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特 集
韓国サーカスの魅力 その1

 『デラシネ通信』企画のひとつとして、掲示板をつかった対談を始めました。
 最初の対談相手は林史樹氏です。現在、国立民族博物館に所属し、韓国で移動することで生業を立てている人たちに対して調査を続けています。(最近のテーマは、定期市を移動しながら商売を続ける薬草商人です。)
 6年前、修士課程の学生であった氏は、テレビで韓国に現在も移動生活を続けるサーカスが存在することを知り、韓国サーカスにもぐり込みます。そして、ここでおよそ10ヶ月間、サーカス団員の一員となって裏方で働き、彼らと交流をしました。実際は移動する集団が、社会でどう受け入れられるかを調査することを目的にサーカス団に入り込んだのですが、結局はどっぷりとサーカスの世界に浸かり、口上を言うためにマイクを持つようにまでなります。
 1月号では、放浪に憧れた林氏が、韓国の移動芸能集団を調査しているうちに、サーカスに出会い、そのサーカス団でどんなことをしていたかが主に語られています。


韓国サーカスとの出会い
入団と韓国サーカスのプロフィール
最初は「キド」でした
韓国社会の中のサーカス
場越しと韓国サーカスでの生活
呼び込みの口上

 以下は、1月中に行われた掲示板対談の抜粋です。進行に関することなどは割愛し、改行を変更しました。また、一部の発言順序を入れ替え、見出しはこちらでつけさせていただきました。(デスク・大野)

韓国サーカスとの出会い
大島  いよいよ初の試み、対談コーナーの始まりです。
 林さん、よろしくお願いします。

 まずはとても初歩的なことなのですが、私の場合大学卒業後就職先がなくて、たまたま入った会社がサーカスの呼び屋で、これがきっかけで、サーカスにずるずると入り込んでしまったのですが、林さんがそもそもサーカスに興味をもったのは、どんなきっかけだったのでしょうか?
 しかもどちらかというと世界のサーカスでも辺境にある韓国のサーカスに惹かれたのは、どんな理由からなのでしょうか?
 林さんとサーカスの出会いのようなものをまず聞かせて下さい。
 私はもともと旅をするのが好きでした。
 大学でも休みになると、ふらふらと旅にでかけていたのですが、それがサーカスに関心を持つにいたる素地になっていたようです。
 韓国サーカスに出会ったのは、1993年だったかと思いますが、NHKで韓国サーカスのドキュメンタリーをみてのことです。
 当時、私は修士課程の学生で、韓国の放浪芸人に関心を持っていました。
 男寺党といわれる集団です。
 彼らは、綱渡りや皿まわし、とんぼ返りなどいくつかの曲芸をみせながら、全国を渡り歩いていたといわれます。
 修士論文も男寺党をテーマに何か書きたいと思っていました。
 しかし、以前は全国を渡り歩いていた男寺党もすでに舞台のうえだけのものとなっており、イベントがあるときだけ呼ばれて公演を行うようになっていました。
 そこで、現在も全国を渡り歩いているものを探しているうち、先のNHKで放送された韓国サーカスに出会ったというわけです。
 そういう意味では、私も大島さんと同じように、曲芸以外の接点でもってサーカスに関心を持ちはじめたといえます。
大島  やはり旅好きだったわけですね。私も高校の頃からバイトしては金を貯めて、ふらりと旅にでることが好きでした。ですから呼び屋の会社に入ったとき、公演に一緒について全国を旅ができるのが、一番嬉しかったですね。なにしろ只であちこち回れるわけですから。おかげさまでこの会社で働いていた9年間、鹿児島と宮崎、北海道をのぞいた県を回ることができました。

