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もうひとつの「虚業成れり」物語

第5回 「虚業成れり」の恩人−木原啓允へ

 11月20日木原さんが、82才の生涯を閉じた。本が出来てしばらくしてから、大泉学園の自宅を訪ねたとき、ずいぶんと衰弱されているのを見ているので、この日が来ることがそう遠いことではないと思っていたのだが、亡くなったという報せを聞いたとき、なにか胸にこみあげてくるものがあった。『虚業成れり』は、木原さんと会って話を聞かなければ、出来なかった本であった。報せをくれた長男の海彦さんが、「本ができて、間に合ってよかったです」とおっしゃってくださった。たしかに間に合ってよかったとしみじみ思っている。ただ私は木原さんの口から、感想を聞いていないのである。一番感想を聞きたかったのに・・・。

 告別式がとりおこなわれた大泉学園の木原さんの自宅への道のり、取材した時のことがよみがえってきた。
 あれは暑い夏だった。2000年の夏、土曜日ごとに自宅を訪ね、AFAのこと、神彰の思い出話を聞かせてもらった。最初に会ったとき、木原さんは「梗塞で頭やられてから、記憶があいまいになってね、あなたの役にたつかどうかわからんよ」とぶっきらぼうに言っていたが、木原さんの記憶はたしかだった。木原さんの思い出話に導かれながら、一時代を築きあげたAFA、そしてそこに青春を賭けた人々のことが書けたと思っている。AFAでかつて働いた仲間たちの武勇伝をなつかしそうに語りながら、ふと「こんな話を神と酒飲みながら、話したかったな」とつぶやき、それまで楽しそうに思い出話をしていた木原さんの歪んだその表情を忘れることができない。失った時の大きさ、そして取り返しのつかない大事なものを喪したことへの痛切な悔悟、それにじっと堪えている姿に、底知れぬ淋しさが感じられた。失ったものを取り戻せない者への冷酷な運命をかいま見たような気がした。

 木原さんが晩年を過ごした2DKの都営アパートには、20人ぐらいの人が集まっていた。女性が多かった。奥さんが亡くなったあと、ひとり暮らしの木原さんの面倒をみていたヘルパーさんたちのようだ。最初に木原さんを訪ねたとき、お茶ばかりか、茶菓子を出してくれたりする女性がいて、最初は身内の人かと思ったのだが、あとでヘルパーさんだったことがわかってちょっと驚いたものだ。木原さんの話では、ヘルパーさんのなかには、奥さんが病気の時からの亡くなるまで面倒みてくれた人が、自分の世話もしてくれて、ずいぶん長いつき合いになる人もいると話していたことがふと思い出された。

 木原さんの話に耳を傾けていた部屋につくられた祭壇には、たばこをくゆらせている晩年の木原さんの写真が飾られていた。優しさを隠すかのようにふてぶてしい面構えを見せた木原さんらしい表情が、懐かしかった。
 隣の部屋には、生前の木原さんを偲ぶように、木原さんが出した詩集、手紙、日記などがテーブルの上に置かれていたが、そのなかに『虚業成れり』もあった。少し驚いたのは、本に手垢がついていたことである。木原さんはこの本をもしかしたら何度か読み返していたのかれしれない。それにしても本が厚くなりすぎていると思って、なかを広げてみると、私が出した数通の手紙がはさまれてあるではないか。最初お会いしたとき、「あんたがくれた手紙にそういえばなんか書いてあったな、でもゴメン、どっかにやっちゃたな」と言っていたのに・・・、木原さんはこうして私の手紙をとっておいていたのだ。
 テーブルの脇に小さな本棚があった。この部屋は、木原さんの寝室だったところで、取材のときにはほとんど入ることがなく、この本棚は初めて目にした。本棚には、木原さんにAFAを紹介した菅原克己の詩集をはじめ、詩人らしく詩の本が数多く並べられていたが、その他にも歴史の本、ノンフィクション本、それに木原さんが執筆編集した社史があった。そのなかにマヤコフスキイのオレンジ色の選集3巻本を見つけ、やはりなあという思いがわいてきた。木原さんはよくマヤコフスキイが好きだと言っていた。革命後の内戦時代に「ロスタの窓」と呼ばれたビラを書きつづけていたマヤコフスキイに、神彰のために、ボリショイサーカスやアートブレイキーのキャッチコピーやプレスシートを書き続けていた木原さんは、自分の姿をだぶらせていたのではないだろうか。マヤコフスキイも木原さんも革命に身を投じた詩人だった。戦争直後、共産党活動家として革命を起こそうと政治闘争に飛び込んでいた木原さんは、マヤコフスキイと同じように、革命に理想を抱き、身を捧げ、そして裏切られ、共産党を追放されている。呼び屋稼業に身を落とし、自らを「宣伝詩人」と称した、自虐的な詩も書いていたが、神彰、そしてAFAの活動のなかに、政治革命ではできない、精神の革命が実現できるかもしれないという思いがあったのではないだろうか。身を削るようにして、AFAのためにキャッチコピーを書いていたのは、木原さんにとっては、大衆に向かってのひとつのプロパガンダだったのかもしれない。

