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『虚業成れり −「呼び屋」神彰の生涯』 書評

岩波書店 / 2004年 / 2,800円(税別) / 400P / 四六判 / ISBN:4-00-022531-6 C0023
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書評記事(転載)

『東京かわら版』今月の演芸ブックレビュー (2004年3月号掲載)

 戦後、ロシアから「ドン・コザック合唱団」を呼び、全国縦断を決行、芸術に飢えていた国民を熱狂させた呼び屋・神彰の波瀾万丈の熱い人生。ボリショイ・バレエ、ボリショイサーカス、アート・ブレイキーとジャズメッセンジャーズ等々を招聘し、栄光も破綻も味わいつくす。その後の居酒屋「北の家族」経営の成功や、有吉佐和子との結婚、伝説の雑誌『血と薔薇』の発行など、彼のデイープなエピソードには枚挙にいとまがない。

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『レモンクラブ』 (2004年4月号)(南陀楼綾繁)

 自分が平凡な人間であるせいか、どうも強烈な(いわゆる「ショッパイ」)人物を描いた本に手がのびる。最近も、柳下毅一郎『興行師たちの映画史 エクスプロイテーション・フィルム全史』(青土社)がオモシロかった。
「エクスプロイテーション」は搾取という意味、つまり観衆からカネをふんだくる「きわもの」映画のことだ。映画を発明したリュミエール、メリエスからはじまって、『世界残酷物語』のヤコペッティ、魔術師フーディーニ、『フリークス』のトッド・ブラウニング、そしてエド・ウッド、ラス・メイヤー、ウィリアム・キャッスル、新東宝の大蔵貢……。よくもコレだけ多くの怪しい人物が映画界に参入してたもんだと、ヨダレを流しながら読む。ついでに、同書にも出てくるロジャー・コーマン(名前からしていかがわしい)の自伝『私はいかにしてハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか』(早川書房)まで再読してしまった。
 興行師は映画界だけにいるのではない。日本でも、音楽、演劇、サーカス、漫才などさまざまな演芸・見世物を仕切っている。中でも一九五〇年代に、世界を流浪するドン・コザック合唱団を呼んできたのをはじめ、まだ国交のなかったソ連のボリショイバレエ団、レニングラード交響楽団、ボリショイサーカスなどの日本公演を実現し、「赤い呼び屋」といわれた神彰は有名だ。その神の評伝である、大島幹雄『虚業成れり――「呼び屋」神彰の生涯』が出た。
 ボリショイバレエもレニングラード交響楽団も立派な芸術じゃないか、ドコが「きわもの」なんだと云われそうだ。たしかに、「荒廃した日本人の心に希望の息吹を与える」という熱意が、神や仲間たちを動かしていた。しかし、銀行からカネを借り新聞社の協力を取り付け、公演が成功したあと、神は「雲隠れ」してしまい、諸経費を踏み倒すのだ。「文化」を啓蒙しながら、カネは払わない。まるでドコかの出版社みたいだな。やっぱり、神も「搾取」する側のヒトだったのだ。
 カリスマ性と計算高さが同居する神にかかっては、仲間も「搾取」の対象となってしまう。神と一緒にドン・コザック合唱団を呼んだ長谷川濬(神と同郷で、兄弟に『丹下左膳』の林不忘や作家の長谷川四郎がいる)は、追い出されるようにして神の元を去り、生活のためにソ連への貨物船に通訳として乗り込む。やはり仲間だった「将軍」こと岩崎篤も神と袂を分かつ。
 神は自分の手足となるスタッフを集め、「アート・フレンド・アソシエーション」(AFA)をつくる。そこには、キャッチコピーの名手・木原啓允(ぼくの好きな詩人・菅原克己の紹介で入社したという)や、神と同じく大陸育ちの若者たちが揃っていた。のちに「オリバー君」を呼んだりした典型的な「きわもの」興行師・康芳夫(竹熊健太郎が『箆棒な人々』太田出版、でその人物像を描いた)も、石原慎太郎の紹介でAFAに入社している。まるで、ジャック・ニコルスンやフランシス・コッポラ、ジョー・ダンテらが集まった「コーマン・スクール」みたいである。
 著者が云うように、AFAは若さのあふれる「梁山泊」だった。神はスタッフの提案に対して「思うようにやってみろ」と云う、決断の早いトップだったようだ(これもコーマンと同じだ)。しかし、一方では気まぐれであり、自分以外を信用してないトコロがあった。だから、続けざまに興行が失敗したとき、神は誰にも頼ることができず、AFAのスタッフは神の元から去っていく。それとともに、作家・有吉佐和子との短い結婚生活も終わりを告げる。
 成功を続けた神の企画が失敗するようになったワケを、著者はこう書く。
「いままで神を突き動かしてきたもの、それは幻を追うことだった。幻があったから、それを実現しようとして彼は必死になっていた。(略)誰もできないものを神は呼ぶことに生きがいを感じていた。それは自分の心の底から求めていた幻であったはずだ。それが呼び屋として名声を勝ち得るなか、自分ではなく、世間が求めるもの、それを幻として追いかけてしまった、そこに転落の道が待っていたといえる」
 幻を幻のまま追い続けるのは、難しい。とくにいったん成功を味わってしまったあとでは。自身も興行師である著者の大島幹雄は、そのことをよく知っている。大島は、同業の大先輩である神彰に敬意を払いつつも、生前の神に会っていないせいもあってか、つかず離れず冷静に神の人生をたどっている。その距離感がなかなかイイ。
 本書は、四年にわたる取材を経て、サイト「デラシネ通信」(http://homepage2.nifty.com/deracine/)で連載したものがもとになっている。芸能を軸に、日本と海外の知られざる交流史を追っている著者の仕事は、もう少し高く評価されてもイイのでは。
 余談だが、本書には映画のチョイ役的に、多くの興味深い人物が顔を出す。ドン・コザック合唱団に協力した毎日新聞の小野七郎は、戦前の東京日日新聞(毎日の前身)のイタリア特派員で、木村毅の依頼で日本最初の女流洋画家、ラグーザ・玉を取材している。ボリショイサーカスのマジックを見破る企画を「週刊文春」が立てたときに推理を試みたのは、松本清張、戸板康二、円谷英二らだった。
 読み終わって、自分の本棚を見ると、平岡正明『スラップスティック快人伝』(白川書院)と木村東介『不忍界隈』(大西書店)が並んでいる。平岡は、神が資金を出した伝説の雑誌『血と薔薇』を、澁澤龍彦が投げ出したあとで引き受けていて、同書には神彰の小伝が収められている。また、木村は湯島の骨董屋の店主で、神の友人。神の書いた『幻談義』にも登場している。
 神に関わる二冊の本が、隣り合わせにあるなんて。こんな偶然めかした必然もある。
●『虚業成れり』岩波書店、本体2800円。

