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【連載】クラウン断章

第1回 道化師群像−サーカスの道化史−

1981年春「別冊新評−特集サーカスの世界」掲載

            


 奇妙な衣裳に身をつつみ、お道化ては、観客を笑いに包む道化師たち。彼らは子供たちの人気者であるだけでなく、時として「詩神(ミューズ)」となり、多くの芸術家たちに豊かなイメージを与えてきた。彼らは「行為における詩人」として、ドーミエ、ルオー、ロートレック、スーラー、シャガールらの画布の上に、その姿をとどめている。サーカスの道化師たちとの出逢いを通じて新しい芸術の可能性を発見した一人にピカソがいる。バリのメドラノ・サーカスをはじめて訪れたピカソは次のように語った。

 「私はサーカスに本当に折伏されてしまった。週に何度も行ったことがある。〈中略)特に道化に魅せられました。よく舞台裏へ行ってパーで彼らと一晩中お喋りをしたものです。御存知ですか?道化たちがそれまでのきまりきった服装を脱ぎ捨てて気違いじみたコスチュームを着けはじめたのもこのメドラノにおいてなのです。それは全く革命そのものだったのです…。彼らは衣裳も、人間像も造り出し、幻想の赴くままに身をゆだねることができました…」(ブラッサイ『ピカソとの対話』)

 サーカスの道化師がつくりだす小宇宙に魅入られたピカソは哀愁ただよう青の世界から脱け出し、フォルムの世界へと探求の道を切り開き、キュビズムヘとたどりつくことになる。 
 ここでは十九世紀、二十世紀を通じ、芸術家にとって限りない霊感(インスピレーション)の泉となったサーカスの道化師たちにスポットをあて、その歴史の変遷をみていくことにしよう。

