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【連載】玉井喜作 イルクーツク−トムスクの旅

第1回

イルクーツクで半年間なんとか生きのびた玉井は、ついに西へ向けて旅立つ。真冬のシベリア街道を橇で横断するという無茶な旅についた玉井。『シベリア隊商紀行』の元となった日記。

イルクーツク−トムスクの旅
   露歴 1893年11月25日 明治26年12月7日
   露歴 1893年11月26日 明治26年12月8日
   露歴 1893年11月27日 明治26年12月9日

イルクーツク府トムスク府間
千五百五十五里間
紀行(三十七日間)
起 明治二十六年十二月七日(木曜日)
  (露暦 千八百九十三年十一月二十五日)
至 明治二十七年一月五日
  (露暦 千八百九十三年十二月二十四日)
十一月二十五日
 昨夜イルクーツク府マトリェシンスカヤ町第十五号トリフィモボイ宿に椎名保之助君と共に宿す。午前五時宿を出てブロノフスカヤ町なる馬車宿に至る。門尚閉づ。大声を発し日本人なりと呼ぶ。御者扉を開く。扉内に入り見れば、馬車の用意整わず。馬車夫共々尚離床の×なりし。余は、洗顔して親方二人と共々ヲーモリのスップ、パン及び茶を喫し、腰拭の上に一睡を催す。
 今朝懐中を改れば22ルーブル55カペイカあり。我凡二十五円八十銭なり。内20ルーブルはトムスク迄車代食料なれば、残金2ルーブル55カペイカこそ千五百五十五里、二十余日間の小遣なり。
 本日出発の商車隊は75橇より成り、壱人毎に5橇を××し居れば、都合十五にして、それに親方弐人、小生と総勢十七人なりし。
 このカラワンの荷物は、支那茶にして、イワン・ジーグリット・クリモフ−三五才、イワン・マルチェビッチ・チェーリキン弐人にて、トムスク間一布度(フント)に付き、1ルーブル20カペイカにて請負ひ、1橇に凡23布度を積み居れば、毎橇の便30ルーブル、則ち我凡21円なり。
 午前八時四十分茶上に乗り、中軍となり、出発す。途中露国商会に至る。
 クルッチコフ氏あり。氏曰く、余は君の別れに臨み一言を呈せし。
 「君は全世界を商業大学となし、広く各国を漫遊して、各国の商業を蓄する。商業学を実地に研究し、漫遊を終るの日、則ち商業大学卒業の上は、専心日露貿易に従事し、彼我の往復を頻繁にし、末は其国状に通じ、両国間の商業の隆盛を謀ることを切望す。且つトムスク着の上は、書状を発せられる可し。当商会よりも現地支店に向け、君の為め便宜を謀る様通ぜん云々」
 椎名君余を送りて、1里程なる舟橋迄至る。余は別れに臨み、氏に20カペイカを與ふ。椎名君と去る八月十一日イルクーツク警察署長フォンの宅に於いて、偶然相会し以来百七日間、幾多の艱難辛苦を共して、共々血を×て兄弟の約を結び、日本人四千有余万の多きも、明治二十六年の今は、ウラル以東バイカル以西、唯弐人相愛の情は、自ら加りと、其情恰も(あたかも)真の兄弟も異ならず、然れば今氏と別れざる場合に立ち至り、共々握手の礼をなし、告別せん時の相互の胸中果して如何。
 夫れより一里進んで木橋あり。恰も(あたかも)釣橋の如くなりし。
 尚三里進んで、一村あり。戸数数百。此地修道院あり、寺塔厳然雲に聳え壮麗華美を悉
くして(尽くして)一目驚きに堪えたり。余は常々イルクーツク市中より遥か之れを眺め居たりしが、今日接っせんは、初めてなりしも、其宏壮花(ママ)麗、イルクーツク市中新築の大寺院に比たり。
 是より五六里の間、アンガラ川岸に沿ふて、馬を馳る。十一時半イルクーツクより一一里の地に於いて、車を止め、車卒共と農家に入り、喫茶せり。余は一二時間は車を止むれば後にして、喫茶せんと日記を書きつもりに居りしに、彼等は喫茶して直ぐに出発の旨を報ずる故、直に(すぐに)茶を食せんに、既に湯なし、依って携ふる所の×を出し、凍りたる儘にて食せんに、冷かりし故腹痛を催す。
 二里進んでボコヴスカヤ駅を通過す。駅馬車取扱所々に郵便箱あり。此地より十里間安眠す。
 イルクーツク府より三十里間はアンガラ川に沿い、或いは三十間、若しくは四五十間を隔り、馬を馳せりしも、スフォヴスカヤ村より凡そ四五里手前より、非常に川を隔てる様見受けたり。川向かい30里間小山而己にして、山土、小樹の影見受けざりし。
