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『神彰−幻を追った男』

第五部
 第十三章 梟雄たち−興行戦争の実態

高度経済成長時代へ
三人の呼び屋
ビートルズを呼んだ男−永島達司
不運の呼び屋−樋口について
ドルの闇に葬られた男
呼び屋の時代の終焉

高度経済成長時代へ

 神と有吉が結婚した1962年、東京都の人口は一千万人を超え、テレビ登録台数も一千万台を突破している。60年安保改正の混乱で責任をとって引退した岸のあと首相の座についた池田勇人が掲げたスローガンは、国民所得倍増計画、日本は一挙に高度経済成長時代へと突入していた。
 1973年にオイルショックに見舞われるまで、日本はまさに血眼になりながら、「モノ」の豊さを求めて突っ走ることになる。
 神彰がドン・コサック合唱団を呼ぼうと思い立ち、それが大衆に受け入れられたのは、敗戦後まだ焼け跡が残るなか、人々が精神的に飢えを感じていたからだ。大宅壮一が、神の活動を「戦後の奇跡」と名づけたのは、そうした大衆の気持ちをくみ取り、なんの拠り所もなくそれを実現したからに他ならない。
 あれから七年、高度経済成長時代を迎えた日本人は、心の飢えを失い、表面的な豊かさだけを求め、あくせくすることになる。レジャーやバカンスという言葉が巷をにぎわしていた。人々は仕事の合間の余暇を費やすために、レジャーとして、バカンスとして文化を消費しようとしていたのだ。
 植木等の「ニッポン無責任時代」や加山雄三の「若大将シリーズ」が、この時代大衆に受け入れられたのは、人々がより楽な夢を実現するヒーローを待っていたからではないだろうか。
 神が呼び屋稼業を始めて七年の歳月のなか、日本は大きく変貌をとげようとしていたのだ。人々が文化に飢えていた時代は、もはや過去のことになっていた。
 トリオ・ロス・パンチョス、キングストン・トリオ、MJQ、ナット・キング・コール、サム・テイラー、ジュリエット・グレコ、ドリフターズ、プラターズ、アントン・カラス、ブラザーズ・フォア、ベンチャーズ、フランク・シナトラ、イブ・モンタン、カーメン・キャバレロなどなど。
 これは、61年から62年にかけて来日したアーティストたちの主だった顔ぶれである。ラテン、フォーク、ジャズ、シャンソン、ポップス、ハワイアンまでありとあらゆるジャンルのアーティストが、毎月のように日本にやってきた。ジャズ・ポピュラー界にかぎっていえば、1959年には7グループしか来日しなかった外人アーティストたちが、61年には45、63年には76、東京オリンピックのあった64年には、167の団体が来ていた。外人アーティストはもう珍しくはなかった。そして呼び屋も珍しい仕事ではなくなっていた。
 神のほかにも、進駐軍相手にアメリカのタレントを呼び、ポピュラーミュージック界の呼び屋の大立者となる永島達司、トリオ・ロス・パンチョスで当て、ラテン・ミュージックを次々に呼んできたスワン・プロモーションの樋口玖、イベット・ジローやカテリーナ・バレンテを呼んだ日新プロの永田貞雄、アルペンスキーのゴールドメダリストで映画スターだったトニー・ザイラーを来日させたパールハウス映画社長の渡辺登、『ララミー牧場』や『モーガン警部』など、アメリカテレビ映画の輸入だけでなく、そのスターを呼んできた太平洋テレビの清水昭、永島と一緒に戦後すぐにS・Nプロを立ち上げた野村弘、ルンバの王様ザビア・クガートを招聘した東宝芸能の吉田一徳、ニューヨークバレエ団を呼んだ吉田音楽事務所の吉田昇、神より先にソ連からバイオリニスト、オイストラフを呼び、井上靖の小説『闘牛』のモデルになった小谷正一、黒人ミュージシャンを数多く呼んだJBCCの本多徳太郎等が、この世界で脚光を浴びていた。呼び屋にとって、群雄割拠時代が始まったといえる。
 この中で、最も目立った活躍をしていたのが、永島達司、樋口玖、そして神彰の三人だった。生き馬の目を抜くような激しい呼び屋の世界で、成功したこの三人は、それぞれ強烈なオーラを発していた。