 日本のサーカスでは道化役をピエロと呼んでいるようだが、これは正しい呼ぴ名ではない。イタリアの即興喜劇コメディア・デラルテの登場人物であるペドロリーノが原型とされるピエロは、十七世紀フランスの民衆演劇のなかで人気を集めていた道化役ジルのなかに融合し、十九世紀半ばパリのフュナンビュル座で活躍し、映画『天井桟敷の人々』でもおなじみのジャン=パチスト・ドゥビュローによって完成されたといわれている。ピエロは、その後サーカスに登場する「白い道化師」に大きな影響を与えることになるが、元来フランス民衆喜劇のヒーローの名である(ソ連の『サーカス小百科辞典』には「ピエロ」という項目はない)。
 サーカスの演戯場(アリーナ)に現われる道化師は、ピエロではなくクラウンと呼ばれるぺきなのである。「クラウン CLOWN」の語源については、「土塊、派生して田舎者、無骨者」を意味する英語のclod からきているという説が現在主流をなしているが、古代ノルウェー語でやはり無骨なことを意味する kluni が語源であるという説(エリック・ハートリッヂ『演劇用語辞典』)もあり、はっきりとした定説はない。ソ連の『サーカス小百科辞典』で「クラウン」の項をひくと、「クラウンの祖先は古代ギリシア・ローマの喜劇役者(ミーモス)(紀元前五−七世紀末)、イタリアのコメディアデラルテ(十六−十八世紀始)、シェークスピアや他の作家の戯曲に出てくる道化、広場や見世物小屋に登場する道化役(十七−十八世紀)に求められる」と出ている。
 クラウンの起源が、人間文化の深層に深く根ざしていることは間違いない。笑わせることによって人を楽しませる道化は、歴史が始まった頃から、現代に至るまで、姿・形・名前をかえながら、いつの時代にも存在し、また必要とされた。サーカスのクラウンたちもサーカスになくてはならないものとして、近代サーカス成立とともに演戯場(アリーナ)のなかに生まれる。
 近代サーカスは曲馬の発達・普及とともに始まる。十八世紀イギリスの貴族・軍人の間では、馬の曲乗りが人気を集め、見世物として演じられるようになった。元軍人のフィリップ・アストレイはこの人気に目をつけ、曲馬場を開き大もうけした。一七八〇年、彼は国王ジョージ三世の保護をうけ、さらに大がかりな曲馬場(半円型劇場)「アストレイ・ロイヤル演劇劇場」をロンドンに開設した。そこでは曲馬だけでなく、軽業・綱渡りなどの演目も演じられ、近代サーカスの原型は、このアストレイ劇場に求められる。のちに、クラウンと呼ばれるようになる、滑稽な役を演じるサーカスの道化たちがはじめて登場したのもこの劇場においてであった。
 最初の頃メリーマンと呼ばれていた道化たちは、演目の間に不意に姿を現わし、シェフ・ド・ピスト(燕尾服を着てサーカス場内をとりしきる座長)に、無理難題をもちかけ、からんでみたり、演技中の曲馬師の手伝いをするかと思えば、邪魔をしたりしながら観客の笑いを誘った。のちにアメリカに渡り、フィラデルフィアにアメリカ最初のサーカス場をつくるビル・リケッツも、こうしたメリーマンの一員であった。このメリーマンたちに最も大きな影響を与えたといわれるのが、当時ロンドンで最も人気があったマイム役者ジョゼフ・グリマルディ(一七七八−一八三七)である。
 グリマルディはヨーロッパを放浪していたコメディア・デラルテの芸人の血をひき、バレエ・マスターをしていた父のもとで、幼い頃からアクロパットなどの芸をおしえこまれた(彼はよちよち歩きをはじめた頃には、もう舞台に上がっていた)。彼は幼い時から身につけたマイム・アクロバットを墓礎に独自の道化芸を創造した。
 グリマルディの芸を実際に見た同時代人の証言をみると、彼の芸は身体全体を用い、あらゆる感情を表現したということである。目や鼻、顎を巧みに動かして、千変万化、さまざまな表情を創り出した。大口を開げて彼が笑うと、その奇妙な笑い声の旋律それ自体がおかしいものになり、なにがおかしいのかわからないうちに笑いが場内に感染し、客全体が笑いこけた。グリマルディの伝記(『ジョゼフ・グリマルディ回想録』)を書いたディケンズは、そのなかで「彼の優れたところはすぺて彼のものであり、現代のパントマイム役者のうち彼に似ているものは誰もいない。正真正銘の道化役者、しかめっ面をした、手くせの悪い、傍若無人なクラウンはグリマルディとともに舞台を去ってしまい、時々話に聞くことはあっても、以後一切現われたことはない」と最大限の賛辞を送っている。グリマルディはサーカス場で演技したことはなかったといわれているが、その後演戯場(アリーナ)で発達する道化芸の基礎をつくったということで、サーカスの道化史では、最初のクラウンとして第一ぺージを飾っている。
 さて、ロンドンに遅れること二年、一七八二年、パリにつくられたサーカス場シルク・オリンピークにも、やがて観客を爆笑の渦にまきこむクラウンが現われた。ジャン・パチスト・オリオルである。「オリオルの才能は多方面にわたっていた。彼の芸は百科全書的である。軽業師で、手品師で、曲芸師で、綱渡り師で、曲馬師で、グロテスクな俳優であるばかりか大変な怪力の持ち主であった。女の小さな足と子供の手と声をもった愛らしいヘラクレスである。」とロマン派詩人テオフィル・ゴーチェは、一八三七年、ある劇評のながでオリオルの演技の印象をかきとめた。空中三回宙返り、八頭の馬、あるいは銃剣をもった二十四人の歩兵を跳ぴ越えるなど、驚異的な業の持ち主であったオリオルこそは、サーカスの演戯場(アリーナ)から生まれた最初のクラウンでもあった。
 彼は難しい技をいとも簡単にやり遂げたあと、素頓狂にまるで山羊のような声で「リャー!」とか細い叫ぴ声をあげ、観客の爆笑を誘った。オリオルはこのように自分の芸にコミカルな要素を加えるだけでなく、ほかの芸人をパロディ化することも得意としていた。「歩兵隊」と名づけられ、その後演戯場(アリーナ)で繰り返し演じられる寸劇では、彼は馬をあらわす棒にまたがったり、あるいは馬の形をしたカカシを身につげギャロップをし、終わったばかりの曲馬師や軽業師の演技、あるいは身振りをパロディ化した。彼は演目と演目との間、あるいは一つの演目の中断に、即興的に演戯場(アリーナ)に現われ、その卓越した演技で観客の目をひきつけるのだ。こうしたオリオルの道化芸は、自分の本来の芸にコミカルな要素を加えるだけでなく、サーカス全体の流れをスムーズに進行させるという役も果たした。
 劇場演劇とは異なり、幕のない、しかもスピーディな展開を要求するサーカスという見世物のなかで、幕間をつなぎ、観客の緊張を解くという役割は、すぺてクラウンたちに委ねられた。近代サーカス発生とともに現われたクラウンは、サーカスにとってなくてはならない存在だったのである。
 グリマルディ、オリオルによって確立された道化芸は、その後多くの後継者によって、展開されていく。演目と演目をつなぐことは道化芸のなかで重要な要素であるが、この時クラウンたちによって演じられた寸劇は、次第に単なる幕間の出し物としてではなく独立した重要な演目になっていく。初期の出し物はほとんど言葉を用いず、アクロバットやマイムで演じられていた。初期の幕間の出し物には、当時パリを中心に定期市や広場の見世物小屋で人気を集めていたパントマイムの色濃い影響がみとめられる。パリの街頭に次々につくられた劇場のなかで最も賑わっていたのは、前にも触れたドゥビュローの出演するフュナンビュル座である。シルク・オリンピークの支配人フランコーニは民衆だけでなく、多くの芸術家を夢中にさせていたドゥビュローのパントマイムに早くから注目していた。彼はパントマイムを、サーカスの演目のなかに積極的にとり入れた。戦争ものや、義賊ものを中心に多くのパントマイムが、サーカス場でも演じられるが、このなかにはドゥビュローのレパートリーがそっくりそのままつかわれることもあった。
 アクロバット、さらにはパントマイムを墓礎に展開されていた道化芸は十九世紀後半「オーギュスト」という新しいキャラクターのクラウンの出現によって、大きな転機を迎える。

