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【連載】クラウン断章

第2回 幕間の詩学 −エンギバーロフの道化とミミクリーチ

エンギバーロフの弟子−ミミクリーチ
エンギバーロフの生涯
エンギバーロフのクラウニング
エンギバーロフからミミクリーチへ


 この原稿は、ウクライナ出身の6人組のクラウン・グループ『ミミクリーチ』が初来日した1991年の公演パンフレットに寄稿したものである。
 ミミクリーチは、ソ連という国がまだ存在していた時代、ゴルバチョフという指導者がペレストロイカを提唱し、まだ改革ということに一縷の望みを託していた時代に、旋風のように出現したクラウン集団だった。
 鉄のカーテンの向こうに、こんなにポップでアナーキーでカッコいいやつらがいた、これに日本人の若者たちも衝撃を受けた。(いまクラウンや大道芸人として働いている日本人で、ミミクリーチの影響を受けた人は数多い)
 このグールプの演出家、ウラジミール・クリューコフと最初に会った時、彼は、あるひとりのクラウンの名前を口にした。
 それがエンギバーロフだった。
 ミミクリーチがデビューするきっかけとなった、全ソ・クラウンコンクールで金賞をとったとき、彼がこのことを報告しに真っ先に向かったのが、エンギバロフの墓だったという。この時からかすかに聞き覚えがあるクラウン、エンギバロフのことに興味をもちはじめた。彼の伝記を読み、さらには古いビデオを見せてもらうなかで、私はエンギバロフに夢中になっていく。
 この原稿は、いわば私のエンギバロフ序説である。本論はいずれ『月刊デラシネ通信』のなかで紹介したいと思っている。そして私にとって最も忘れがたいクラウンたちのひとりミミクリーチについても、いずれ語ることになるだろう。


幕間の詩学−エンギバーロフの道化とミミクリーチ

エンギバーロフの弟子−ミミクリーチ

 60年代の幕開きと共にソ連サーカス界にデビュー、サーカスを変えたと言われた一人のクラウンがいた。このクラウンはまるでなにかにとりつかれたように<冬の時代>を全力疾走で駆け抜け、そして三十七年間の命を燃焼させ自爆していった。彼がクラウンとしてアリーナに立ったのはわずか10年余り、それでもいまなおこのクラウンの名は、神話としてサーカスの世界で語り継がれている。レオニード・エンギバーロフという。
「私たちはエンギバーロフの弟子である。」
 ミミクリーチのリーダー、ウラジミール・クリューコフはこう断言する。死後二十八年という年月が経っているのにも関わらず、クリューコフのようにエンギバーロフを師と仰ぐクラウンたちはあとをたたない。エンギバーロフの何が魅力なのか。過激な笑いのギャグ集団ミミクリーチが、エンギバーロフから学んだものは何だったのか。

エンギバーロフの生涯

 レオニード・エンギバーロフは、1935年3月15日モスクワで生まれた。コックをするアルメニア人の父と裁縫師の母の間に生まれた三番目の子供であった。少年時代のレオニードは、スポーツ好きのやんちゃ坊主だった。運動神経は抜群で、自転車の曲乗りまでできたという。読書が好きで図書館に毎日のように通うほか、母に連れられ芝居やサーカスにもよくでかけた。最初はボクシングに夢中になり、ボクサーになることを夢み、体育専門学校に入学するが、3カ月で退学。サーカスで当時大変な人気を誇っていた道化師カランダーシュの演技を見て、自分も道化師になろうと思ったのだ。自分を表現するためには四角のリングより円いアリーナのなかのほうが似合っていると気づいたのだ。エンギバーロフは、1956年モスクワの国立サーカス学校クラウン科に入学する。
 サーカス学校でアクロバットやジャグリング、バランスの芸を磨くほか、パントマイムに熱中する。当時ソ連ではマルセル・マルソーのパントマイムがブームになっていたが、これを教える人はサーカス学校にはいなかった。エンギバーロフは独学でパントマイムを学ぶ。そして言葉のない詩的な寸劇をいくつも作り、仲間うちで評判をとるようになる。教師や先輩たちは、パントマイムに傾倒するエンギバーロフを快く思わなかった。言葉をなおざりにしているというのだ。こうした忠告に耳を傾けず「サーカスは見るためにあるので、聞くものではない」とエンギバーロフは言い放つ。そして同期の生徒たちがコンビを組む相棒を見つけていくなか、ソロのクラウンとなる決意を固めていた。1959年6 月サーカス学校を卒業、エンギバーロフはアルメニア共和国のサーカスグループにスカウトされる。いよいよサーカス芸人としてスタートをきったエンギバーロフであったが、デビューは散々たる結果に終わった。番組と番組の間に登場し、パントマイム寸劇を演じる彼を笑う観客は誰もおらず、重苦しい沈黙が場内を支配してしまったのだ。まるで1ラウンドでノックアウトをくらったボクサーのように打ちのめされたエンギバーロフに対して、サーカス団の仲間も冷たい反応でこたえた。首にする話も首脳陣では相談されていた。エンギバーロフにとってラッキーだったのは、当時ソ連のなかでも最も水準の高いアーティストが集まったこのサーカス団で、弱点がクラウンのコンビ「シコとサッコ」にあると皆が気づきはじめた時に、彼が入団したことだった。彼の演技は受けなかったとはいえ、「シコとサッコ」よりはましだということで出番を与えられているうちに、観客と掛け合う呼吸を身体で覚えていく。さらにエンギバーロフにとって幸運だったのは、かつての名道化師ドナートと出会い、道化のレッスンを受けることができたことである。ドナートは、すでにサーカスから引退し、養老院暮らしをしていたが、たまたま見たエンギバーロフの演技から、この若いクラウンがたいへんな才能を持っていることを見抜いた。そしてなにかと理由をつけては、エンギバーロフの楽屋に毎日やってきては、アドバイスを与えたり、古典的なギャグを教えてくれた。エンギバーロフにとってドナートは生きた道化師の字引となった。
 エンギバーロフのパントマイム寸劇は、次第に評判を呼ぶようになった。彼の人気を決定づけたのは、1961年のモスクワ公演であった。ついにエンギバーロフは、「シコとサッコ」を押し退け、アルメニア・サーカス団にとってなくてはならない人気クラウンとなる。1964年には、プラハで開かれた国際クラウンフェスティバルで優勝、エンギバーロフのパントマイム・クラウニングが世界中のクラウンから注目を浴びるようになる。