三人の呼び屋

 五木寛之が書いた小説に、この三人をモデルにした『梟雄たち』(『男だけの世界』所収)と題された短編がある。
 これは進駐軍時代から興行の世界に足を踏み入れ、当時の占領軍に強固なコネクションをつくった永島(小説のなかでは冴田哲也)、独力で世界でも一流といわれる白系ロシア人の大合唱団を呼び、一躍ジャーナリズムの脚光を浴びた神(岩森徹)、ラテン音楽の成功のあとリンボーダンスという際物で一山あてる樋口(円城徳義)、という三人の呼び屋の生き方の違いを浮き彫りにしたものである。
 この小説のなかでは、永島は控えめで、冷静な紳士、抜け目のないビジネスマン、「着実にこつこつと仕事をしながら、自分がひっそりと影の部分に身をひそめている」人物として描かれ、樋口は、粗暴ななかにもぎらぎらとして闘志をおもてに出した、「呼び屋の仕事を、はっきりと虚業と割り切り、あけすけなインチキでも平気でやろうとする」泥臭い人間として描かれている。神の人間像はというと、ほかのふたりと比べて、いささか精彩を欠いている。ソ連という権力や政治と裏でつながっているところだけがクローズアップされ、「背後に、得体の知れない深い森のような国家権力の影」をひく男、政治とどこかで結びついている影の部分だけが、強調されすぎた感がある。
 小説の語り手は、この三人の座談会を仕掛ける35歳の週刊誌の副編集長なのだが、彼は自分がこれからどんな道を歩むべきかを、つまり「政治と結んで権力のバランスのなかに生き場を求めるか、あるいは合理的なビジネスマンとして安全な道を行くか、またはマスコミの底辺を汚れながらペン一本で生き抜いて行くのか」、三人の呼び屋の生き方のなかから、自分の人生を選択しようとしていた。
 小説では、樋口はドル規制法違反で逮捕され、神は興行に失敗し、海外に逃げるなか、主人公は、強烈に自己を発進するのでなく、生き延びる道をえらんだ永島の道をえらぶことになる。
 五木寛之が『梟雄たち』で描いた、神と同時代を生きた、ふたりの呼び屋人生をここで紹介しておきたい。

ビートルズを呼んだ男−永島達司

 ポピュラーミュージック界で厳然たる勢力を持っている、国内最大のプロモーター、キョードー東京をはじめとするキョードーグループの生み親が、永島達司である。
 永島は、1926年生まれだから、神より4歳年下にあたる。父親は、三菱銀行の常務まで勤めたのち、三菱海運の社長になったエリートであった。永島は二歳の時に、父親の赴任にともなってニューヨークへ移り住み、その後もロンドン、そしてまたニューヨークへと、小さな時から英語をつかう生活に慣れ親しむことなる。彼の大きな武器となる英話は、こうした海外生活で磨かれたものだった。
 戦後まもなくひょんなことから、通訳として厚木のジョンソン基地で働くことになった永島は、ここの将校クラブのマネージャーを任されるようになる。そして在外米軍基地に慰問公演に訪れる米国のジャズミュージシャンやコメディアンの面倒をみながら、銀座や赤坂のキャバレー、クラブに出演させることで、プロモーターとして自立していく。
 この駐留軍が、日本の呼び屋の原点だったといえる。永島とともにキョードー・グループを率いてきた内野二朗、現在キョードー東京の社長を務める嵐田二郎、ウドー音楽事務所の有働誠次郎ら、現在も活躍する第一線のプロモーターたちの多くは、戦後、日本に進駐してきた米軍にエンタテインメントを提供するところから、その事業をスタートさせていた。
 小説『梟雄たち』の原型となったのが、竹中労が書いたルポ『呼び屋−その生態と興亡』(1966年弘文堂)である。敗戦後の社会史と、アメリカの日本に対する文化政策を重ねて書いた「呼び屋」の生態を追ったこのルポの最大の読みどころは、呼び屋が、アメリカナイズをもたらしたアメリカの対日文化政策の落とし子であり、それがアメリカの基地のなかで暗躍していたエージェントと密接な関係のなかで、つくられたことを暴いたことであった。
 竹中は、暗黒街の顔役でもあったテッド・ルーインと結びついたキャノン機関の一員アロンゾ・シャタックがつくった興行会社「S・Nプロダクション」こそが、日本における呼び屋の最初であったと書いている。
 永島は、この時シャタックに誘われ、「S・Nプロダクション」に参画していた。Sはシャッタック、Nはナガシマを意味していた。
 そして1957年、いまのキョードー東京の母体となる「協同企画」を設立し、アメリカのショービズを牛耳っていたエージェントと結びつきながら、永島はアメリカのポピュラー界のアーティストをほぼ独占的に招聘していくことになる。
 なによりも彼の名を一躍有名にし、永遠に名を留めることになったのは、1968年ビートルズを日本に呼んだことだろう。当時ビートルズを誰が日本に呼ぶかをめぐって、熾烈な戦いが演じられていたのだが、永島は、この闘いに積極的に加わって勝ち取ったのではなく、これまでのアメリカとの実績から、棚ぼた式で興業権を手に入れたというのが、実情だった。決して儲かる仕事ではないことをわかっていたのにもかかわらず、「ビートルズを呼んだ男」というレッテルが、大きな勲章となり、またこれから仕事をするうえで、大きな財産になることを読んでのことであった。
 永島のやりかたは、リスクをできるだけ避け、アーティストと信頼関係をつくりあげることだった。この流儀が、彼に成功をもたらすことになる。神や、次に紹介する樋口のように、「俺が、俺が」と人をかき分けても前に行くのではなく、じっと待つ、それが永島の流儀だった。晩年永島は、彼の伝記を書くことになる野地秩嘉に、こんなことを語っている。