「オーギュスト」誕生のかげには面白いエピソードがある。話はペルリンのことである。レンツ・サーカスにトム・ペリングという一人の曲馬師が働いていた。長い間ジプシー暮しを続け、ロシア・シペリアを放浪し、ロシア皇太子の馬小屋の世話などもしたことがあるといういささか変わった経歴の持ち主だった彼は、曲馬、軽業、綱渡りとなんでもこなせる多才な芸人だった。レンツ・サーカスの支配人レンツは非常に規律に厳格な人間で、芸人が演技中もし馬や綱から落ちるようなことがあれば、四週間出演できないという罰則を設けていた。綱渡りの最中に不覚にも落下してしまったベリングは、この罰則を免れるため、あわてて舞台裏にかけこんだ。その時、失敗をかくすために赤毛のかつらをつけ、上着を裏返しにし変装に必死のペリングをじっとみつめていた視線があった。なんと目の前にレンツが立っていたのだ。あわをくったベリングは逃げ場を求めて、またリング中央に駆け出していった。仕方なく綱渡りをやろうとするが、落ち着きを失い、また落下してしまう。ぴっくりしたのは観客の方である。突然の闖入者、失敗ばかりの演技に、場内は一瞬シーンと静まりかえるが、そのベリングのあまりの滑稽さにせきを切ったように爆笑がまきおこったのである。その時観客のなかから「オーギュスト!オーギュスト!」(ベルリン方言で「愚か者」を意昧する)と叫んだ者がいた。途方にくれて楽屋裏に戻ってきたペリングを喜色満面のレンツが待ちかまえていた。彼はベリングに今やったことを繰り返せと命じた。かくして、オーギュストが誕生したのである。
 ベリングのエピソードが物語っているようにオーギュストは、間抜けで、愚鈍で、無器用、へまを繰り返す道化である。ただ滑稽なだけでなく、愚かさを前面に出すことで人々の笑いを誘った。このオーギュストの出現は、クラウンとの新しい関係を生み出し、道化の寸劇(アントレ)はクラウンとオーギュストという二つのタイプの道化師の関係を軸にして、ドラマトゥルギーとして展開されていくようになる。
 「クラウンは、これから有名な演奏家によるバイオリン演奏がおこなわれますと告げる。だぷだぷの燕尾服を着こんだオーギュストがパイオリンケースをたずさえ演戯場(アリーナ)に現われる。観客に恭々しく一礼の後、オーギュストはおもむろにケースを開き、まずナプキンを取り出して首に巻きつけたあと、ブドウ酒の瓶を取り出しグビグビ飲み、口を拭いてから瓶とナブキンをケースにもどす。そこでもう一度観客にむかって一礼するが、怒り狂ったクラウンに追われながら退場する」(ブイサック『サーカスーアクロパットと動物芸の記号論』)。オーギュストとクラウンで演じられた「パイオリン」と名つげられたこのレパートリーからもわかるように、クラウンは既成概念、秩序を代表するのに対し、オーギュストはそれらを突飛な行動でひっくりかえす。こうしたキャラクターの対立は、おのおのが身につけるコスチューム、メーキャップなどによって倍加される。真白なメーキャップ、薄い口唇、あまり目立たない薄い頭髪、さらに豪華な布地で仕立てられ錦糸の刺しゅうをほどこされたコスチュームをまとうクラウンが上品であり、話し方もきちんとしているのに対して、オーギュストは自然の突起物や色を誇張し、大きな口をつけ赤毛のかつらを被り、極端に大きいか逆に極端に小さく、ごてごてした色彩でエキセントリックなコスチュームを身につけ、誇張された滑稽なイントネーションで話す。クラウンはその白いマスク、白いコスチームから「白い道化師」と呼ばれるようになった。