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「新・調査情報」 2004年5-6月号 no.47 (木原毅)

「幻を追った」昭和の申し子   木原毅

 『砂の器』『白い巨塔」のTVリメイクを機に、何十年かぶりに原作を読み返してみた。ディテールに久しぶりに接して、ああまだこんな時代だったんだなと実感したのは日本と海外の距離、である。和賀英良には渡米が重要なメルクマールとして描かれ、盛大な見送りの後、空港で拘束されるエンディングになっているし、財前教授が渡欧する時は、伊丹で壮行会を挙行し万歳三唱。こんな大時代的イベントは当時の空港□ビーでは結構当たり前に繰り広げられていた光景だったのだ。外国は遠かった。だからこそ「外タレ」が価値を持ち「呼び屋」という職業が成立していたのである。
 ライブはおろかコンサートという言葉すら一般的ではなく「実演」なんて呼ばれていた頃でもある。「実演」の「荷」を外国に求めるから「呼び屋」、その草分け的存在である神彰のはそんな毀誉褒貶に満ちた人生を追いかけたノンフィクションが『虚業成れり」である。
 若い人にはこんな戦後もあったことを知っていてほしい。

 1956年にアメリカからドン・コザック合唱団を呼んで成功するや、今度はソ連からボリショイバレエやレニングラード・フィルを招聘、「赤い呼び屋」と言われ得意の絶頂のなか、有吉佐和子と結婚、2年後に離婚、事業も失敗していったんは表舞台から姿を消す。
 ところが70年代に居酒屋「北の家族」チェーンの経営者として復活。そして98年に亡くなるまで九天九地。全盛期の神と彼をとりまく状況は五木寛之の初期の短編『梟雄たち』を読むのがてっとり早い。著者の大島幹雄も、モデルとなった人物たちを本書の中で列証しながら詳しく解説している。
 神の最も成功した興行はボリショイサーカスだったが、なんとこの「ボリショイ」(ロシア語でグレートの意味)の名付け親は神の仲間たちだったというのには驚いた。国立ソ連邦サーカス団を、ネーミングが大切だと言ってボリショイと書き換えてしまう大胆さ。結果それが本国でも正式名称になったというのだから傑作である。

 また神の経済活動が顕著だったせいか、これまでほとんど語られてこなかった雑誌『血と薔薇』の創刊と廃刊の顛末にも丁寧に触れているのがうれしい。
 68年から69年にかけて「エロティシズムと残酷の綜合研究誌」として発行、いまでも神田や早稲田の古書店では相当高価な額で取引されているはずであるが(とここまで書いて試しにウェブで検索したらなんと去年復刻されていることが分かった。全3冊で11000円、たぶん原版では1冊がそれくらいだろう)、澁澤龍彦責任編集、執筆陣は埴谷雄高に野坂昭如、稲垣足穂、土方巽、種村季弘という垂涎のオールスターズで、篠山紀信が撮った三島由紀夫のヌード「聖セバスチアンの殉教」が自決を予感させるものとして話題になったりした。この版元が神だったのは知る人ぞ知る事実である。知識や人脈を独り占めしない神の一面がうかがい知れよう。
 晩年、有吉との間に生まれた愛娘・玉青との再会のエピソードは、玉青本人に語らせているだけに貴重な証言である。しかもいい話だ。昭和のさまざまな局面と深く関わった神彰、「青い」とか「幻を追う」という言葉がこぼれるような輝きを持っていた時代の申し子だったんだなと感じずにはいられない。ところで本書に何度も名前が出てくる神の片腕・木原啓充という人と僕とは何の関係もありません。為念。