 午後6時頃ボコヴスカヤより、2と1/4里進んでスフォヴスカヤ村に着す。時に寒気強く、此地に宿する哉と見ひ、大に安心して一息付きしに、尚十五里進みざると聞き、嗚乎の他なかりし。九時過ぎにビリクチ村に着す。此村は戸数数百、大寺院あり。宿に着きし時、手足叶わず。殆ど為す所を知らざりし。凡そ三十分を経て漸次暖気が廻り、漸く我手足をしるなりたり。ヲーモリ魚、パン及茶を喫し、始めて全身に暖気廻れり。途中寒気強き為、喫煙せざりし、又歩行者一人を見る。本日は降雪なかりしも寒気は非常に強かりし。
 スフォヴスカヤ村の手前にて、足冷たく、殆ど難堪を以て、車を下り歩行せし時、坂にて三回倒る、車卒一同大笑いす。此日隊長弐人テルモ−フ、クリノーフ用事を以て町に残りしが、十二時過ぎ目覚め見れば、不知内(知らない内)に着し居たり。
 本日は羊毛製の長靴を着け、長手足袋壱足、フランネル股引一つをはき居りしに、漸く足に寒気を受けるとは実に予想前にして、日々増寒、長途旅行思ひやらるるなり。
 之夜ブリキングリ村に着し、宿より六、七軒手前の家の所に、暖炉をたりを見、其火に食い付きたき心持せり。
十一月二十六日   8/12
 午前一時起きて隊長弐人共にパン及び茶を喫す。昨日足冷へしを以て、更に長毛靴下及毛織股引(トポルコーフ氏よりの贈物)及毛入×(プリクロフスキー氏部下士官よりの贈物)及毛糸手はめを着け、今日は如何に寒気強くても平気ならんと思う。我、足の冷え甚だしく、殆ど感覚を失う程なりし。再び腰掛けの上に安眠し、五時起きて喫茶し、十一時頃近傍の小店に至り、
  10カペイカ (ドイツ語表記)  マホルカー(煙草) 6カペイカ マッチ入り
  2カペイカ (ドイツ語表記)2枚 3カペイカ マッチ 合計26カペイカ散財す
 九時三人にて車卒共の食後、ヲーモリ、ソップ、パン及び茶(バター付き)を喫し、十一時出発す。テルミンスカヤ迄十二里間茫々たる平原なり。粉雪あり。弐時頃同地を通過す。村の入口に税関の如きものあり。村の長さ凡そ弐里半、製造所の如きものあり、寺院あり、電信郵便あり。
 三時半頃ウソラリエを通過す。市場あり、製塩所(山塩)あり。当地に着し、製塩所なかりせば、当地方の人民は欧州より輸入せる高価の塩を食せざる可らざるに、幸ひにも当地に在るは天の賜なり。当地製塩イルクーツク府に於いて、一布度(四貫三分目余)65カペイカ、即我凡四十五銭、又一行(百九匁余)2カペイカ、即ち我凡壱銭×金なり。
 同村端に墓地あり。墓地を過ぎ間もなく、日全く没し、十数里の間樹林中馬を馳せる。七時過ぎ、マリチンスカヤ村に着す。此時手足殆ど切断さるる如き感あり。先づ此村にて喫茶、暫く休息する事ならんと。車を下り、車卒に問わば、尚十二里ブレト、クリモフ親方の宅迄行かざる可らずとの一言を聞きし時は、恰も地獄に行て、百鬼に金棒を以て乱打さるる感あり。
 夫れより十二里間茫々たる平原にして、生憎降雪の為め、橇道沿江電柱はなく、一本の樹林なく、一の山を見ず。車卒共も常々通過して、心得居るにも係わらず、目標なきを以て、或いは東に走り、或いは南に馳せ、殆ど困難を極めたり。恰も大洋に於いて汽船が磁石を失いし如く、梶を失ひし如く。時々小生は足益々冷え歩行して暖を取らんが、雪深くして歩行する能はず。毛皮外套を頭よりかぶりて、車上に横に居りしに、不幸にも深雪の中に落込み、雪は首の中に入り、其困難、たとふるにものなく、如何に将来我大事業の為めには、千辛万苦は飲を労するが如く覚悟で居りとは謂え、殆ど耐忍袋の緒も切れんとせり。鬼でも此勢にては、朝迄之平原中を漂流せざる可からずと決心し、たとひ死すとも可なり。運を天に任せ、天の為す×に従いにと覚悟をなせるに、幸いにも十一時半頃灯火を見つけ、一同大に(大いに)安心勢いを得て、クリモフ親方の宅に着かじ。十二時頃なりし。
 車卒疲労は勿論、馬も非常に疲し、数度の笞を加へざれば、動かざりし。朝宿を出でしより、一同一椀の茶は勿論、一片のパンも食せず。一分間も休息せざりし故、宿に就き、酒を呑み、塩漬キャベージ、松茸塩漬、パン及び茶(ドイツ語表記)を喫せし時の愉快さたとふるものなく、腹中の虫も其美味なるに驚き入りたるならん。
 十二時過ぎ天井下の高寝台に登り、就寝す。
 歩行者一人を見る。昨今両日の困難は兄たりがたり、亦弟たり難し。