 「白い道化師は優雅、気品、調和、聡明、明噺を代表するが、これらの性質は理想的で、ユニークで、疑問の余地のない神性として道徳的に位置づけられている。だから、オーギュストにはこれらの否定的側面が持たされる。というのも、こんなふうに白い道化師は−母、父、教師、芸術家、美しいものに、つまりつくりあげねばならないものになるからである。一方、オーギュストはこれらの完壁な特徴すぺてが、あまり口うるさくなく見せられるときにだけ心をひかれそうになるが、ふつうこれらに反抗する。
 オーギュストはズボンを汚す子ども、この完壁さに反逆して酔っ払い、床の上を転ぴまわり、はてしなく抵抗する子どもだ。これは誇り高き理性信奉(唯美主義という傲漫な形式になる)と、本能の自由とのあいだの闘争である。白い道化師とオーギュストは教師と子ども、母親と幼い息子、そして輝く剣をもつ天使と罪人でさえある。つまり、彼らは人間の二つの心理的側面である−一つは上昇志向の、もう一つは下降志向の二つに分かれた、分離した本能である」(『私は映画だ』)

みずからのサーカス体験とクラウンヘの限りないオマージュをドキュメソタリー風に描いた『道化師』の監督フェリーニは、オーギュストと白い道化師という二つの対立項の衝突のなかに、人間本能の深層で演じられるドラマを見ている。分離した本能の絶えざる葛藤は、神話のなかで絶えず繰り返されたテーマであり、生を営なむかぎり展開される永遠のドラマトゥルギーの一つであるといえよう。フェリーニにとってサーカスのクラウンは、映画と同じようにひとつの神話、人間の祖型の影(イメージ)なのであろう。