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「日本とユーラシア」2004年7月15日号 (長塚英雄)

50年代大衆公演の成功と神彰のAFA (長塚英雄・日本ユーラシア協会事務局長)

 「波乱万丈」という言葉で言い表すとすれぱ、月並みすぎる。壮絶な、常識人からすれぱ無鉄砲な人生といえるかもしれない。神彰(じん・あきら)の人生はそれほどある種の感動を伴うユニークなものである。だから著者・大島幹雄氏がコツコツと取材した神彰の人生ドラマは、人を惹きつける。
 実は、日ソ協会はこの神彰氏に大変お世話になっている。戦後の日ソ文化交流の草創期の歴史において彼が果たした役割には大きなものがある。著者のような「呼び屋」どうしの感動とは別に客観的にみても評価される人物であるように思う。
 私はこの本を手がかりに、日ソ協会初期の文化.交流において、会員・市民に感動を与えた低料金による大衆公演の「仕掛け」を知った。神氏=アート・フレンド・アソシエーション(AFA)は、次々招へいするソ連芸術家グループの来日公演ーステージを無料で協会に提供していた。国交回復直後だから日ソ友好親善のためという大義名分があったとはいえ、ソ連大使館やソ連本国との契約交渉をうまくすすめるために唯一の窓口だった協会との付き合いは必要だったともいえなくもない。神彰氏と直接に接触して無料公演を実現していたのは堀江邑一先生(常務理事)だった。堀江先生の要望に一度たりともノーと神彰氏は言わなかったと聞いている。貧乏な協会財政に大きく寄与したことはいうまでもない。
 ボリショイバレエ(1957年8月24日両国国際スタジアム、12000人)、レニングラード交響楽団(1958年5月14日東京都体育館、14000人)、ボリショイサーカス(1958年7月14日東京後楽園アイスパレス)、レオニード・コーガン(1958年11月28日)、レニングラードバレエ(1960年7月15日、東京都体育館、8000人)、ボリショイサーカス(1961年7月18日東京都体育館、7000人)、同(1963年7月14日)、以上の7本が特別大衆公演、勤労者のための演奏会などと銘打って行った公演で、神彰氏は「心よく」提供してくれたという。これまでは「呼び屋が招き協会に協力してくれた」という程度の認識しかなかったが、本書を読むことによって神彰、木原啓充、長谷川濬、石黒寛らAFAメンバーの情熱的な呼び屋魂と表に出ない苦労のあったことを知らされた。
 本書は神彰の生涯について書いたものだから当然彼の招へいしたものがクロースアップされているが、1950年代の国交回復前後のソ連来日芸術家公演は別のラインと協会によっても次々と行われていた。1955年のオイストラフ、1956年のオポーリン、エイゼン、1957年のギレリス、ソレンコワ、1958年リシチアン、1959年のペトロフ、ブラセンコと続く。すべての公演が新聞社や興行会社の協力で実現できているが、それらの経験から協会は独自招へいする力を身につけ最初に呼んだのがレフ・ブラセンコであった。
 神彰は函館出身で、函館商業学校卒業である。1887年に創立された同校はロシア語の授業を行っており、神彰も習ったと伝えられる。同校は1908年にウラジオストクに生徒研修旅行を日本の学校としては先駆的に行っていたことでも知られている。いまの若者にはGLAYのメンバーが出た学校と言った方がわかりいい。私は隣りの函館東高校だったのでいつも函商の前をとおり五稜郭に抜ける道を歩いていたものだ。そんなことから神彰という人物に親近感をもった。離婚した妻が作家・有吉佐和子であったこと、居酒屋チェーン店「北の家族」の社長といったことも興昧をひく。
 ということで本書はロシア・ユーラシア諸国との文化交流に関心を持つ人々にとっては一読すべき書であり、初期の格闘が手にとるようにわかるだけでなく、それは決して遠い昔のことではなく現在も続いている挑戦であるだけに共感を呼ぷに違いない。
 同時におどろくことは、ACCという会社に勤務し多忙な毎日を送っているにもかかわらず、1990年『サーカスと革命』、93年『海を渡ったサーカス芸人』、96年『魯西亜から来た日本人』、98年『玉井喜作の生涯』、2000年『レザノフ日本滞在記』、そして04年『虚業なれり』と2〜3年間隔で次々と著作を世にだす大島幹雄氏のバイタリティである。読者の皆さんが知っているのは、彼が石巻若宮丸漂流民の会事務局長ということだろう。次の著作の発表が待ち遠しい。

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