 さて男寺党といえば、だいぶ前に小沢昭一さんのプロデュースで国立劇章で『旅芸人の世界』という公演があり、この中で男寺党の公演を見たことがあります。
 このときはおばあちゃんが演じていた綱渡りが印象に残っています。セリフを言うときの間がなんとも雰囲気があって良かったでしたね。
 林さんが、男寺党を調べようと思った時は、もうなくなっていたということなのでしょうか。
 ということは今はもう男寺党は存在していないということなのでしょうか。
 林さんはこのあと、韓国のサーカスにもぐりこむわけですが、どのようにしてもぐりこんだのでしょうか。
 そして実際に入り込んだサーカス団の様子はどんなものだったのでしょう。これについてはきっと話が長くなると思うのですが、じっくり聞かせていただきたいと思います。
 とりあえずは、この時のサーカス団のプロフィールのようなもの、そして最初どんなことから彼らと触れ合っていったのでしょうか。
入団と韓国サーカスのプロフィール
 大島さんのおっしゃるように、私もサーカス団に入るときにいろんなところが回れると思ってワクワクしました。
 実際にサーカス団で回った場所は全部記憶に残っています。
 どこで何をしたとか、酔っぱらってハメを外した記憶まで。
 とにかく旅好きで知らない場所に行くのが楽しかったのでサーカスの生活は、それなりに性格にあっていたようです。
 そのくせ、東アジア以外の外国にでかけることがないなど、引っ込み思案のところもあったりしたのですが。

 さて、話があまり飛ぶと文面が長くなりすぎますので、質問に答えるように話を持っていきましょう。
 男寺党に関しては、男寺党がなくなったというのではなく、舞台でしか公演せず、移動生活をしなくなったため、私にとって興味が少し薄れただけです。
 私は、移動しながら生活する人に関心がありましたから。

 サーカス団にもぐり込む(?)、入団するのは簡単でした。
 入る前は、受け入れてくれるだろうかすごく心配でしたが、実際にはくるもの拒まずで、歓迎してくれました。
 それは、論文などには少し書きましたが、少なくとも韓国のサーカス団はメンバーの流動性が激しく、ひとりくらい出入りすることに、問題がなかったわけです。
 サーカスの印象は、とてもこじんまりとした印象でしたね。
 ちょっと薄暗さを持ち(メンバーのみなさん、すみません)、タイムトリップをしたような感じでした。
 今から何が起こるんだろうと、本当にワクワクしていました。

 サーカス団のプロフィールですか。
 私が入団したサーカス団のプロフィールのことでしょうか。
 韓国サーカスの歴史について知る手だてはあまりないですが、自分なりに活字にしてまとめたことがありますので、私のHPを参照していただけるとありがたいのですが。(宣伝してすみません)
 私は韓国観光公社でサーカスがみたいとたずねて、連絡先を教えてもらいました。
 実際に彼らと打ち解けることは難しくありませんでしたよ。
 団員として仕事を一緒にしていたこともあったうえ、最近では珍しい外国人ということもあってか、彼らの方でも好奇心をもってみてくれていたようですから。
 もちろん、その反面、こいつはすぐにやめるだろうと思われていたりもしていたようですが。
 実際にはその外国人(私)が少ししぶとかったため、その予想は外れるわけですが。
 韓国のサーカス団のプロフィールということでいえば、阿奈井さんが『マージナル』vol.10によせた文章には、金榮大という人が、日本人曲芸師の西本初枝(初江)と結婚し、1931年に独立をして創った西本サーカスが、韓国(朝鮮)人による初めてのサーカス団であったとあります。
 現在は、4つの団体が公演を続けていますが、そのなかで、一番古いとされる東春サーカス団は、1926年に創団され、約70年の伝統があると宣伝しています。
 この宣伝文句をそのまま受け取れば、東春サーカスが韓国(朝鮮)人の手によるはじめてのサーカス団ということになります。

 韓国ではじめてサーカス団が公演した記録はというと、1890年に日本の有田洋行会(後の有田サーカス)が朝鮮で巡業したのが一番古い記録となります。
 これは、日本のサーカス研究をされている阿久根さんが指摘するところです。
 中国やロシアのサーカス団が公演したことはないかと聞きまわったのですが、現在のところ、わかりません。

