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【連載】クラウン断章

第3回 去りゆく道化師たちへの鎮魂歌−『フェリーニの道化師』


 今月紹介するクラウン断章は、映画『フェリーニの道化師』をめぐって書いたエッセイです。クラウン(道化師)をテーマにしたこの映画は、ドキュメンタリー仕立てにしてあるぶんだけ、切ないものがあります。
 映画自体は、1970年代中頃に公開されましたが、いまはビデオでも見られるはずです。クラウンに興味がある人たちにとっては必見の映画といえます。まだ見ていない方はぜひご覧になって下さい。


去りゆく道化師たちへの鎮魂歌−『フェリーニの道化師』

 『フェリーニの道化師』は、サーカスからまさに消え去ろうとしている道化師たちへの鎮魂歌であった。『アマルコルド』にもつながっていくフェリーニの少年時代に出会った奇妙な人々のスケッチやフラテリニ兄弟やショコラとフッティなどの名コントを映画的に再現したり、さらにはフェリーニ自らが演出した壮大な道化ページェントなどもまじえながら、かつての名道化師を訪ね歩き、インタビューしてまわるルポルタージュシーンが中心になっている。そしてかつての名道化師たちを訪ねあるくなかで、フェリーニはこう呟やかざるを得ない。「道化師は死んでしまったのだ・・・」

 この映画の中心舞台は、パリである。かつてパリには、シルク・ディベール、ヌーボー・シルク、メドラノなどのサーカス常設館があった。この映画に出てくる道化師たちは、ここを舞台に名声をかちえ、称賛を浴びたのである。これらのサーカス場はいまはもうない。辛うじてシルク・ディベールの建物が残ってあるだけだが、ここでサーカスが演じられるのは、年に数回だけである。そのことだけでも、サーカスがすでにノスタルジーの中で語られるものになったことを物語っている。

 『レ・クラウン』という道化師研究としてはいまだこれを越す研究書はないと言われている本を書いたサーカス研究者トリスタン・レミィは、映画の中でこう語っている。

 「サーカスの世界はもはや存在しません。本当の道化師は姿を消してしまったのです。サーカスは現代の社会に於いて、何の意義も持たないのです。」

 この映画のなかに登場するのはは、今世紀初頭パリで、サーカスの黄金時代に喝采を浴びた、いずれ劣らぬ名道化師ばかり、サーカスの歴史に一時代をつくりあげた道化師たちである。いまは皆年老いた道化師たち、アレックス、ニノ、ルド、フーケ、チャーリー・リベル、バリオらが出演している。チャーリー・リベルのように現役で活躍して、老いてますます盛ん、意気軒昂な人もいるが、(ちなみに彼は、つい二、三年前まで現役の道化師として活躍していた。)画面に出てくる多くの道化師は、精気を失い、過去への追憶だけを頼りに生きているという淋しい光景が続く。とくに見ていて痛々しかったのは、映画の最後のほうに出演していたバリオの姿だった。
 「サーカスの話をすると胸が痛むのじゃ。つまりサーカスというものがわしの全人生だった、忘れようとしてもサーカスは忘れることができない。本当じゃよ。」と力なく語るバリオの目は虚ろだった。老いて朽ちてしまうことに身をまかせるしかない老人にとって、忘れようと思っても忘れられない思い出があるというのは、あまりにも酷いというしかない。バリオにとってサーカスは、皮膚のように身体の一部となってしまったのだろう。サーカスで暮らしてきた人間にとって、サーカスの呪縛、その業の深さがいかにつよいものなのかをまざまざと見せつけられたエピソードであった。ここで映画の中では語られていないバリオのたどったサーカス生活を追ってみたい。


