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長谷川濬処女作『或るドクトルの告白』発見!

 長谷川濬の処女作の存在を知ったのは、彼が書き残していた日記ノートを読んでいるときだった。この日記ノートは一九五〇年から亡くなる直前の一九七二年一二月まで書かれたもので、一三〇冊ほどあるのだが、これをずっと保管していた次男寛さんからお預かりし、いまはすべて私の手元にある。この中で長谷川は、何度か自分の処女作について触れている。

「ネオンサインが歩道ににじむように映って、むし暑い七月の夜の大阪。私は追放されました。姦通罪で。何も知らない、戯れの気分がこんな結果になったのです。
 私が廿三の時でした。
 人生の重大な危機が、小事件か、性のあやまちか、まじめな恋愛事件ではなく、年長の人妻にゆう惑された少年の告白でした。
 「或るドクトルの告白」を書きました。あれは私の告白であったのです。はじめて書いた小説です。」(一九五四年九月)

「二十二、三才の男は危ない年齢だ。俺は性のとりこになって地獄へ落ちた。母に人非人とののしられてなぐられた年だ。そしてはじまったトルストイ耽読が。「クロイツェルソナタ」の深淵をのぞきこんだ。トルストイは俺の魂の根に入りこみ、俺はやがて「あるドクトルの告白」を書いた。初めて書いた小説だ。時に二五才であった。」(一九六六年三月)

 この処女作は、彼にとっては思い出深いものであったこともわかる。

「私の書いた数ある小説のうちで心に残るものは、「或るドクトルの告白」「ウルジュン河」「さぎ」「雪あかり」です。」(一九五七年九月)

 長谷川濬の文学の出発点となったこの『或るドクトルの告白』は、ほとんど誰の目に触れることもなく半世紀以上埋もれていたままであった。長谷川濬の評伝を書いている自分としては、絶対に探し出さなくてはならないものだった。処女作であり、彼自身が心に残る作品としてあげているだけでなく、彼の文学の原点と言ってもいい贖罪について語っているからだ。ではこの長谷川濬の処女作はどこにあるのか。彼の他の多くの著作と同じようにどこかに散逸してしまったのだろうか。寛さんに聞いても、まったくわからないし、そうした作品があることさえ知らないという。

 ではどこにあるのか? ヒントはやはり濬が残したノートの中にあった。ある時彼は大阪外語大学の師であった北西太郎を回想するなかで

「私に文学をふきこんだ自由人、寛大でもの分かりのいい人、奥さんと子供を愛する、日本の古典に通じる人、私の小説を無断で掲載した人、男女の微妙心に通じる人、ああ云う人になりたい。」(一九五四年八月)

と書いていた。ここでいう私の小説というのは、叔母との不倫事件について書いた「或るドクトルの告白」のことに間違いない。そして北西太郎が無断で掲載できるのは、大学で発行したものであろう。そしてこの時代に『咲耶』という雑誌が大阪外語大学で発行されていることがわかった。

 書誌データではヒットせず、実際にこの雑誌を閲覧するしかないかということで、出張を利用して大阪外語大学(現大阪大学)の図書館を訪ねたのは、二〇〇五年一一月のことである。大阪外語大学図書室ですべて説明、司書のFさんも外語大出身の作家の書いた処女作があるということで興味を持ち、すぐに調べてくれたのだが、戦前に発行されていた『咲耶』は、図書館には保管されていなかったようだ。どこかで保管されていないかということで、あちこち問い合わせてくれたのだが、これにばかり時間をとらせるのも申し訳なかったので、この日はいったん引き上げることにした。すぐにでも見つかりコピーして持ちかえることしか頭になかったのだから、ちょっとがっくりしてしまったのだが、Fさんが今後も調査しますし、なにかわかったらすぐに連絡しますととても親切に対応してくれたので、あとは時間が解決してくれるだろうと思いこの日大阪をあとにした。Fさんからお便りが来たのはこれから四カ月後であった。まだ「咲耶」を見つけ出せないでいる、申し訳ないということだったのだが、ご親切にも図書館で所蔵している『扉』という校友誌に掲載されていた長谷川濬の八作品をコピーしたものが同封されていた。処女作が見つからなかったのは残念であったが、送っていただいた作品コピーはいずれも貴重な作品資料ばかりであった。ただ処女作探しは、また振り出しに戻ってしまった。