「結局、この商売で一発当てることはできるけれど、長く続けるのは大変なんです。僕の場合、キヨードー東京が長くやっていられたのは臆病だったからですよ。度胸がなかったから、まじめにやってきたんですよ。あとは、これは僕の功績じゃなくて部下の内野たちが偉かったんじゃないかな。金のこともそうだし、企画でもね。ベンチャーズやボール・モーリア、もう亡くなったけれどニニ・ロッソなんていう人たちは本国じゃそれほどの人気はないけれど、日本じゃコンサートを開くと満員になるんです。地道な努力をしてそういうタレントを育てたのは彼らの功績です。ただ、それだけじゃ会社の名前が知られるようにならないから、時々大物を連れてきて話題を作る。僕はそれをできるだけまじめにやろうとしただけです。呼び屋の仕事とはお客にとてつもない夢を見せる仕事なんです。それにはまず自分が夢を持っていなくてはならない。一円の価値しかないものを百円で売る。一ドルの値打ちしかないものを百ドル出しても惜しくはないと思わせる。それが呼び屋でありプロモーターで、いわばいかさま師とスレスレの存在とも言っていい。僕がプロモーターと呼んでもいいと思うのは今ではたったひとりしかいない。アメリカ人のジェリー・ペレンチオだけです」

 ペレンチオは、一九七一年にモハメッド・アリ対ジョー・フレイジャーの試合を、ニューヨークのマディソン・スクェア・ガーデンでプロモート、この一戦をケーブルテレビに売り、金米の映画館やコンサート会場で入場料をとって見せるクローズドサーキット方式を考えつき、七百万ドルの利益を手にしたといわれている強者のプロモーター。彼は、永島がこう語ったことを受けて「へえー、タツが僕のことを世界一のプロモーターと言ったって。ははは、変わらないね、タツは。あいつの方がこの世界じゃ有名だよ。ギャラを値切らない男といえばこの世界ではタツ。ナガシマのことを指すんだ」と言ったあと、永島のことを「タツはいい男だ。親友だ。だがね、僕がタツをプロモーターとして尊敬しているかといえばそれは違う。タツにはプロモーターとしては欠落しているところがあるからだ。・・・・・プロモーターなら一度は嘘をついた方がいい。自分の手を汚して仕事をした方がいい。やらないやつには絶対にわからない。タツがプロモーターとして駄目なのは、あいつは一度も嘘を言ったことがないからだ。あいつは汚いことをしたことがないからだ。汚いことをしてでも金をつかんでやるというガッツを持ってないやつは興行にはかかわらない方がいい」
 永島は呼び屋という商売の危うさを知っていたのだ。野地に対して、こうも語っている。

 「興行の本質というのはバクチなんです。有名なスターだから、キャリアがあるからといって必ず客が入るということはありません。幕を上げてみるまでは何が起こるかわからない。神さん、康さん、そして樋口がやってたような仕事は当たれば大きいが、外れたら目も当てられない。僕は自分が臆病だったから、なるべく大きなバクチは打たないようにやってきました。」