 バリオ(本名マンリコ・モリシー)は、一八八八年イタリアのリボルノの貧しい石工の家に生まれている。小さいときから缶詰工場で働いていたバリオを、サーカスの世界に引き込んだのは、早くからサーカスの道化師として活躍していた兄のダリオ(本名マンリコ・メスキ)であった。
 一九○二年、南米巡業で金を蓄え、両親に家を建ててあげようと勇んでリボルノに帰ったダリオを待っていたのは、父の死の知らせだった。さらに追い打ちをかけるようにそのわずか四か月後に母親が死んでしまう。二十二歳のダリオは、長男としてまだ幼い三人の弟と妹の面倒を見なくてはならなくなる。ダリオは、十四歳のバリオに、六歳の妹マチルダの世話をまかせ、八歳の弟ブルーノをサーカスに連れ、芸を仕込むが、弟は移り気な性格で、すぐに兄のもとから逃げだした。弟をサーカスの芸人にするのを諦めたダリオは、仕方なく孤児院に預ける。そしてトルコ巡業中にバリオを呼び寄せる。バリオは、弟とはちがい、熱心に芸のマスターに励み、そしておぼえも早かった。やがてダリオとバリオは、コンビを組み各地で大評判をとるようになる。
 しかし一九○八年二十歳になったバリオが徴兵されたため、コンビを解散し、ダリオは新たにチェラットとコンビを組み、メドラノやムーランルージュなど一流のサーカス場やミュージック・ホールで押しもおされぬスターとなった。兵役を終えてサーカスに戻ったバリオであったが、兄はチェラットを棄てて、また弟とコンビを組むことはできなかった。弟の実力も知っていたが、チェラットとの友情を無碍にするわけにはいかなかった。バリオは、あらたに別のパートナーを見つけ道化師として評価を固め、その名声はヨーロッパ中に広まる。第一次世界大戦がおわって、弟の消息さえしらなかったダリオの耳にもバリオの名声が伝わる。
 何年かぶりに再会したとき、バリオはまた一緒にやろうと提案する、それもチェラットと三人でトリオでやろうというのだ。この当時はメドラノサーカスを舞台にフラッテリーニ三兄弟がトリオを組み、人気を集めていた。自分たちがトリオを組めば、フラッテリーニ以上になると熱心にバリオは口説いた。かつて他のクラウンとトリオを組んだときには、それほど成功しなかったことが頭にあったダリオは、弟の提案に戸惑ったが、チェラットがこの話に乗ってきて、ついにトリオを組むことを決める。
 三人はナントのアポロサーカスでデビューを飾った。三人一緒のステージは、大成功を収め、支配人はさっそく、契約の延長と条件のアップを申し入れてきた。パリに戻って、メドラノサーカスと肩をならべる人気サーカス、ヌーボーサーカスと契約する。トリオのクラウンで、ダリオは、ホワイトクラウンを演じ、バリオとチェラットがオーギュストを演じていたが、次第にバリオのキャラクターが目立ちはじめ、しかも客の受けも圧倒的によかった。チェラットは不安を感じはじめた、このままでは自分の存在意義がなくなる、同じようなキャラクターを演じ、共演している相手の受けがいいのは、クラウンとして耐えられないことだったに違いない。チェラットはダリオに前のようにふたりで舞台に立とうと言いはじめた。今度ばかりはダリオもこの申し出を聞き入れることができなかった。弟を裏切るわけにはいかなかった。チェラットは二人の前から去る。彼に兄弟に対する恨みはなかった。チェラットは、馬と馬車を買い、運送業をはじめたが、この事業はうまくいかず、晩年は貧困のなか、一九二六年死んだ。
 バリオとダリオはチェラットの代わりにココを入れる。兄弟のコンビはダリオが死ぬまで、以後二十五年間続くが、もうひとりのパートナーは、ココ、ゴンタール、ロウム、ペカリ、テオドールと次々と代えていく。さらにふたりは自分たちの子どもをトリオに入れていく。バリオは、ダリオの死後も、ダリオの子どもや自分の子どもをパートナーに六十年間サーカスの道化師としてアリーナに立つ。


 さらにこの映画では、いまは亡きジム・ギリオン、アントネとベビ、フラッテリーニ三兄弟などの道化師たちのエピソードや、有名な寸劇が、他の俳優をつかって紹介されている。このなかで印象深いのは、ジム・ギリオンのエピソードであろう。

 病院に入院していたギリオンは、町でいま人気絶頂の道化師コンビ「フッティとショコラ」がやって来たのを知り、パジャマの上に外套をはおり、病院を抜け出し、彼らが出演するヌーボー・シルクを見に行く。ふたりの演技に笑い転げるギリオンは、苦しそうに何度も咳き込む。公演のあと、男が二人、箒をもって掃除するが、誰もいなくなった観客席の中で、一人うずくまっているギリオンを発見する。寝ていると思って身体をつつくと、そのままギリオンは床に倒れ落ちる。ギリオンはすでに死んでいたのだ。
 かつての名声を馳せた道化師が、いまは落ちぶれ、人気絶頂の道化師の公演を見ながら死んでしまうというあまりにも出来すぎた話なので、これはギリオンの生き方をシンボライズした作り話だとばかり思っていたが、これはほんとうにあったことだった。

 ジム・ギリオンは一八八○年代末期に、パリのサーカス場「イポドローム・ダルマ」に登場し、一躍スターとなった道化師だった。ギリオンは、「オーギュスト」というクラウンのキャラクターの創始者であった。アクロバットとミミック芸が得意だったギリオンはいまでも信じられないようなこんな芸を披露していた。頭で倒立して、そのままの状態で身体を旋回させ、そのあとさっと立って、両手で自分のばかでかい下唇をつまんだまま、鼻を隠してしまったというのだ。彼が出演していた「イポドローム・ダルマ」のリングは直径一○○メートルというとてつもない大きさで(ちなみにいまは直径十三メートル)、八千人を収容できたというが、小柄なギリオンが、リングの遠く端のところに、たぶだぶのフロックコートを着て、ばかでかい白ネクタイをして現れると、米粒ぐらいにしか見えないのに、観客は足を踏みならしながら「オーギュスト! オーギュスト!」と叫びだしたという。これだけ人気を得たギリオンは、ここで十年ちかく働いたが、支配人は日に日にひどくなる彼の放蕩な生活を許すことができなかった。ここを解雇されたあとは、ロンドン、ブリュッセルと渡り歩くが、どこも長続きせず、またかつてのような華々しい成功を収めることもできなかった。そしてイギリスのリバプールの病院に入院している時に、この映画で描かれたように、ショコラとフッティのショーを見にいきそこで心臓発作のため死んだ。