 以上クリミンスカヤに於いて書写。
十一月二十七日   9/12
 八時半起きて、大便を行おうとて、便所を聞けば、なき故、勝手の所にてなさる可しとの答えを聞き、実に驚を喫せり。如何となれば、余は西比利亜に生活する昨日を以て満一年とす。イルクーツク以東及びイルクーツクに於いて如何なる貧家に至るも便所なき家なし。殊に此家は家族も子供も多きを以て10数人雇入等を合わせ、弐十人以上なる可し。且つ生活も豊富の様見受けらるに、一個の便所なきは、実野畜の極と謂ふべし。依って、余は家敷内に於いて、豚舎を見い出し、之れに入り用便したり。
 洗顔して、カルトフエル、パン及び茶(ドイツ語表記)を喫す。兄行きのハガキ認む(したためる)。(此書状は書き添をなし、二十九日午後四時ザラリナスカヤ村に於いて投函す)
 今朝東京出発前伊藤琴兄より贈りし(贈られし)靴下をはき添えたり。
 天気快晴、小雪あり。
 十一時塩漬キャベーツ、パン、喫茶
 十二時牛肉スップ、キャベーツ、パン、喫茶
 十二時前、日本にて所謂三百代言らしき露人来り、暫く談話し後、曰く「旅券なくして内地旅行は出来ざるなり。君之れを取持するや」。余答えて曰く「素より然り」。彼れ曰く「拝見せし」。余曰く「節角の御所望なれど、荷物中にあれば御望に応ずる能はず」彼小理屈を述べしが、家内の者より追出されたり。
 次今又、一の露人来る。少しは独逸語及び羅典語を解す。暫時筆談す。次で彼れと共に彼の宅に至る。家極めて小さり。小室弐あり。前室には五、六人が、子供読本一の巻を開き読み居れり。日本の寺小屋らしき感あり。主人はトモシェヴィチにて欧露の出生にして、実父は尚彼地に在り。氏は、東京都駿河台の宗教家アルセイ・ニコライ氏を知りを以て、多少日本の事情に通ず。曰く「余は日本に渡航し、全世界の公園地なる世界無比の美国を見たきは山々なれど、旅費なきに、殆ど困難なり。乍然(なれども)時節到来せば、君と共々東京に於いて会する日もあらん」と。
 氏は性堕落にして意気××も、氏は困窮の中も顧みず、余の為、20カペイカ半瓶の酒を求めて余を餐せり。時に七才の一少女不勉強の為、留置を命ぜられ泣き居たる。筆談で聞けば、我(我が)長女綾子と同年同月生まれしなり。余は親として子を見るの情切なり。時にトモシェヴィチ)、余の顔色の変ぜりしを見て、其(その)故を問へり、余は答ふるに、実を以て夫れ(それ)且つ留置されし少女の為に帰宅を乞う。氏曰く「余は未だ妻を迎えず。子を持ちたざれど、今君の親として子を見つつ、真剣を見、親子の情斯くなかる可らず。君に対して今日は此(この)不勉強なる少女に帰宅を許さる。少女喜色顔に満ち、余に握手を求めなし、帰宅せり。
 一時前に宿に帰る。クリモフ親方に馬車代(トムスク迄)として15ルーブルを渡す。一時半、主人クリモフ氏は壁隅に掛けたる神像に向かい、出発の祈祷を初めり(始めり)。家族一同凡(およそ)弐十人整列を旨とし、神像に向へり、主人祈祷を終り、立ち、十字架を画くや否や、一同立ちて三回十字架を胸に画き、終わって直ぐに出発す。時
に一時四十分なりし。
 最初二日は茶上に乗りし故、自由に寝起する能はず。寒気は強く其(その)困難実に甚だしかりしが、本日は余の為に、殊に一台の橇を仕立てたれば、余は一人にて之れ(これに)に乗り、身体自由になり、殊に出発の際、寒気強からざりを以て、余程気楽なりし。
 五時頃より漸次寒気の増したりと雖も(いえども)、旅行里程僅か17里なりしを以て仕合たり。午後八時、十七里を進み、ポロヴィナヤ村を通過せんとす時に、降雪甚だしく、外套を頭よりかぶり、嗚乎是よりチュリモウスカヤ村十八里程、四、五時間寒苦を嘗めざる可らざる乎(かな)と覚悟し居りしに、後より車を呼び止め今夜は、此地に一宿
し、明早朝出立する方好都合に付き、既に宿を求めし云々の言を聞き、地獄で仏に会せん
感ありたり。
 直にキャベージ塩漬、ヲーモリ、パン及喫茶す。此(この)夜天井裏の高寝台に登り、疲労の為安眠す。 本日一銭を費さず。
 本日出発前クリモフ氏の母、余に途中煙草は袋に入れざれば不都合なりとて、一(ひとつ)の小なる古き袋を與へり。

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