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『虚業成れり−「呼び屋」神彰の生涯』刊行裏話

第10回 「青カラス」は誰だったのか

 昨日(6月2日)長谷川濬さんの次男寛さんと会い、お父さんの思い出話をいろいろ聞かせてもらった。話題の中心は、長谷川濬さんが戦後ずっと書き続けていたというノートのことになった。100冊以上あるというこの大学ノートの一冊を先日コピーしてもらった。これは1960年8月濬さんがサハリンの航海中に書いたものであった。安保事件の直後ということもあって、政治へのコメントも随所に見られる。興味深かったのは、安保のさなかに公演していたレニングラードバレエの感想がに3頁にわたって書き綴られていたことだ。神さんのことにもちょっと触れていた箇所がある。航海中に読んでいた松本清張の本の感想のなかで、神さんの伝記なんかは、松本清張が書くと面白いだろうと書いている。
 このノートの表紙には、ロシア語で「青ガラス」という表題と、詩人のメモという副題が書かれている。
 この青ガラスという文字を見て、真っ先に思い浮かんだのは、神さんがゴーストライターに書かせた自伝『怪物魂』のことである。
 この書のなかで、神さんは有吉佐和子との電撃結婚を嗅ぎつけて記事にしようとした若い記者とのやりとりをいろいろ書いているのだが、ここでこの記者のことを「青ガラス」と呼んでいるのだ。この「青ガラス」なる記者とのやりとりは、「怪物魂」のなかでも気になるところであった。というのは、有吉佐和子の結婚について、それが決して、神さんにとっていい結果をもたらさないだろうと予言じみたことを言っているからだ。そして離婚になった時も青ガラスは、再び神さんの元に現れる。この青ガラスなる記者は実在したのかどうか、気になっていた。一番近くにいた木原さんにもこのことを尋ねたのだが、思いあたる人はいないということだった。当時結婚に反対していた人は、AFAの理事の中にはいたが、マスコミの人間となると、そんな人は知らないなあということであった。
 平岡正明さんを取材した時も、平岡さんは、「青ガラス」って誰だったんだろうねえとおしゃっていた。
 おそらく実在する人物ではないのだろう、ふたりの結婚に対する暗い予感を象徴する存在ということで、神さんがつくりあげた人物なのだろうといまでは思っている。
 しかしこうして長谷川濬さんのノートのタイトルがよりによって、「青ガラス」だったということは気になるところだ。長谷川濬がこのノートを書きはじめたのは、1948年ごろからだったという。このノートをドン・コザック合唱団を呼ぶことになって、神さんと一緒に過ごす時が多かったときに、神さんにも見せたりしたことはなかっただろうか。もちろん長谷川濬が「青ガラス」なる記者であったということではなく、「青ガラス」という架空の人物をつくりあげたときに、「青ガラス」という印象的な言葉がどこかで思い出され、そのように命名したということは考えられないであろうか。さらには自分の転落を語るシーンで、かつて一緒に仕事をしながら、追い出してしまった長谷川濬の影が、蘇ったということも考えられる。
 昨日私は、またこのノートのコピーをいただいたのだが、その表紙には、ロシア語だけでなく、日本語で「青鴉」と書かれてあった。そして青ガラスのスケッチも。
 長谷川濬にとって何故このノートのタイトルが青ガラスだったのも気になる。
 もしかしたらこのノートの最初の一冊にいきさつ経緯についても触れられてあるかもしれない。
 長谷川濬を追う旅ははじまったばかりなのだが、きっと神さんは、いつも影のようについてくる、そんな予感がしている。


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