 決しておもてに出ない控えめな永島は、このスタイルでビーチボーイズ、レッド・ツェッペリンといったロック・ポップのビッグネームから、エラ・フィッツジェラルド、オスカー・ピーターソンといったジャズの大御所、そしてポール・モーリアやニニ・ロッソといったイージーリスニングにいたるまで、ポピュラーミュージックの海外招聘をほぼ一手に引き受け、呼び屋の成功者として名を残すことになるのである。
 永島達司が亡くなったのは、神が亡くなった一年後1999年5月2日であった。享年七十三歳、死因は肺炎だった。
 永島達司から、絶大な信頼を受け、伝記『ビートルズを呼んだ男』を書いた野地は、彼の呼び屋の姿勢をこんな風に語っている。

「彼は舞台の袖でたたずんでいることが好きだった。決してスポットライトのなかに足を踏み入れようとはしなかった。ナット・キング・コールやジョージ・ルイスやビートルズの音楽を聴いていたかった。彼は舞台の袖の暗がりから一歩も踏み出すことなく音楽を聴いていられればそれでよかった。彼は観客に、自分がすすめるミュージシャンとその演奏を楽しんでほしかったが、自分の存在には気づいてほしくなかった。永島が半世紀にわたって興行の世界でやってきたこととは、できるだけ自分自身を消し込んで音楽の後ろに隠れてしまうことだったのである」(『ビートルズを呼んだ男』)

 自分自身を消し込むことで、成功を手にした永島と正反対に、自分を強烈に打ち出すことで、一花咲かせ、そして散っていったのが、樋口久人であった。

不運の呼び屋−樋口について

 竹中が『呼び屋』のなかで、最も好意的に、そして共感をもって書いている人物が、樋口である。

 「樋口は、私の知るかぎりで、もっとも「純粋な」呼び屋であった。ピストルをふところに忍ばせて、外人興行師と取引するような、やくざ無頼の男だったが、彼の心情は無垢だった。ショー・ビジネスの世界に生きて、樋口にはてらいもケレンもなかった。彼の眼中には、芸術もなければ、アメリカも、ソ連も、そしておそらくは金もうけさえなかった。ただただ、人の意表をつく「見世物」を仕組んで、世間をアッといわせてやろうという、天真らんまんな興行師の魂だけがあった。」

 竹中は、こんな風に熱烈な愛情をこめて、樋口のことを書いている。
 トップ屋ライターとして無頼の生き方をしていた竹中は、自分と同じ無頼の匂いを樋口のなかにかぎとっていたのかもしれない。実際に樋口のたどる呼び屋人生は、無頼と呼ばれるのにふさわしいものだった。

 一九三二年大阪で生まれた樋口は生後まもなく両親とともに中国上海へ渡っている。母親は料亭を経営していた。神の10歳下の樋口も大陸からの引き揚げ者だった。1946年冬苦労を重ねながらやっとの思いで帰国した時、樋口は12歳だった。帰国してから、一匹狼のヤクザ稼業に足をつっこんでしまう。十七歳の時に、新橋の朝鮮人マーケットに単身殴り込みをかけたのがきっかけだったという。その後、明治大学政経学部に入学し、ボクサーを目指して拳闘部に入部する。キャバレーの用心棒やダフ屋など、無頼稼業を転々としながら、大学を卒業した後は、国際興業の社員となり、ボクシングの興行に手を染めるようになった。
 その時ジョニー・レイというアメリカのシンガーを呼ぶことになったのが、呼び屋稼業のふりだしとなる。
 「スワン・プロ」という会社を設立した樋口が、この世界で頭角をあらわすのは、一九五九年にトリオ・ロス・パンチョスを呼んで成功してからだ。翌年ロス・トレス・ディアマンテス、トリオ・ロスパパガヨスと次々にラテンミ−ジックのシンガーを招き、どれも成功を収めていく。
 『梟雄たち』にも出てくるが、樋口が世間をあっといわせ、また人の裏をかく「見世物」の仕掛け人の本領を発揮したのは、1962年のリンボー・ダンスの公演だった。
 三人グループ、一週250ドルの契約金でカプリ諸島から「土人」を見つけてきて、全国津々浦々のナイトクラブに出演させるだけでなく、テレビや映画、薬や飴菓子のモデルに売り、1億円近くのボロ儲けをしてしまうのである。この時のキャッチフレーズが、「リンボー・ダンスは精力増進、無病息災、『上を向いてくぐろうよ』」というから、AFAのキャッチコピーの名手木原も真っ青になりそうな、人をくったものである。ここまでくれば、天真爛漫としかいいようがない。
 トリオ・ロス・パンチョス来日の時には、首相官邸につれていき、岸と記念写真を撮った時に、「総理、シャッポかぶっていただけませんか」と言ったという、人をくったような樋口の真骨頂を見せつけたのが、このリンボー・ダンスの招聘だった。
 リンボー・ダンスで稼いだ金で樋口はその後も、映画『愛情物語』で有名になったピアニストのカーメン・キャバレロ、ジャズのジョージ・シアリング・フォークのブラザース・フォアと次々にヒットを連発していた。
 赤坂のビルにワンフロアの事務所をかり、37名の従業員をかかえ、一気に呼び屋のトップについたかに見えた樋口に、落とし穴が待っていた。
 呼び屋たちの一番の泣きどころドル規制にひっかかってしまったのだ。