 十九世紀後半「オーギュストVSクラウン」というパターンが定着すると同時に、寸劇のなかにいままで無視されていた話芸もとり入れられるようになり、また内容的にも、楽器演奏をモチーフにしたギャグ、あるいは小道具として動物を使うギャグなど、いろいろなヴァリエーションが加えられ、道化芸もますます多様化していく。二〇世紀に入ってからも、風俗と時代の変化のなかから新しいタイプの道化師が生まれた。
 一九三〇年代アメリカのサーカス場で、浮浪者の格好をした一人の道化師が、大衆の喝采を浴ぴていた。赤いドーランを塗った顔、白く塗られた口、赤い鼻に悲しげな眼、夢も希望もとうの昔に失ったかのように、ただ当惑して演戯場(アリーナ)を歩き回り、ウェリー・ウィリーという愛称で呼ばれたこの道化師は、エメット・ケリーである。二〇年代空中ブランコの芸人だった彼は、当時不況に苦しむアメリカに押し寄せてきた移民労働者をモデルに、新しいクラウンのキャラクターをつくり出した。語りかけることもなく、笑顔も見せずマイムだけで人々を笑いの渦につつんだ。
 例えば、彼は観客のなかの一人の女性に近づき、無言でしかも情熱的なまなざしでじっと見つめる。そのとき彼は大きなキャペツか、大きなパンの塊をムシャムシャ食ぺているのだ。そして場内のスポットライトは彼のまなざしに魅入られている御婦人か、あるいは少々気分を害している彼女の連れを照らし出すのである。
 彼の演ずるクラウンは、その後何人かの道化師たちに受け継がれ放浪(ホーボー)クラウンの原型となった。愚かさではなく悲哀を正面に出すことで人々の共感を得た放浪クラウンは、社会不況という時代の渦のなかで翻弄される人間像をパセティックに描き出したのだ。
 そして同じ頃、時代の渦のなかに果敢にとぴこんだ一人の道化師が革命ロシアにあらわれる。革命の嵐が吹き荒れるロシア全土を、アジテーターとして民衆を鼓舞して歩き回り、のちに「赤い道化師」と呼ばれるビタリー・ラザレンコ(一八九〇−一九三九)である。彼こそは時代の激動の生んだ二〇世紀の新しいクラウンである。
 父の死後、八歳の時から旅回り専門のサーカス団に預けられ、定期市や広場の見世物小屋を中心に活躍していたラザレンコは、早くから跳躍技を得意とするクラウンとして名声をはせるようになる。彼はロシア・クラウンの父といわれるドゥーロフの影響をうけ風刺的寸劇を得意とし、ツァーリ制や官僚を演戯場(アリーナ)で挑発していた。
 一九一七年二月、ツァーリ制が打倒された翌日、彼は革命を支持することを、自らつくった寸劇によって表明する。いつも奏でられる序曲に代わって、芸人全員が演奏する「インターナショナル」で幕をあけたこの日、ラザレンコは雄牛の肥大したはらわたを持ち込み、「見よ!これが古い政権だ!」と叫んだあと、それを跳ぴ越え耳をつんざくような観衆の大歓声を浴ぴる。ボリシェヴィキが権力を掌握したあとも、彼は革命によって掲げられた高い理想を守るため、サーカスグループを率いて農村、工場、前線を精力的にまわる。
 彼はアジテータークラウンとしてだけではなく、当時サーカスを新しい精神の発露として、さらに芸術手法の一つとして、芸術革命のための重要なモメントととらえていたアヴァンギャルド芸術家たちにも大きな影響を与える。
 革命後の文化政策機関教育人民委員会の演劇部サーカス部会の仕事に積極的に参画したラザレンコは、ここでマヤコフスキイ、メイエルホリドらと親交を結ぴ、彼らとともに『ミステリア・ブッフ』(一九二一年)に出演するほか、マヤコフスキイのサーカス・ぺージェント『世界階級闘争選手権大会』では、シナリオ作成にも協力している。二人以外にも、エイゼンシュタイン、ヨージンツェフ、ユトケヴィチ、タイーロフらとともに新しい芸術創造のために協力を惜しまなかった。あらゆる価値をひっくりかえし、想像のエネルギーが全開する革命の祝祭空間のなかで、クラウンとして、ラザレンコはその生命を燃焼させた。二月革命翌日に彼がつくり、演じた寸劇からもわかるように、ラザレンコというクラウンは実に攻撃的である。パセティックな面が強調されることの多いクラウンのなかで、彼のようなパッショネイトなクラウンは、サーカスの道化史のなかでも異彩を放っている。
 グリマルディから始まり、ラザレンコに至るまで駆け足で約二百年に渡るサーカスの道化史をみてきた。サーカスのクラウンたちは、人間の分身を映し出す鏡として、また、社会を映し出す鏡として生きてきた。クラウンという道を選択した者もまたその魅力の虜になったら最後、逃れることはできないのだ。
 「道化師になったからには、生活のすぺてを、観客をいかにして笑わせるかということに捧げねばならないだろう。道化師の人生は最後まで不安に満ちあふれているものだ。…しかし道化師として人生を賭けた者は、道化がもうどんな富とも交換することができないことを知っている」。これはロシア・サーカスの父といわれた道化師ニキーチンの言葉である。
 華やかな栄光につつまれたグリマルディはそのラスト・ステージで、観客にこう語りかけた。「私がこのまだら模様の服を脱ごうとしても、まだそれは私の皮膚にぴったりとくっつき離れない。そして古い帽子と鈴が、私が永遠の別れを告げるのを知ってか、いとも悲しげに鳴っている」と。


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