 読経のあと、2通の弔電が紹介されたが、そのうちの一通は、消費者金融会社プロミスの創業者神内良一さんのもので、いまは北海道という遠方にいるため最後のお別れができないことを詫びるところからはじまり、生前のふたりを結びつけることになった『プロミス30年社史』をつくった時の思い出をしみじみとつづった長文の弔電であった。決して儀礼的なものではなく、大事な友を失った哀しみがにじみでていた。取材していたとき、木原さんはこの社史をつくっていたときのこともよく話してくれた。「俺はどうも神という名前に縁があるのかもしれないねえ。神内という社長も、神みたいに顔が鬼瓦で、琴桜に似ていたし、同じように裸一貫から事業をやった男だし、気が合ったよ」と語っていた。

 いよいよ棺に白い菊の花を入れて、最後のお別れをするときがきた。愛用していたスティクと帽子、そしてタバコが供えられた棺のなかで、穏やかな表情で木原さんは眠っていた。
 出棺を待つ間、ここで木原さんと一緒に話を聞かせてもらった、AFAのかつての部下で、神彰の専属運転手竹中三雄さんと少しだけ話をすることができた。最後に木原さんと会ったとき、「竹中さんはお元気ですか?」と聞いたら、「あいつちょこちょこここに顔をだしてくれるんだ」と言っていた。竹中さんは、部下だったばかりでなく、木原さんに紹介してもらった女性と結婚したこともあり、AFA解散後も木原さんとのつき合いは続いていた。竹中さんの訪問は、ひとり暮らしの木原さんにとってはありがたかったにちがいない。「木原さんが亡くなって、また『虚業成れり』読み返しましたよ」とおっしゃっていただいた。竹中さんの話だと、前日の通夜には、AFAのかつての同僚の大川さん、芦沢さん、森さんをはじめ七人が集まり、AFA時代の思い出話に花が咲き、また今度同窓会やろうという話になったという。かつて神さんや、木原さんを慕った同僚たちの思い出話に、柩の中の木原さんもきっと喜んでいたのではないだろうか。出来ればこの話に入りたかったろう。取材中に、何度も木原さんは「むかしのAFAの仲間と一緒に思い出話をしたいよなあ」と言っていたのだから。

 告別式が終わり、火葬場へ向かう車を見送り、駅に向かうとき、前を歩いていたふたりの老人が、「あなた神さんのことを書いた人ですよね」と声をかけてきた。AFAで働いていた細川さんと鈴木さんであった。駅まで歩きながら、そして西武池袋線のなかでAFA時代の話をいろいろ聞かせてもらった。
 「いい本でしたね。よくあそこまて調べて書いたですね。もちろんAFA時代のことも懐かしかったけど、僕たちは神さんが満州時代なにをしていたか知らなかったし、AFAがああなってからあとのことも知らなかったので、とても面白く読ませてもらいましたよ。あなたは、AFAの恩人だよ。木原さんも喜んでいたでしょう」
 そんなことをおもに細川さんが話してくれた。
 ふたりと別れてから、地下鉄のなかで何度となく「AFAの恩人か」という言葉を、ひとりつぶやいていた。わずか七年あまりではあったが、AFAは、実に多くのことを成し遂げ、あざやかな光芒だけを残して、消えていった。私の『虚業成れり』という本は、神彰の伝記であったと同時に、このAFAで生きた青年たちが幻を追いかけた姿を描いたものでもあった。所得倍増政策が掲げられ、敗戦から這い上がった日本が、まっしぐらに上昇していたあの時代、幻を追うことが決して夢ではなかった時代、ひたむきに、めちゃめちゃに、突き進んでいた青春の息吹が、AFAにはあった。そんなAFAのことを書き残したいという思いが、自分にはあった。「AFAの恩人」という細川さんの言葉は、それに対する最大の賛辞であったし、こうした言葉を聞いて正直うれしかった。でも私が恩人ではなく、木原さんこそが恩人だったのである。私にAFAの精神を吹き込んだのは、ほかならぬ木原さんだった。木原さんから聞いたAFAの波瀾万丈の盛衰記、そして神彰という男のドラマが『虚業成れり』の核となった。その意味で、私の書いた『虚業成れり』の最大の恩人は、木原さんであったのだ。私は木原さんのイタコになり、木原さんが思った、感じた、神彰を、そしてAFAのことを書いたのである。
 木原さんが「俺も書きたかったよ、神の話は。でも、今の俺には書けない。君が書けよ」と後押ししてくれなければ、書けなかったと思う。

 取材でお世話になった人たちの訃報に接するのは、みなさんご高齢ということもあり、しかたがないことだと思う。ただこうして実際に、「最大の恩人」に最後のお別れができたこと、そしてかつてのAFAの面々がこうして最後のお別れを告げにやってくれたことを知って、ひとつケジメがついたような気がしている。

 木原さん、ありがとうございました。安らかに眠ってください。あの世というところで、きっと神さんが笑顔で待っているはずです。合掌。


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長谷川濬―彷徨える青鴉