ドルの闇に葬られた男

 一九六三年一月二十七日樋口玖は突然外国為替管理法違反の疑いで逮捕される。これは日頃から「リンボーダンスで大儲けした」「商社が闇ドルを調達しているようだ」と放言していた樋口をねらい撃ちにした別件逮捕だったと言われている。
 神がこの商売をはじめた時、一番頭を痛めていたのが、このドル規制であったことは、前にも書いたとおりである。当時外貨の枠は、朝日・毎日・読売、そしてNHKなど合わせて年間十万ドルが認められているだけだった。呼び屋はこのためにこのマスコミ四社とタイアップしていくことを余儀なくされていた。
 呼び屋たちは形式的には、ギャラに外貨をつかわず円で支払うことにして申請を出すのだが、当然のことながら、来日アーティストたちは、外貨払いを要求し、そのために呼び屋たちは、一ドル三百六十円だった正規の交換レートよりも五十円から八十円は高いレートの闇ドルを調達してきてギャラを支払わざるを得なかったのだ。しかもこれが表沙汰になればたちまち外為法違反となってしまう。
 闇ドル購入、そして外為法違反は、呼び屋の世界では、当たり前のことであった。神のように財団法人化するという逃げ道もあるにはあったのだろうが、樋口は、そのあけっぴろげな対応が、警察の目についてしまった。
 この事件は、新聞にも「呼び屋逮捕される」と大きく報じられ、樋口は六十日間、勾留されることになった。彼が拘留中に公演したジョージ・シアリング楽団は、七日間公演でわずかに二十万円という売り上げ、さんざんな結果に終わる。
 釈放されたあとこの損を取り戻すために、樋口はまったく新しい企画を打ち出す。豊島園に特設コースをつくってスタントカーショウを開催しようというのだ。しかしこれが結果的に、樋口の呼び屋人生を縮めることになった。
 試走をする段になったとき、樋口は「下見は俺が自分でやる」とオートバイを用意させ、アクセルを全開にしてコースを走っているとき、最初のカーブにあった水たまりでスリップ、そのままコンクリートの壁に激突してしまったのだ。右脚のひざ下を骨折し、折れた骨が皮膚を突き破るほどの重傷を負い、さらに運の悪いことに、破傷風に感染していたことがわかり、右脚のひざから下を切断することになった。
 しかも入院中に、結核にかかっていたことがわかる。逮捕、交通事故、そして結核と、次々に襲いかかった試練に、さすがの異端児樋口玖もこれを押し返すだけの力はもう残っていなかった。スワン・プロモーションは取引先の信用を失い、この年の暮れ不渡りを出して倒産してしまう。樋口は最後にもう一度彼に最初の成功をもたらしたトリオ・ロス・パンチョスを呼ぼうとする。一年前に日本で解散コンサートをしたばかりのこのグループの公演を打つということ自体が、彼の敗北を物語っていた。
 1965年9月に「ワイド・ワールド・アソシエーション」と名前をかえて、樋口は最後の大勝負「ラテン・フェスティバル」を開催するが、6000万の赤字をかかえ、これも倒産に追い込まれる。
 その後樋口は、セントバーナードのブリーダーをやったあと、海外投資に関するコンサルタント業をはじめ、カナダや中国を舞台に不動産投資の仲介や、日本企業の海外進出を手伝い、一時は大きな利益を得ている。商才があったのだろう。しかし一九八八年、五六歳の時に食道ガンになり、手術を受け、命には別状なかったものの、声帯を失ってしまう。『ビートルズを呼んだ男』の著者野地は、取材でこの樋口とも会っているが、その時彼は、ステッキをつき、義足をつけ、濃いサングラスをかけ、エレクトリックマイクを使って会話していた。
 しかしその時自分のことを「サイボーグ」と茶化しながら紹介しながら、「なお再起を図っている」と意気軒昂、その不死身の魂は往年のままだったという。