 それから、日本語版の韓国インターネット新聞をみていたら韓国の伝統綱渡りに関する記事がありました。
 簡単な紹介程度の記事ですがお知らせまでいたします。
http://japan.chosun.com/site/data/contents/attractions.html
 早くご覧になられないと別の記事に変わる可能性があります。
大島  チュルタギの情報ありがとうございました。
 早速見ました。
 金大均さんのビデオをいまいろいろな人に見せているのですが、最初に抱いているイメージとは、結構違うようで、ほとんどの人がスピード感があって面白いと言ってくれてます。
 韓国の伝統といまを伝える芸能になっていると思いますし、そういうことでこれからも紹介していきたいと思ってます。
最初は「キド」でした
大島  お話を伺っていると、そしてホームページを見ると、サーカスに入るということは、どこの国でも一緒ですね。日本のサーカス団にもふらっと入団してきて、何場所かやってやめていく、そんな人が多いようです。一種アジール的なところもあるのかもしれませんね。
 わりと簡単に韓国サーカスにもぐり込めたようですが、サーカス団ではどんな仕事を最初にしていたのでしょうか?
 林さんとしてはもぐり込んだ時に、一番調べようと思ったことは何だったのでしょう?そしてそのためにどんなことに気づかいながら取材をなさたのでしょう。
 韓国サーカスの公演は一年でどのくらいの期間で、どのくらいの場所でやるのでしょうか。一番印象に残った町はどこでしたか?
 とだんだん自分もサーカス団に入ったような気になってきているのですが、もう少しこのへんのお話を聞かせて下さい。
 確かにアジール的な要素を持っているかもしれませんが、それは流動性が激しいからというよりか、わざとイメージのよくない言い方をすれば、「流れ者」の吹き溜まり的なところがあり、「流れ者」しか寄せつけないイメージを外部に与えていることに起因しているのかもしれません。

 さて、私が韓国サーカスで最初に与えられた仕事は「キド」をみることでした。
 日本の見世物小屋にいる木戸番です。
 韓国サーカスでは日本語から転用したことばが多く使われていますが、「キド」もそのうちのひとつです。
 いわゆる切符のもぎりと抽選券を配る役割を当初任されていました。
 これがなかなか大変な場所であることには後で気がつくのですが、何か曲芸ができるわけでもない私ができるのはこれくらいでした。
 そのほかは、劇場の清掃など下回りの仕事です。
 これは、これでいい経験になりましたよ。

 私が調べようと思っていたことは、移動集団がよその土地に行ったときに、その土地の人々はその集団をどのように受け入れるのか、そこで生まれる対立などに関心がありました。
 ただ、これは実際に難しいことでした。
 ずっと集団の内部にいるわけですし、完全に団員と化していましたから、掃除を放ったらかしてホスト社会に調査にでかけるわけにいかないですから。

 公演は、現在と少し違っているようですが、ひとつの場所に約40日とどまったとして、一年に10ヶ所から12ヶ所ほどまわりました。
 公演場所によって、20日ほどのときもあれば60日近くいるときもあります。

 どこも印象に残っているのですが、印象に残っているのは順天や亀尾、光州とかですか、ようやく生活に慣れてきてまわりの町がみえてきた頃でした。
 新しい場所に移るのが本当に楽しかったですよ。
 いつもワクワクしてましたから。
韓国社会の中のサーカス
大島  木戸番というのは、結構大事な仕事ですね。
 抽選券を渡したということですが、サーカスが、見世物というだけでなく、何か当たるかもしれないという場になっているのは、韓国ぐらいじゃないですかね。
 これが目当てという観客もたくさんいるのでしょうか?

 移動する集団を、ある共同体がどういう風に受けるかというのは、とても面白いテーマです。芸能集団というのは、流れ者的集団として、差別の目で見られていたというのは、韓国だけでなく、世界的に言えることだと思います。
 差別の目で見られながら、かつてはハレの世界を背負ってきて、コトホグこともやっていたわけですよね。
 ただ韓国のサーカスの歴史というのは、比較的新しいわけです。寿ぐところまでの役割はもっていたのでしょうか。
 きっとハレの世界は背負ってきても、神に対して寿ぐという機能は担ってなかったのではと思うのですが・・
 そうすると、韓国サーカスで働く人たちの意識というのは、流れ者で、社会からも隔離されるなかで、かなりマイナーなもののような気がするのですが、実際に接して見て、働く人たちの意識というのは、どんな感じだったのでしょうか。
 林さんが所属したサーカス団員の年代構成なども教えて下さい。
 なるほど、サーカスで抽選券を配るところは、ほかの地域ではあまりみられないのかもしれません。
 そういう意味では、韓国のサーカスは見世物小屋などの見世物に近い感覚かもしれません。
 見世物小屋に近いという感覚は、入団したときからも思っていましたが。

