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『海を渡ったサーカス芸人−コスモポリタン沢田豊の生涯−
大島 幹雄 著

平凡社 / 1993年 / 2,400円(税込) / 325P / 20cm / NDC:779.5 / ISBN:4-582-37382-8 絶版


『海を渡ったサーカス芸人』の表紙
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目 次

プロローグ ドレスデンの春

第一章 シベリア横断
 出雲からの手紙/ブラジルの邦字新聞の回想談/浅草の少年時代/浅草の玉乗り/横田一座/
 シベリア放浪/日本人芸人対ロシア興行師/ロシアに渡ったサーカス芸人群像/ロシア脱出

第二章 サラザニサーカス
 帰郷と戦争/北村トメと横田一座/サラザニサーカスとの出会い/秘芸−頭倒立の沢田/棒上頭倒立/
 サラザニ神話と日本人

第三章 青春のカイザーアレー
 初恋/ヨーロッパをさまよう日本人芸人/明治のコスモポリタン鳥潟小三吉の生涯

第四章 欧州放浪
 第一次世界大戦勃発 拘禁された軽業師たち/さまよう軽業師たち/横田一座の解散/ローマの武勇伝/
 チューリッヒの街角で

第五章 ベルリンとサーカス
 サラザニサーカスに復帰/ベルリンの大衆文化/映画『インドの墓標』/地上三十六メートルの冒険/
 サラザニとの確執/クルデツキイサーカスを追って/ヨーロッパを代表するサーカス団/サーカスを転々と/
 再びサラザニへ/ヴァリエテ暮らし

第六章 幻のニホンを求めて
 マンフレッドの青春/サンパウロの日本人移民/もうひとりの日本人/サラザニ死す

第七章 ベルリン追放
 ナチスの台頭/ナチス時代のヴァリエテ/瓦礫と化した街/強制追放

第八章 ノーリターン・ニホン
 新京への到着/悲劇の始まり/もうひとつの新京/神経の変調/無国籍者たち/スイスからの手紙

第九章 ゲッティンゲンでの最期
 二十世紀のオデュッセイア/ゲッティンゲンでの余生/「アウフ・ヴィーダーゼーエン、ベッティ。」/その後の一家

エピローグ 九十年ぶりの「里帰り」
 マンフレッドの日本訪問/善意のリレー/国境を越えたパスポート/もうひとりの帰国者/ドレスデンへ

沢田豊へのメッセージ−あとがきにかえて

参考資料
図版提供一覧
参考文献
取材協力者一覧

書 評

「芸人哀史ではない。堂々たる英雄伝なのだ」 平岡正明   (「週刊文春」1993年10月14日号)

