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【連載】玉井喜作と若宮丸漂流民の接点をさぐる

第2回 日本よりオホーツクへ

 玉井喜作の『百年前、日本人数名によるシベリア経由の世界紀行』から、漂流してからオホーツクへ向かうところまでをまとめた「日本よりオホーツクへ」をそのまま引用する。(筑摩書房版世界ノンフィクション全集47 小林健祐訳より)
 は、おもに玉井が依拠した『世界周航実記』の記述とちがっているところ、ないところを中心に、筆者がまとめたものである。


「われわれはみんなで16人だった――日記はこの言葉で始まっている――われわれ一同は江戸へ米を輸送するため、1789年11月27日(注1)に船長平兵衛といっしょに、帆船「若宮丸」で仙台から程遠からぬ石ノ巻港から出帆した。航行中不運にも船の舵が取れてしまった。そのうえ激しい嵐から難を避けるためには、マストさえ切り取らざるを得なかった。いまや救いなきわれわれは舵とマストなくして、一体何をしたらよいというのか? もちろん船は波に動かされるままになった。運がよかったのは、船に米を満載していたことで、このためわれわれは食料にはこと欠かなかった。
 山も島も海岸もぜんぜん見ずに半年が過ぎたが、この期問はわれわれには永遠に思われた。しかし、ついに1790年6月5日に、夏というのに雪と氷でおおわれた未知の島に上陛した。最初の10日問は、ここには生物がぜんぜん見られなかった。第11日目になって初めてある村にはいってみると、住民が約三十人くらい穴の中に住んでいた。外観について言えば、男たちは髪の毛は短く、あごひげは長く、顔は黒かった。着物は羽毛や虎の毛皮から作られていた。言葉はわれわれのとは全く違っていた。住民を初めて見た時には、眼前にいるのは人間ではなくて野獣だと思った。外観はこのように粗暴に見えたが、住民たちは好意をもってわれわれを迎えてくれた。男たちはわれわれの船を陸地に運んでくれたし、女たちは魚や水や乾草を持って来てくれた。その乾草で寝床もこしらえてくれた。ところで、われわれの踏み込んだこの異郷の地は、べーリング海峡から程遠からぬ所にある島だった。この島は1787年にモスコー出身の船長ゼリコフ(注2)によって発見され、原住民との間に激戦があった後、一行に占領されたものだった。(注3)
 女について言えば、既婚者は髪の毛を高めに留めていたが、未婚者はこれを三つの束に分けてぶら下げていた。女たちは口には口ひげのいれずみをし、また鼻の真中に棒を一本通して、それに魚の骨とかガラスなどから作られた環が飾られていたが、それは奇妙に見えた。われわれは10日間、当地野蛮人のいる荒野にいた――こう旅行者たちは話を進めている――すると、毛皮ばかりを積み込んだ船が一隻この島に着き、船から武装した外国人が十人(注4)降りて来た。われわれを尋問したのは、ロシアの役人や兵士たちだったが、お互いに理解し合うことはできなかった。ただわれわれは日本から来たということだけはわかってもらえた。翌朝、われわれはこれらのロシア人たちによりその船に収容され、これから50露里離れているナハツカ島へ連れて行かれた。この島はロシアの統治下にあり、ロシア人四十人、原住民七十人(注5)が住んでいた。ここには十か月滞在したが、この間、ロシア人はわれわれに食料をくれ、それに対しわれわれは彼らが魚をとったり、狩りをしたりするのを手伝った。この島自体には木は一本も茂っておらず、あしに似た草が数種類生えていただけだった。これは島では燃料に利用された。ここの住民は特に鮭や蝶鮫(注6)など、また死んだ鯨やその他の海棲動物などもよく捕えた。そして彼らはとった魚をそのまま海水で煮て食べたり、生のままで食べたりした。
 武器には、長さ二メートルほどの棒の先端に毒のついている石を結びつけたものが使われた。1791年春、われわれはガラノフという名のロシアの船長と知り合いになったが、彼はわれわれ一同をロシア大陸へ、またその後ヨーロッパヘも連れて行くよう骨折ってやると約束してくれた。

 日本は外国と今までに一度も条約を結んだことがなかったし、当時はだれにも海路で帰れることを思いつかなかったので、われわれが故郷へ戻れるなどとはその当時には考えられなかった。(注7)
 わが船長平兵衛は気の毒なことに、ナハツカ島で冬を過ごすうち(注8)に亡くなり、一同の人数は15人だけになった。これだけがガラノフ船長といっしょに出発した。北を目ざして25日間(注9)航行すると、ナハツカ島より四百露里離れているサンバショ島へ着いた。ここでわれわれは、そこの住民たちがこの冬狩で捕えておいた動物の毛皮をたくさん船に積み込んだ。そして今度はアミセイスク島へ向かって進んだ。この辺では夜がたいへん短かったので、昼と夜の区別はつけられそうもなかった。われわれの水時計によれば、真夜中ごろになってやっと暗くなり、午前一時にはもうすっかり明るくなった。――ここでわれわれは初めて昔の事件を聞いた。日本の船長光太夫も今から15年前、同僚といっしょにこのあたりで嵐にあい、その船が難破したのだった。彼はロシア政府の援助を受けて、オホーツク、ヤクーツク、イルクーツク経由でペテルスブルクまでは陸路で進み、そこからは軍艦に乗せられて故国へ送還されたと聞き(注10)、たいへんびっくりした。
 ナハツカ島を出発して10日すると、もう氷山が見られた。船長自身もこれには驚いた様子で、こう説明した。「こりゃー、 三百露里先へ進みすぎたぞ。もうアラスカ(北米)の近くに来ちまった」(注11)そこでわれわれまアミセイスクヘ戻った。ここから43日間(注12)旅を続けて、1791年6月25日にナハツカから3870露里(注13)離れているオホーツク港へ着いた。船長はわれわれをそこのいちばん偉い港湾役人に紹介してくれたが、われわれはこの人から初めてパンをもらったのだった。」


(注1)この日付は、『世界周航実記』の日付と同じであり、したがって旧暦に基づいたものである。 [戻る]

(注2)船長ゼリコフは、玉井のドイツ語の原文では、Serikofとなっており、おそらくはシェリコフのことだろう。 [戻る]

(注3)この島の占領についての記事は、『世界周航実記』にはないもので、玉井が加筆したものである。 [戻る]

(注4)『世界周航実記』では、「都合7名ばかり」とある。 [戻る]

(注5)『世界周航実記』では、この島の住民について「この地総数百人程も住居せる趣きなり。其中に露西亜人は四十人程居れり」とある。 [戻る]

(注6)玉井のドイツ語原文を確認する必要があるが、『世界周航実記』では「鱈、鮭、鱒」はあるが、「蝶鮫」はない。 [戻る]

(注7)この一文も『世界周航実記』にはなく、玉井による加筆と思われる。 [戻る]

(注8)平兵衛が亡くなったのは、アッカ島に移動する前の6月8日のことである。 [戻る]

(注9)『世界周航実記』では4月3日にアッカ島を出発、4月27日にサンバショ島に到着とある。 [戻る]

(注10)『世界周航実記』での光太夫についての記事は「此島へは先年勢州の光太夫漂着せし由、後にて聞き知りたり」とあるだけである。 [戻る]

(注11)『世界周航実記』には、300露里北へ来すぎたとはあるが、「アラスカ」という地名はでていない。 [戻る]

(注12)『世界周航実記』では「廿三四日(23、4日)」とある。 [戻る]

(注13)オホーツク着は6月28日になっている。ナアツカ島から3870露里という距離については『世界周航実記』にはでていない。 [戻る]


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