エンギバーロフのクラウニング

「クラウン、これは職業ではない、これは世界観なのだ。・・・私は人々に喜びや微笑み、そして悪に打ち勝つ善への信頼をもたらすおとぎ話のクラウンになりたいと思う。私のヒーローアンゼルセンのように。」
エンギバーロフはこんな風に、理想のクラウンについて語っていた。彼の夢はアンデルセンの童話をサーカスのなかで再現することであったのだ。こうしたエンギバーロフのクラウンに対する考え方が、従来のクラウニングを変え、全く新しいクラウンの世界をつくったといっていいだろう。
たとえばエンギバーロフのレパートリーのなかに『ボクシング』というコントがある。見るからに弱そうなボクサーに扮するエンギバーロフと、いかにも強そうな体格をした相手役のふたりが登場、ボクシングの試合が始まる。エンギバーロフはけちょんけちょんに叩きのめされてしまう。客席の一番前に座っていた少女が、「レーナ( エンギバーロフの愛称) がんばって!」と花をアリーナに投げ入れる。この花を相手役が、足で踏み潰したあげく放り投げるのをみたエンギバーロフは、顔掻きむしり悔しがり猛然と反撃にでる、何度もダウンを繰り返すが、最後には相手をノックダウンさせるというのが、この内容である。ボクシングというサーカスでありきたりの素材に、少女が投げ入れる花というモチーフを発見したところに、エンギバーロフ独自のロマンチシズムがあるといえるだろう。
 さらにエンギバーロフのロマンチシズムや叙情性が浮き彫りにするコントは『バイオリン』であろう。バイオリンを持って登場するレーナは、見事な演奏を披露、しかし熱演の最中にバイオリンが壊れてしまう。泣き出したエンギバーロフは、壊れたバイオリンを胸に抱えたまま退場する。いわいるオチがないかわりに、静謐な余韻が残る。もうひとつのコントを紹介しよう。
エンギバーロフが何本もの傘をつかった見事なジャグリングを披露、演技を終え、傘をリンクに順番に並べ退場する。客席から拍手。再びエンギバーロフが登場、絨毯の上に並べられてある傘たちに近づき、こうに語りかける。「愛しい友たちよ、わたしが捨てたなんて思わないでよ。怒らないで。こんな信頼すべきパートナーたちをわたしが忘れるわけがないじゃないか。」 そして傘たちを拾い集め、子供を寝かせるように胸に懐き、退場する。これは『傘』と名付けられた。
 このほかにもエンギバーロフは、本職顔負けといわれたアクロバットやバランス技をつかいながらも、詩的な雰囲気をただよわせたコントを数多く生み出していった。こうしたなかエンギバーロフは次第に幕間に登場し、コントを演じるだけでは満足がいかなくなり、ドラマ性をもったパントマイム劇をつくり、エストラーダ( 寄席劇場) をまわって公演するようになる。そして1971年には自分の劇団を結成、「クラウン奇想」という番組をもって各地を巡業する。サーカス以外で活動するエンギバーロフに対してサーカス界から反発する声が高まり、彼をサーカスから排斥する動きも目立ってくるなか、もともと酒好きなエンギバーロフが飲む酒の量が日毎に増えていった。サーカスに引き戻すという話もあったが、1972年7 月27日エンギバーロフは、突然この世を去ってしまう。

エンギバーロフからミミクリーチへ

 いまだにロシア人のなかで根強い人気をもつ俳優でもあり、歌手・詩人でもあったヴィソツキイと同じように、若くして自滅したエンギバーロフは新しいサーカスを目指す人々の間で神話となった。権力の呪縛が蔓延していった60年代から70年代、ヴィソツキイにせよ、エンギバーロフにせよ、その激しい生きざまで既存の価値を打ち破り、暗闇のなかに一条の光茫をはなったといえよう。 90年代の幕開き、急ピッチに進むペレストロイカ。過去への総括も終わろうとしている。これからがほんとうの意味で新しい時代がはじまるといえるよう。
サーカス学校を卒業、パントマイムの世界に可能性を見出し、集団でいま新たなクラウニングを目指すミミクリーチ。エンギバーロフの後継者を自負するミミクリーチは、エンギバーロフが切り拓いていった幕間の詩学としてのクラウニングをさらに発展させ、クラウン・パントマイム劇を完成させようとしているといえるかもしれない。ただミミクリーチは、エンギバーロフの叙情性をのりこえ、アナーキーに突っ走ろうとしているように見える。そこに90年代という時代の鼓動を聞くことも可能であろう。


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