 バリオ、そしてジム・ギリオンと『フェリーニの道化師』で取り上げられたふたりの道化師の実話を通して、あらためてなんと道化師とはせつない存在なのだろうかと思わざるを得ない。そして自らが狂言回しとなったあの道化師追跡の旅にこそ、この映画を撮ったフェリーニのメッセージがあったと思う。淡々と撮られたぶん、その道化師の存在、生きた人生の重さがしみじみと浮き彫りにされている。それがまた逆に、フェリーニの道化師に対する思いの深さを教えてくれるのだ。
 道化師を追跡する旅のなかで、フェリーニは、もうひとつのことを知ったに違いない。道化師たちの過去の栄光を訪ねることの無意味さである。道化師たちが相手にした観客も道化師たちの死と同時にすでにいないということである。
 かつての名道化師を追いかけていたフェリーニは、彼らの演技を収めたフィルムをもっている家を訪ねる。このフィルムをもっていたのは、名コメディアンで映画監督でもあるピエール・エテ、しかも彼は、ポール・フラッテリーニの娘であるアニー・フラッテリーニの夫でもある。映写機をセット、みんなでさあ見ようという時に、少し映っただけでフィルムは焦げだしてしまう。せっかくの貴重な映像も消え去り、フェリーニたちのせっかくの探索も無と化してしまう。どうしても今はなき道化師の生の映像を見たいと執念を燃やすフェリーニは、フランス国営テレビが、ロウムというやはり一世を風靡した道化師のフィルムを保存していることを知り、そこにでかける。つっけんどうで官僚的な女性の係員の案内で、「道化師ピッポとロオム」のフィルムが映写機にかけられる。今度はフィルムが焦げることはないが、フィルムはまさにあっという間、フェリーニが「いた! いた! ロウムだ」と歓声をあげた途端に、無情にもエンドマークがスクリーンに映し出される。
 道化師の芸は、そのば限りのものなのである。古い映像のなかには道化師の神髄はない。道化師を追っていくなかで、フェリーニはそれをまざまざと見せつけられたにちがいない。それはまた「形あるものはむなしい」というフェリーニの美意識の奥底に流れているものが、道化師を題材にしたことで、さらに鮮明にされたといってもいいかもしれない。

 たしかにサーカスから道化師たちが消え、動物芸を売り物にしていたかつてのサーカスも、年々その数も減っている。しかしまた若いアーティストたちが、新しいサーカスをつくろう、新しい道化芸をつくろうとしているのもまた事実である。二十年以上も前に、フェリーニは、こうした動きを見落とすことはなかった。
 その意味で、忘れられないシーンがある。

 フェリーニが、パリの名門サーカス劇場「冬のサーカス」と呼ばれる「シルク・ディベール」を訪ねるシーンがある。ここでひとりの若い青年が懸命になってここのオーナー、ブリオーネの前でオーディションを受けている。舞台袖で赤い鼻をつけて、しゃぼん玉をつくる器械を手にしているのは、チャップリンの娘ビクトリア・チャップリンであった。ここで「ふたりの夢はサーカスを引き連れてフランスを巡業し、その復興をはかることです」というナレーションが入る。サーカスの世界ももはや存在しない、道化師たちも消えてしまったという全体を流れるノスタルジックなトーンのなかで、サーカスに夢を追いかける若いふたりのシーンは、強く印象に残っている。なにげないシーンなのだが、フェリーニのこのふたりの若者に対する共感のようなものを感じて、印象深い。
 やがてこの青年ジャン・バッティステ・ティエレーとビクトリアは、この映画が公開された翌年の一九七一年結婚し、ふたりの夢を実現することになる。
 ふたりは結婚した年に、「ル・チルク・ボンジュール」を制作、夢への一歩を踏みだした。三十人のアーティストに加えて、馬やライオンなどの動物らも数多く出演した大がかりなサーカスショーであった。ふたりの評価がさらに高まったのは、一九七八年つくった出し物「ル・チルク・イマジナリー」であった。これは、前作より出演者は大幅に減らし、ふたりのほかはミュージシャンふたりが出演しただけだったが、ファンタジーと詩、さらに想像力がふくらむ素晴らしいステージをつくり、ヨーロッパ中の話題をさらうことになった。一九九三年には新しいプログラム「ル・チルク・インヴィシーブル(見えないサーカス)」をもって、日本公演も行った。

 サーカスを、そして道化師を愛するひとりとして、道化師たちを過去に閉じ込めることはできない。またサーカスの黄金時代を呼び戻すことは、これだけレジャーが多様化したいまとなっては、無理なことかもしれない。しかし道化師になりたいという人がまた増えてきているのも事実だ。ビクトリア・チャップリンたちのように、夢の実現に向けて歩いている人たちもいる。道化師たちが活躍できる場をもういちどつくることが、本当の意味でバリオやギリオンをはじめてとしたこの映画に出てきた道化師たちへのレクイエムになるのではないだろうか。


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