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【連載】長谷川 濬―彷徨える青鴉

プロローグ 負けつづけた男−長谷川濬

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 長谷川濬という作家の足跡をたどる旅がはじまる。長い旅になるだろうと覚悟を決めている。長谷川濬は、それだけ大きな存在感をもつ作家である。
 といってもこの作家のことを知っている人は少ないと思う。文学史に名を残すこともなく、長谷川海太郎、りん(サンズイに「隣」の旁)二郎、そして四郎と共に、長谷川四兄弟のひとりとして、あるいは戦中のベストセラー小説、バイコフの「偉大なる王」の翻訳者として、また満映の甘粕理事長が、敗戦後自殺をはかった時、そこに立ち会っていた男として、いわばエピソードとしてしか紹介されなかったこの男のことが気になったのは、たぶんあまりにも見事に負け続けていたこと、そして終生ロシアにこだわっていたこと、なによりも生涯ずっと書きつづけていたからではないかと思う。
 神彰という、ある意味で華麗に生きた生涯を追いながら、神に見捨てられた男のことが、ずっと気になっていた。アートフレンド立ち上げのきっかけになったドン・コサック合唱団招聘のそもそものきっかけをつくったのは、長谷川濬だった。この公演が成功したことで、華やかな表舞台で次々に奇跡を生み出した神の成功と、見事なコントラストを描くように、長谷川は、ずっと不遇をかこうことになる。
 光と影というだけではすまない、あまりにも酷な運命が長谷川の前に待ち構えていたのである。神と袂を分かったあとは、自分の病気、息子の死、親との確執、そして正業につけず、生活苦と闘いながら、サハリン航路の通訳をして生計を得ていた。それでも文学への思いは決して萎えることなく、膨大な量の小説、詩、エッセイを書きつづけていた。しかしそれを発表できる場は、同人誌に限られ、多くの人の目に触れることはなかった。しかも晩年は同人誌への会費も払えないというぎりぎりのところまで追い込まれていた。彼は何を書きたかったのであろう、何故書きつづけたいと思ったのであろう。書くことに執着しながら、必死に生きたこの男の生きざまを書きたいのである。

 『虚業成れり』を脱稿した昨年末、私は神奈川県立図書館にいた。普通だったら長年書き続けていた本を書き終え、その余韻に浸りたい時だったのに関わらず、憑かれるような思いに引きずられ、ここで長谷川濬が寄稿していた同人誌『作文』のバックナンバーをめくっていた。彼が書いたものをどうしても読みたい、読まなくてはならない、その思いに駆られていたのだ。
 神彰にとって負けることはエネルギーで、そこから立ち上がり、挑戦し、成功をおさめるのにたいして、見事なくらい、なしくずしで負け続けていた長谷川濬が書き残したもの、それをとにかくすぐにでも読まなければならないという一種使命感のような思いとでもいえるかもしれない。
 満州に夢を賭けた男が、満州崩壊と共にそれを失うばかりか、最愛の子供も喪い、友を亡くし、何度も再生を誓いながら、そのたびに挫折しつづけた男、それでも書き続けることを選んだ男のエネルギーの源泉を知りたいのだ。

 この連載では、長谷川濬という男の生涯を追いながら、彼の残した作品も少しずつ紹介していきたいと思っている。ほとんど目に触れることがなかった作品を掘り起こす作業もしていくことになる。とりあえずいまわかるだけの彼が残した作品リストを掲載している。もしも読者の誰かが、ここに出ている作品について知っていることがあれば、ぜひ情報を寄せていただきたいし、またリスト以外で知っている作品についても教えてもらいたいと思っている(メールフォームはこちら)。

 長谷川濬の作品探しからはじまったこの旅だが、実はいま私の手には、『青鴉の手記』という、彼が1952年から死ぬまで書きつづけていたノートのコピーがある。100冊以上も残されたこのノートをまだ全部読んでいるわけではない。これを読みながら旅は続くのだと思う。日記というよりは、作品メモ、試作、感想雑記、読書ノートとともいえるこの手記を手にし、読むなかで、ますます長谷川濬という男の魅力にとりつかれてしまった。あくなき書くことへの強い意志、そして挫けそうになりながら、生き抜こうとする気持ちの強さ、それがノートのすみずみまで染みわたっているのだ。
 このノートの存在を知ったのも偶然だったし、これを読むことが出来たのも偶然であった。この偶然を私は大事にしたい。もしかしたら長谷川濬の「青鴉の手記」は、私に読まれるのを待っていたのかもしれないのだから。
 まだ目的がはっきり定まった旅ではないので、しばらくは、この「青鴉の手記」を読みながら、進んでいくことになる。
 とはいえ、あまり知られているとはいえない長谷川濬のプロフィールをまず紹介することから、この連載をはじめたい。


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