呼び屋の時代の終焉

 高度経済時代を突っ走っていた日本の最大のイベントが一九六四年に東京で開催された「東京オリンピック」だった。
 竹中は『呼び屋の生態』のなかでこう書いている。

 「オリンピックは、いわば、国自体の「呼び屋」興行であった。一兆五千億円の巨費を投じて、ニッポンの「国威」は、大いに発揚された。が、哀れをとどめたのは、ほんものの呼び屋だった」

 オリンピックを当て込んで、呼び屋たちはこの年の九月から十一月に次々に外タレを呼んできた。九月二七件、十月十一件、十一月十九件、しかしどれもこれも思惑がはずれ、呼び屋たちは大赤字を抱えることになる。
 永島と野村というアメリカのシンジケートと結びついていたところだけが、業務を縮小して、なんとかこの危機を乗り越えるが、多くの呼び屋たちは、解散に追い込まれて行った。黒人ジャズを多く呼んできた本田徳太郎のいるJBCも、オリンピックの翌年に破産している。
 過剰気味だった呼び屋の淘汰が始まったのだ。
 そして神彰のAFAも、淘汰される運命にあったのだ。
 強烈な個性、自己主張、自己顕示、社会に対する挑発、こうしたことを売り物にする呼び屋の時代は、東京オリンピック前後に、竹中が言うように「壊滅した」のかもしれない。
 そしてこの時代を境に、呼び屋という言葉も「過去」のものとして封印されたのかもしれない。

「「呼び屋」という職業をご存じだろうか。コンサートやスボーツイベントといった興行を行なうため、海外のアーティストやスボーツ選手などを日本へ招碑する。これが興行の世界で言う「呼び屋」の仕事で、この定義にならえば、われわれ二人も「呼び屋」ということになる。ローリング・ストーンズ、マドンナ、マイケル・ジャクソン。これまでに「呼んだ」アーティストたちのラインナップは自分たちでふりかえっても豪華に思えるし、マイク・タイソンのボクシング・ヘビー級世界タイトルマッチや、NFL(全米フットボール・リーグ)の公式ゲームも実現させた。欧米のライブ・エンタテインメントやスポーツ興行の業界で、われわれは名前も顔も知られた存在になったと自負している。だが、よりうれしく思うのは、われわれが従来の日本の「呼び屋」とは異なるビジネスマンであると認知されたことの方だ。残念なことに、「呼び屋」という業界用語の響きには、あの「ダフ屋」にも通じるような、日本の興行ビジネスが抱えてきた特有の不透明さが潜んでいる(英語の「プロモーター」にも、そんなニュアンスが合まれている)」(秋山弘志・北谷賢司著『エンターテイメントビジネス』)

 これは、『東京ドーム』オープン当初、この五万人を収容できる巨大な会場を満杯にするために、さまざまなビックアーティストを招聘した『東京ドーム』の社員が書いた、自慢話のなかの一節である。
 「呼び屋」とは異なるビジネスマンであると認知されたことを喜ぶ人間がいるような時代になったのである。
 神彰も、樋口もビジネスマンではなかった。ビジネスマンと思われることを嫌がっていた男たちだったといえる。大会社の威を借りて、世界をまたにかけてビックアーティストと交渉することを自慢するこの著者とはまったくちがう世界で生きてきた男たちだった。英知と度胸で、挑みかかるような牙をもった男たちだった。たとえ綱渡りに失敗しようと、彼らはそれでもよかったのだ。ある瞬間輝きをもった生を生きたという証が、自分の人生に刻み込められることを神も樋口も喜びに思っていたはずだ。
 興行界で生きるということは、どこかで失敗してもいいという覚悟をもつことであり、それを自分の美学にすることなのだと思う。
 呼び屋が持て囃されていた時代に、樋口は脚光を浴び、そして闇ドルの摘発を受け、興行界からはじき飛ばされ、時代の徒花となって散っていった。
 神にも破局が待ち構えていた。彼の散り方も、ある意味では見事だったといえるかもしれない。


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