 マンフレッド・サワダは大正琴を奏する老芸人によりそって音に耳を傾け、まぷしそうな目で横浜野毛の雑踏に立っていた。「荒城の月」「波浮の港」などが奏されていた。
 美髭をたくわえ袴をはいて大正琴を奏する鯰江四郎とマンフレッド・サワダのツーショットに、しきりにカメラが向けられた。俺はその多すぎるシャッター音に異和感を感じた。かれらはパターンを写しているだけなのではないか。
 「いいじゃあねえか、サワダさんがやるというのなら芸をやっていただくが、せっかくいらしたんだから芸をやってドイツに帰って下さいなって言っちゃいけないよ」
 大将の発言とおりにマンフレッド・サワダをおよぴした野毛の衆を、大したものだと舌を巻いただけに、サワダの出番はいつか、とたずねる新聞記者、素人写真家の多さに、異和感をおぼえたのである。
 野毛大道芸は町の衆が心意気でやっている。一九八六年から年二回ずつやって、この時、第十一回目だった。見物客も十万人規模に違し、海外ヘオルグも出すようになっていた。主催者、芸人、客が対等の立場で投げ銭で運営している。
 日本を大きく振り切ってしまった沢田豊−マンフレッド、サワダ父子の物語を、下町人情のワンショットに収めようとするのは無理だ。本書『海を渡ったサーカス芸人』の大島幹雄のやりかたが正しいのである。
 日露戦争前にロシアに稼ぎに行った日本人芸人一座がいる。大いに受けた。戦争になった。敵国人として石を投げられた。クリミアに逃れ、クリミア・タタール人に助けられた。クリミア民族運動つぷしもあって軍隊がきた。一座は湖を渡って南欧に逃れ、南欧からドイツに逃れ、サラザニサーカスに入った。懸命に働き、サラザニサーカスを欧州第一等のものにした。
 一万人収容の常設劇場、そして一万人収容の大テント、五百人の芸人、五百頭の動物。サーカス団は移動する小都市だ。サラザニ団長の民衆芸術論に協力した立役者が沢田豊である。
 彼はドイツ宮廷楽土の娘と恋をし結婚した。その次男がマンフレッド・サワダである。第一次大戦になった。こんどはドイツと日本が敵国だ。サラザニと多国籍芸人団はよく沢田を守り、沢田はスイスに逃れた。チューリッヒでダダイズム運動との関係も生じる。戦後沢田一家はドイツに戻る。ナチスが勃興した。サラザニ曲芸団は船団をしたてて南米に逃れる。ブラジル日系新聞に十六回連載された沢田豊の半生記が大島幹雄によって再現される。アルゼンチン公演の次に日本公演が予定され、沢田の帰国は近づいたが、初代団長の死と、二代目とナチスの間に妥協がなってサーカス団はドイツヘ。ナチスドイツ敗戦。進駐したソ連軍は日本国籍の沢田一家をシペリアヘ送る。芸の力でシペリア、満州を生きぬいて青島へ。青島で日本引揚船を待つ。沢田豊客死。国共内戦が激化し、マンフレッドは無国籍者として、四たぴドイツヘ戻る。
 望郷の念一般ではない。大島幹雄と連絡をとりあった野毛のブロデューサー橋本隆雄はドレスデン郊外に引退生活するマンフレッド・サワダをたずね、彼に日本を見たいという意志が強いことをたしかめて一九九一年四月、大道芸にまねいたのである。国籍問題、旅券問題等、運命の女神の微笑のように協力者があらわれてクリアーできた。
 サーカス芸人哀史なんてパターンはもうよそう。大島幹雄が描きだしたのは堂々たる英雄伝だ。前著「サーカスと革命−道化師ラザレンコの生涯』(平凡社)でロシア・フォルマリズムに与えた日本芸人の影響を跡づけた大島だからできた。哀史というパターンは、うがった言いかたをすれぱ鴎外「舞姫」からだ。幕末に渡欧してドイツ人女性を伴って帰国した鳥潟小三吉、米国人の恋人を忘れられず日本からひき返して客死した松井菊次郎、そして沢田豊らは、横浜まで追ってきたドイツ人踊り子を森家の家風にあわないからと追い返した親族の意見に屈した若き鴎外より、人間がいい。

「毎日新聞」1993年9月20日

 この沢田豊という、身軽でしなやかな人生の猛者の起伏の激しい一生、大観衆から万雷の喝采を浴ぴる栄光の夜々から、戦火に逐われてさすらう貧窮の日々までを、まさに彼の観客と同様に固唾を呑んで観覧し終えて、二つのエピソードがとりわけ鮮列に残った。
 一つは、彼の頭蓋骨の話。しなう竹竿の上で頭のてっぺんだけで体を支えて倒立するという独特の芸を長年続けた結果、頭皮が溝状に凹んで骨化した彼の頭を見て、ドイツの医者が、死後標本に欲しいとよだれを垂らしたそうな。
 いま一つは、老境に入った彼が、戦後、遠い日本からわざわざ「振りがなのついた講談本」を取り寄せたという話。一六歳で故国を飛び出して、ついに一度も帰国を果たせなかった彼にとって、講談本はおのれの脳裏から母国語が失われゆくのを阻むための、いわば運命への抗いのすぺであったのか。
 愛妻の手をとり「アウフ・ヴィーダーゼーエン、ベッティ」と囁いて、彼が静かに舞台を去っても、何だか打ちのめされて、しばらく席を立てなかった。(恭)

北上次郎 (「本の雑誌」1993年10月号)

 明治期に海を渡った多くの芸人群像を描きながら(慶応二年に幕府が正式に海外渡航を認めた七十名のうち約半数が曲芸師だったという)、その軸に、明治三十五年に日本を出て、ヨーロッパ最大のサーカス団のスターになった沢田豊の波潤に富んだ生涯を描いた書だ。こういうテーマが好きな私にはたっぷりと読みごたえがあったが、なによりすごいのは頭倒立という沢田豊の得意芸である。両端をローブで吊っただけの捧の上で頭倒立したり、その恰好のまま階段をジャンプして登っていくというこの芸はすごい。
 この頭倒立のために沢田の頭にはタコが出来て、皮膚が骨化していたという。研究者がその頭蓋骨を欲しがったとの逸話はケッサクだ。そういうプロフェショナルの強烈な個性と、彼がコスモポリタンとして放浪せざるを得ない時代の悲劇を、本書は膨大な資料を幡きながら鮮やかに描き出している。


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