 芸能集団が差別のまなざしを受けていたのではという点は、ご指摘のとおりでしょうが、差別だけではなかったように思えます。
 一種の憧れというのもあった気がします。
 どこか遠くに行きたいとか、実際には自由が少なかったりもしますが、自由自在な生活を送りたいとか。
 そんな憧れみたいなものもあって、サーカスは成り立っていたのかもしれません。

 大島さんのおっしゃるように、韓国のサーカスはハレの世界を背負ってきても言祝ぎはありませんでした。
 それは、韓国社会でもカクソリと呼ばれる人など、ほかの人たちが背負ってきましたから。

 少なくとも現在、韓国社会で韓国サーカスはマイナーな存在ですし、肯定的にサーカスという「職業」を捉えていないものも多かったように思います。斜陽と捉えているものも多かったようですし。
 職業を聞かれたら、適当な職業を答えるものもいたりしましたから。
 ただ、サーカスを離れても舞台で受けた拍手を忘れられなくて戻ってきたという団員もいました。

 私が所属した当時の団員は、20代と30代を中心に30名くらいでした。
 その次に多かったのは、10代、そして50代ですが、生まれたばかりの子供もいましたし、木戸番や宣伝係をしていた60代の方もいました。
場越しと韓国サーカスでの生活
大島  思っていたより、若い人が多いのですね。
 林さんとは、同年代の人も多かったと思うのですが、コミニケーションは、わりとすんなりいきましたか? 
 私は、昔、日本の矢野サーカスに外国の動物ショーを入れていた関係で、場越し(次の公演地への移動)の時は、必ず3ー4日現場に行くことを、2年ぐらいやっていました。
 私自身、人見知りするところがあって、なかなかサーカスの人たちに溶け込むことができなかったのですが・・
 団員の人たちの、よそ者に対してガードが固かったような感じはしました。

 韓国のサーカスは夜の公演はあるのでしょうか?
 日本の場合、ほとんど昼公演で、結構夜の時間が長いような気がするのですが、団員の人や、林さん自身どんな風に過ごしていたのでしょう。

 場越しは、大変でしたか?
 日本の場合、団員、その家族総動員で撤収、片づけにあたっていました。この重労働をみんなでやる中で、一体感が生まれてくるという話を聞いたことがあります。
 そうですね。今では、同世代も少なくなりましたが、当時は多かったですね。
 コミュニケーションは問題ありませんでしたよ。
 向こうにとっては問題があったのかもしれませんが。
 大島さんが人見知りですか(そのようには感じないのですが)。
 私も人見知りをしたりする方でしょうが、私の場合、外国だったということもあった以外に、同業者と会うときとは違った気楽さがありましたよ。
 またよく働きましたし、何10kgのパイプを平気で担いでいましたから重宝がられました。
 今でも場越しのときに行けば、頭数に入れられてしまいますよ。
 場越しは大変で、こっそりと休む奴もいました。
 もちろん非難の対象になるわけですが、確かにこれらの作業を通して一体感は生まれていく気がします。

 誰が先にトラックに乗り込むか、争っていたところもあります。
 この前の話ではないが、次の場所に行くのが楽しいという感覚も団員共通に持ち合わせていたように思います。

 サーカスの公演は、だいたい午前11時から午後11時まででした。
 一回の公演がおおよそ2時間半なのですが、出入りの時間が決まっていない連続公演で行っていました。
 私はとくに下回りをしていたので、朝は8時くらいから掃除を始め、朝食をとった後、銭湯に行き、10時半から開演の準備をしました。
 昼食は兼用のこともありましたが、12時くらいに個々で出前をとることもありました。
 夕食は5時くらいでしょうか。
 その間も、ずっと木戸番の仕事です。
 午後10時半から11時に終われば、簡単な片づけをし、酒を飲んだり、カラオケに行くことが多かったように思います。
 今、思いだしても懐かしいですね。
 早く、文章にまとめて出版しなければならないのですが。
大島  もう6年前になるんですかね、この頃のことを書いている林さんは生き生きしていますね。きっと充実した時だったのでしょう。
 これはよくわかります。
 それにしてもハードな仕事ですよね。朝早くから夜遅くまで、力仕事もあり、そして木戸番、仕事終わったあとの一杯は、きっとうまかったでしょうね。
 日本のサーカスの場合、公演地が替わる時に、結構まとまった休みがとれるのですが、韓国の場合はどうなのでしょう。
 これだけ働かせるところだと、休みが少ないような気もしているのですが・・・

