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もうひとつの「虚業成れり」物語

第3回 田村敏雄

 沢木耕太郎のノンフィクションZ「1960」に収められている「危機の宰相」をとても興味深く読んだ。これは単行本にはなっておらず、文芸春秋1977年7月号に一挙掲載されたもので、沢木の著作については全部読んでいたつもりだったが、この著作があることはまったく知らなかった。正直言って、「虚業成れり」を書く時に、これを読んでいたら、とちょっと悔しい気もしている。それだけ刺激的な本であった。

 この本は、1960年安保闘争のあと岸首相退陣を受け継ぎ、首相に就任した池田勇人が打ち出した所得倍増計画政策が、いかにして生まれ、実現していったのか、池田、そしてブレーンとなった下村治、池田が所属していた宏池会事務局長田村敏雄の3人の人生を織込みながら描いた、政治ノンフィクションである。
 このノンフィクションの背景となっている時代は、戦後最大の政治闘争となった60年安保から東京オリンピックまでの4年あまりの池田時代なのだが、沢木もここで書いているように、いまから振り返ると、戦後最も安定した保守政権だったといえる。そしてそれは、またAFAの栄光の時代と重なっている。池田時代がAFA繁栄を支えることになったと言えるかもしれない。

 『虚業成れり』でも書いたが、AFAを財団法人するために、暗躍したのが、田村敏雄だった。当時AFAにとって最大の懸案は、マスコミ数社にしか許されていなかったドル購入枠の規制をどうくぐり抜けるかであった。AFAは、時には闇ドルを購入し、調達せざるを得なかった。財団法人化することで、この規制を逃れることができたのだが、このために、神は、当時政権をめざしていた宏池会事務局長の田村に接近し、多額の政治資金を納めていた。神の側近木原の話によると、田村からは、急に金の調達を依頼され、よく金を届けていたというし、神自身、自伝『怪物魂』で数千万の金を池田政権のために、投入したと語っている。
 田村は、金を運んでくる木原に対して「池田が政権をとったら、ドル枠を撤廃してやるぞ」と語っていたというが、実際に池田政権誕生後、ドル枠は撤廃されることになる。ただ皮肉なことに、これはいままでAFAほか数社が、牛耳っていた呼び屋業界に、風穴をあけることになり、多くの新会社の進出を許すことになったのだが・・・。
 呼び屋が、一政治家に多額の政治資金を提供するということは、当然見返りを期待してのものであり、あの時代神にとってドル枠撤廃という大きな目的があったのは間違いない。しかし『危機の宰相』を読むと、金、そして利権とは別の、ないなにか大きな絆が、神と田村のあいだにあったのではないかと思うようになった。それは「幻」へ賭ける思いではなかったのではないだろうか。

 『危機の宰相』の第6章「敗者としての田村敏雄」に、詳しく彼の敗北の歴史が書かれてある。池田と同期に大蔵省に入省した田村は、1932年満州に渡る。大蔵省での自分の未来に絶望し、見切りをつけたことが大きかったのだが、彼なりに前年建国した満州国にある夢を抱いての事だったと沢木は書き、田村自らが書いた数少ない満州時代への思いを振り返った文章を引用している。

 「形は侵略であり、征服であっても、精神はそうでない、いや、たとえ一部の精神はそうであっても、独立国とした以上、これをほんとうの独立国、新しい意味と理想とをもった独立国にしたいと日夜心をくだき、努力をしたということは、夢破れた今日、やっぱり、ひょうたんはコマは出なかったと知ると共に、いっそう、当時のこころもちをなつかしみ、自らのはかなき努力をあわれむ気持ちがするのです」

 日本の敗戦と共に、現地でソ連軍に捕らわれた田村は、5年間の抑留生活を強いられ、1950年帰国している。帰国した田村は、一時大蔵省のPR出版業務をする外郭団体の理事長に就任するが、54年に辞職、池田勇人の個人後援会「宏池会」をつくり、池田を総理にするための本格的活動に専念する。
 この経緯について、沢木はこう書いている。

 「満州での挫折とシベリアでの抑留ですべてのエネルギーが喪われてしまったと田村は自分で思い込んでいた。しかし、政治家池田と結びついた田村には、池田を総理にすることでもう一度だけ満州で果たせなかった「夢」を実現しよという情熱が甦ってくる。池田を宰相に仕立てたいと考えるようになったのだ」

 こうした情熱は、AFAに集った長谷川濬、岩崎篤、石黒寛といった満州組、革命を夢見た木原啓允が、神彰に賭けた「幻」に通じるものがあるのではないだろうか。
 神の追う幻を、かたちにする、そのことで青春時代の夢の再現しようというのが、AFAに集った野武士たちの思いだった。それと同じように池田を宰相にすることで、「幻」を実現しようとしたのが、田村敏雄であったといえるのではないだろうか。
 池田を総理にという夢を実現した田村敏雄がなくなるのは、1963年8月。AFAに内紛が起き、神彰が孤立に陥った時でもある。そして池田勇人の喉にガンが発見されたのは、田村が死んだちょうど一年後のこと、高度経済成長をなし遂げ、敗戦から完全に立ち直ったことを世界的にアピールした東京オリンピックの閉会式に出席した直後池田は、総理辞任を表明している。池田が息を引き取ったのは、1965年8月13日、まだ65歳であった。
 栄光からどん底へ突き落とされていた時に、神彰は、このふたりの死に遭遇している。神は、この死をどう受けとめていたのだろう。一緒に闘った仲間を失った、そんな大きな喪失感を抱いたはずである。


 この本を読んで、一番気になり、そしてどうしても読まなくてはいけないと思ったのは、田村敏雄がつくっていた雑誌『進路』である。1954年5月に創刊され、二カ月休んだだけで、毎月一回出されたこの雑誌は、田村がなくなる1963年8月まで、115冊発刊されたという。宏池会の機関誌であったこの雑誌は、実際は田村敏雄が「進路社」という会社をつくり、田村の自宅を発行所にしていた。沢木は、この雑誌についてこう書いている。
「彼が出しつづけた「進路」には、日本という国、日本人というものへの熱い思いと夢がこめられている」と。

 この進路という雑誌に、長谷川濬は何度か寄稿している。田村が満州に夢を賭けたように、長谷川濬もまた満州に夢を求めたひとりであった。
 「池田が時代の「子」であり、下村がその「眼」であるなら、田村は時代への「夢」そのものであったかもしれない」と沢木は書いているが、所得倍増という戦後最大の政策の背景にあった政治家たちの思いと、ソ連から優れた芸術を呼ぼうとしていた呼び屋の思いを、一緒くたにしてはいけないのかもしれないが、これを読んだ時、「神は時代の「子」であり、木原はその「眼」であるなら、長谷川は時代への「夢」そのもの」と置き換えてみたくなった。
 田村敏雄があくまでも最後まで敗者であったように、長谷川濬もずっと敗者として、生き延びることになった。私がいま長谷川濬に惹かれるのは、ここに理由があるのかもしれない。


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長谷川濬―彷徨える青鴉