空中での美女の取り替え」を例にとり、どんな結果になったのかを紹介しておこう。
 このマジックは、10メートルの間隔をおいて二つの四面素通しの鳥カゴがあらわれ、右に男性、左に女性がのって空中に浮かび上がり、幕が上がって人間が隠れた次の瞬間、サッと幕が下りると、男女が逆になっているというもの。時間はわずか10秒というスピードだ。
 このマジックを見たふたりの文化人の推理はというと・・・

 戸板康二「髪と衣装を籠の中でとりかえるのだ。日本人にはロシア人の顔はよく判らないから、見破れない。
 まず、男が女に扮し、女は男になって登場する。幕がおりると、籠の中で歌舞伎の早変わりを演じるわけだ」

 松本清張「三面鏡がカゴのなかに仕掛けられていて、それぞれの背後に、ウリふたつの男女がかくれてすり替わる」

 これに対してキオは、翌日記者の前に姿を現し、それぞれの推理への回答を出している。「空中での美女の取り替え」については、こう回答している。

 「みんな零点です。早変わりも鏡も不可能です。また、カゴは空中に浮いています。下から見上げれば天井は見えるし、三階から見下ろせば、底も見とおしでしょう。替え玉が天井にへばりつくことも、底にかくれることも出来ないはずです。みんな見当ちがい。タネのヒントはもっと実に簡単なことですよ」

トリックの秘密

 開幕を間近にひかえたある日、ある週刊誌が、当時双子のデュオとして人気があった、ザ・ピーナツとキオが並んだ写真を表紙につかいたいと言ってきた。若い通訳がこれをキオに伝えると、キオは工藤をすぐ呼んで来いと命じる。工藤が、キオのところに行くとザ・ピーナツの写真を示して、「こういうことは気をつけてくれんと困るよ」と険しい顔をして注意をうながした。
 工藤は双子が、キオのマジックの秘密のひとつであったことを、思い出した。

「これは団員たちと共に行動しているうちにだんだんわかってきたのだが、若い女性と小男の二組の双子がいたが、彼らは決して一緒の行動をとらない。決してひとつの視野に入らないように、ばらばらに離れている。これは徹底していて、横浜の船上での入管手続きの時ですらぼくは気がつかなかったほどだ。そばについていたぼくがそうなのだから、初めのうちは誰も気がつかなかったのも無理はない。みんなそろっての都内観光など、人目にふれるところへ出る場合は、片方は残らなければならない。しくしく泣いているのを見て、可哀そうになり、若い通訳に別なところへ連れていかせたこともあった」

 これが、キオがインタビューで答えていた「タネのヒントはもっと実に簡単なことですよ」のヒントになるのではないだろうか。

 キオブームのきっかけをつくったともいえる、美女のライオンへの早変わりについては、個人的な思い出がある。
 ソ連時代に一度仕事で、女優の黒柳徹子さんと一緒にペテルブルグに行ったことがある。その時黒柳さんが、テレビの仕事で、キオのこのマジックに出演した時の思い出話をしてくれた。黒柳さんが檻に入り、ライオンになりかわったわけだが、この時トリックはどうなっているのですかとお聞きしたら、「もうだいぶ前のことですけど、キオさんとお約束して、この秘密については話せないことになっているのですよ」と言われた。黒柳さんにすれば、マジックの秘密を守ることには時効がないということなのだろう。
 しかしこのマジックの秘密は、暴露されることになる。アメリカのフォックステレビが、マスクマジシャンという覆面をつけたマジシャンに、いままで謎とされていたマジックのトリックを暴露させる番組をつくって大評判をとるのだが、この中に「美女とライオン」のが入っていたのだ。これは日本でも何度もテレビで流されている。このマスクマジシャンは、2001年日本のテレビ番組に出演するため三度来日している。この時私も少しだけ仕事で関わることになった。さすがに日本では「美女とライオン」のネタバラシはしなかったが、黒柳さんの話を聞いていただけに、複雑な心境になったことは事実である。
 もしもこのことをキオが知ったらどう思ったのだろう。
 キオは、文春のこの記事の最後で、「タネの秘密は絶対に公開しないのか?」という質問に対して、「そんなケチな根性はない。私は一年から二年の間に新作を考えている。・・・・もしもジンが許せば、日本公演の最後に先生方を含めた一部の人々に、この三大魔術のタネ明かしをしてもいいと思っています」と答えていたのだが・・・

 いずれにせよ、この文春の記事が、キオのマジックの謎とき、ボリショイサーカス人気に拍車をかけることになった。
 千駄ヶ谷の東京体育館に人が押し寄せてきたのだ。みんなのお目当ては、キオの魔術だった。
 「安保闘争のギスギスした時代だったこともあり、キオは無条件に楽しい格好の話題を提供し、空前のキオブームが巻き起こり、約一カ月におよぶ東京公演は切符売りきれの当時としては記録的な大盛況となった。名古屋、大阪、福岡、名古屋、札幌の地方公演も大成功が約束された」と工藤も書いているように、連日超満員の公演となった。
 入場券をつくる担当だった、宮川も連日徹夜で作業にあたっていた。

 「前売り券もよく売れましたが、とにかく当日券が売れました。切符が足らなくなり、東京体育館の控え室を票券事務所にして、毎日徹夜で切符を作成したもんです。神さんは、毎日おにぎりを差し入れしてくれましたよ。細かいところに気がつくんですね」

 キオのボリショイサーカスは、宮川にとっても、忘れられない思い出となっている。
 公演は7月1日から8月6日までの東京公演のあと、福岡、大阪、名古屋、札幌と続き、どの会場も超満員の盛況だった。興収15億円という、まさに莫大な利益を神は手にすることになった。ソ連に借りていた金も、公演が始まって2週間も経たないうちに返すことができた。


 そして神の絶頂の時と言ってもいいだろうこの時期に、もうひとつのドラマが水面下で進んでいたのである。世間をあっといわせた有吉佐和子との電撃結婚である。


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