 でも林さん、やはり早く書かなくてはダメだよ。このことは。
 多分知っていると思いますが、ノルウェイのサーカス団に季節労働者のようなかたちで、働いていた人が書いた『最果てのサーカス』という本がありますよね。
 林さんだったら、韓国の芸能の歴史の背景もよくわかるわけだし、サーカスのことも知っているし、単なるサーカスで働いてきたというだけでなく、いろいろふくらみをもって、書けるはずです。
 早いうちに書いておくと絶対にいいと思います。

 さて極めつけの話、呼び込みをやったときのことをじっくりと聞いてみたいのですが、いかがでしょう。
 もしこの他にこんなことがあったということがあればもちろんそのことでも結構です。
 そうですね。私にとってサーカスの経験は新鮮でしたから、少しは生き生きと記憶がよみがえってくるのかもしれません。
 仕事が終わった後の一杯はうまかったですよ。
 とくに、冬場は劇場内でストーブを焚くのですが、公演が終わるとそのうえに鉄板を敷いて焼肉なんてのもしました。
 舞台だけは夜中も電気を薄暗くつけておくのですが、真っ暗に電気を落としたなか、客席側で肉を鉄板で焼きながら、公演の話、日本の話、昔のサーカスの話などを焼酎で一杯やりながら話したりするのですが、今思い起こしても最高の想い出ですよ。

 今は知りませんが、韓国の場合、公演が終わっても休みはありませんでした。
 ごくまれに、大成功をした公演の後に数日間、休暇をもらえることはありましたが、基本的には無休です。

 呼び込みは呼び込みで楽しかったですよ。
 木戸番には通常、3人くらいは必要なのですが、みんな休みたいので人が少ないとみれば、あとの2人に任せて勝手に休むこともありましたし、ひどいときには1人で木戸番をすることすらありました。
 寒い日には木戸でもストーブを焚くのですが、寒くて人もこないとなれば、ストーブのうえでスルメを焼いて、一杯というのもありました。

 スルメと酒代がどこからでたのか。
 この話は公共の場にはかけないので、もしオフ会でも開かれることがあれば、そのときのネタにとっておきたいと思います。
呼び込みの口上
大島  ストーブにあたりながら、スルメと焼酎か。
 いいですね。酒が飲みたくなりますね。

 ところで呼び込みについてですが、どんなことを言って客を釣るんでしょう?
 テレビで呼び込み風景を見たことがありますが、かなりがなりたてるような感じで、いろいろ言ってますようですが、林さんは、どんなことを言って客の足をとめたのでしょう。
 例えば、見世物の口上のような、決まり文句みたいなものはあったのでしょうか?
 私は呼び込みをしましたが、とくに殺し文句はありませんでした。

 歴史と伝統を持ったサーカス団を持っており、
「何年ぶりかの大公演」とか、
「今からはじまるので早くきてよ」と連呼したほか、
「連続公演をしています」とかをいったくらいですか。
 文字にすると、本当に面白みのない呼び込みですよね。

 ことばがそれほど巧みではなく、またどうしても外国人がしゃべる韓国語となるので、大声になると韓国人ですら聞き取りにくかったことも、関係していたように思います。

 ベテランの人は、もちろんうまかったですよ。
 バックに流れる曲に合わせて身振り手振りで面白おかしく話をしたり、郷愁を漂わせたりする人もいました。
 しかし、近隣の騒音を考えてマイクを握るなといわれたり、とにかく「始まり、始まり」といっておけばよいといわれたこともありました。
 そこで、最近ではあまり面白い口上は聞きません。
 当時、テープにとった口上も早くおこさなければならないのですが。

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