 突破口は意外なところにあった。そして結果を言えば、まさに灯台もと暗し、探し物は大学の中にあったのだ。
 幕末に海外で活躍したサーカス芸人の足跡を丹念に追った『日本人登場』を読んで衝撃を受け、著者三原文さんにこちらから手紙を書き、一度お会いしたいとラブレターを送った。すぐに返事が来て、二〇〇七年秋にお会いすることになり、その後もメールのやりとりをしていたのだが、三原さんが大阪外語大出身ということを思い出し、『咲耶』について問い合わせてみた。二〇〇九年の春先だったかと思う。しばらくして三原さんからそういえば箕面校舎で同窓会「咲耶」という看板を見た気がする、連絡してみたらということで、同窓会の電話番号が送られてきた。さっそく電話すると、電話をとったFさんが確認のためもう一度FAXで作品名と作家名を記して送って下さいと親切に応対してくれた。そしてそれから何日もたたないうちに、大阪外国語学校校友会が一九三二年に発行した『咲耶』に掲載された「或るドクトルの告白」のコピーが送られてきた。封を開けて、コピーを見たとき思わず「あった!」と叫び声をあげた。あっけない結末といえないことはないが、およそ七年間探し求めていたものが見つかったのだ。

 筆名は畦川瞬造となっているが、タイトルは「或るドクトルの告白」と長谷川濬が日記ノートで書いていた通りであるし、何よりも書かれている内容が、彼が二三歳の夏に経験した叔母との不倫事件の顛末であり、彼以外に書ける者はいない、そして一九三二年は彼が大阪外大を卒業した年でもあることから、長谷川濬の処女作であることはまちがいない。叔母との不倫を書いたものだけに、本名で掲載することに、北西が気をつかいペンネームを使うように指示したのかもしれない。

 この小説は過ちを犯した自分自身を主人公とはせず、不倫の相手の夫であり叔父である医者の独白という形式をとっている。あくまでも客観的に事件をふり返ろうとしたのだろうか。ただ最後に妻と不倫した甥の手紙が紹介されているのだが、ここでその時の自分の気持ちを正直に吐露している。

「・・・私は二十二歳で、始めて人間らしい苦悩を知りました。何にも弁解しません。これから新しい人生の道が開けるのか、どうか、慈愛の一撃を永久の愛の印として、私は去ります。死ぬ事は愚です。重い荷を背負ってよじ上がる――之が私の人生行路でせう。新しい生活と真面目な態度とは何であるか、私に判って来た様な気がします。私は泣きません・・・」

 ここで書かれている不倫事件が大きな理由となり、彼は逃げるように満洲に向かう。そして満洲で彼は本格的に小説を書き始め、二足のわらじをはきながらではあったが、作家として活躍することになる。『或るドクトルの告白』を書くことで、いままで眠っていた長谷川一族の血脈が目覚めたのかもしれない。父淑夫、兄海太郎やりん(サンズイに「隣」の旁)二郎、そして弟四郎と同じように濬もまた作家として歩き始めることになった。その意味でもこの処女作は大きな意義をもっている。
 ただそれ以上に私にとって衝撃だったのは、「重い荷を背負ってよじ上がる――之が私の人生行路でせう」という一節だった。最初に読んだとき思わず震えを感じたほどだ。原罪を背負って生きていく、これこそ長谷川濬のその後の生き方なのである。満洲での敗戦、そして引き揚げの時幼子を亡くし、戦後も貧困のなか一八歳の長男を病死で失う長谷川濬は、この罪をすべて自分で背負い生きていくのである。死ぬまで彼はこのことを罪として自ら背負い、生きていた。それは死よりも辛い道、苦しみながら生きるという道を選んだことになる。二三歳の時に、そんな自分の将来を予言していた、いや決意していたことに驚いたのである。この一節を読めただけでも、この処女作を見つけた甲斐があったというものだ。


 長谷川濬の処女作『或るドクトルの告白』は、戦前から同人であった文学同人誌『作文』の記念すべき200号に掲載されることになっている(2010年5月刊行予定)。戦後発表する場に恵まれなかった長谷川濬が、作品を発表しつづけた雑誌に処女作が掲載されることを喜んでくれるのではないかと思う。彼が亡くなったとき、追悼号を出してくれたのもこの雑誌であったのだから。


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