月刊デラシネ通信 > サーカス&パフォーマンス > サーカス クラウン断章 > 第5回

【連載】クラウン断章

第5回 道化師の死と復活

3年前にNTTの雑誌に書いた原稿です(2001.03.29)

クラウンのルーツをたどる
道化としての芸術家の肖像
不滅のクラウン


 「サーカスの世界はもはや存在しません。本当の道化師は姿を消してしまったのです。サーカスは現代の社会に於いて、何の意義も持たないのです。」
 これはフェリーニの映画『道化師』(1970年制作)に出演したフランスのサーカス研究者トリスタン・レミィの言葉である。この映画は、フェリーニ自身が案内人となり、今世紀初頭のパリを舞台に活躍し、喝采を浴びた道化師たちを訪ね、思い出を語ってもらうというドキュメンタリー仕立てになっている。道化師を追いかける旅も終わりにさしかかったとき、フェリーニ自身もこう呟やく。
「道化師は死んでしまったのだ・・・」
 サーカスから消え去ろうとする道化師たちへ捧げられた鎮魂歌といっていいこの映画が作られてから、すでに三〇年近くの月日がたっている。その後サーカスは、そして道化師は果してほんとうに死んでしまったのだろうか・・・

クラウンのルーツをたどる

 クラウンがサーカスに最初にその姿を現したのは、いまからおよそ二〇〇年以上も前のことである。一七七〇年元軍人のアストレイはロンドンのテームズ川沿いに円形の劇場を開設する。「アストレイ乗馬学校」と名付けられたこの劇場では、曲馬ショーを中心に、アクロバットや綱渡りを織り込んだ、総合的なエンターテイメントが演じられ、大成功をおさめる。近代サーカスの歴史は、このアストレイサーカスから始まった。アストレイの成功は曲馬をショーアップさせたこともあるが、いままで街頭や見世物小屋で演じられていた手品や軽業などをとりいれ、それをひとつの構成をもったショーにしたところにある。彼が最も苦心し、そして近代サーカスをつくる成功の鍵となったのが、ひとつひとつの芸をどう繋いでいくかということにあった。彼は曲馬ショーのあとに、ポーターとフォーチュネリーというふたりの道化役者を雇い、下手な曲乗りのパロディを演じさせた。「ビリー・ボタン」という名付けられたこのコミックショーは、曲馬ショー以上に人気を呼ぶ。ひとつの芸が終わり、そのパロディを演じるクラウンが登場するというスタイルが、近代サーカスに定着していく。いわばクラウンは、なくてはならない存在として近代サーカスの出発とともに登場したといえる。
 当時ヨーロッパ各地には、のちにサーカスに進出する道化を職業とする一群の放浪芸人たちがいた。サルタンバンク、ジョングルール、ザニ、スコモローフと呼ばれた彼らは、街道の四つ辻や広場、市など人が集まるところにどこからともなく現れ、民衆たちを楽しませていた。こうした放浪芸人たちのルーツをさらに遡るなら、古代ギリシア・ローマ時代のミモスと呼ばれた喜劇役者までたどりつくことになるだろう。笑わせることで人を楽しませる道化師は、有史以来、姿、形、名前をかえながら、いつの時代にも存在し、また必要とされていたのである。何故道化たちが、このように時代を越え、親しまれてきたのか。民衆が道化を必要としていたからに他ならない。いつの世も民衆が笑いを求めるのは当然のことなのだが、民衆が道化を求めていたのはそれだけではなかった。道化たちが笑いを武器に、ふたつの世界を変幻自在に行き来できた、境界を越えることを許されたヒーローだったからだ。道化たちはいつの時代も、相反するふたつの貌を持っていた。反逆者でもあり救済者であったかと思えば、愚者でありながら聖者でもあるというように、相反するふたつの世界を抱え込んだところに、道化が脈々と生き続けてきた存在理由があるといえるだろう。

道化としての芸術家の肖像

 アストレイがサーカス場を開いた時代は、産業革命でイギリスが活気づいていた時代と重なりあう。産業革命とともに急速に各地で形成されていく都市のなかでサーカスは、娯楽産業として発展していく。この中でサーカスは、各地を遍歴し、道を舞台に活躍していた道化師たちを取り込んでいった。都市文化が開花する十九世紀から二〇世紀初頭にかけてが、サーカスの黄金時代といっていいだろう。サーカスは近代の誕生とともに都市に居を定め、この中で道化師たちも安住の地を見つけた。広場からアリーナという円い舞台に住まいを変えた道化師たちは、技術を磨き、さまざまなタイプのクラウンを作り上げていく。グロック、フラッテリーニ兄弟、フッティとショコラなど、天才的クラウンが次々に現れ、大衆からだけでなく、ピカソやコクトーなど多くの芸術家たちを魅了していく。
 二十世紀の芸術家たちは、サーカスのクラウンの中に、同じように二律背反を抱え生きる自分たちの姿を重ね合わせた。数多くのクラウン像を描いた画家ルオーは、「道化師とはこのぼくだ、ぼくらだ」と告白していたし、「わたしはほんとうにサーカスに魅せられてました!・・・とくにわたしはクラウンが好きでした。時々わたしたちは舞台裏に残って、夜どおしバーでお喋りしたものです」と語ったピカソは、道化師が見せる公と私の人間的な二面性に最大の関心を払っていたという。道化師が舞台で得る栄光と、それと引き換えにこうむらなくてはならない受難、笑いと涙に分裂する道化像の中に、芸術家たちは、自分たちの宿命を見ていたのだ。それは芸術家として生きることを、栄光と受難の一方だけを受け入れるのではなく、道化と同じように互いに矛盾するその両方を、道化そのもののありようとして受け入れようとしたことを意味する。

不滅のクラウン

 テレビという新しいメディアの登場とともに、近代の都市文化の繁栄に歩調をあわせ成長してきたサーカスに翳りがさしだす。ポール・ギャリコの小説『愛のサーカス』(1963年)の中に、スペインを公演中のサーカスの団長が、不入りが続き、それを天気のせいにした芸人に向かって、違う、お前たちには見えないのか、「テレビのアンテナだ! まるでアンテナの林だ。どの家にもアンテナは一本ある。そこに人はみんないる」と大声をあげる場面がある。テレビの進出で娯楽産業は大きな転換点を迎え、サーカスも急速に衰退の道をたどることになる。
 一九七八年、かつてピカソやコクトーが足繁く通った、サーカスの殿堂パリのメドラノサーカスが閉鎖され、最大のサーカス企業だったジャン・リシェールが倒産する。マスコミはこぞって〔サーカスの死〕と書き立てた。
 フェリーニの予言は当たったかに見えるのだが・・・。

 一九九八年九月『シルク・イシ』の日本公演が話題を呼んだ。これは、ジョアン・ル・ギエルムという二九歳のアーティストが、四人の即興演奏をバックにひとりで演じたサーカスであった。『シルク・イシ』は、ヌーヴォーシルクと呼ばれ、いまヨーロッパで最も注目されているサーカスの新しい流れを組んだカンパニーである。サーカスの死がとりただされた頃、フランスの若者たちは、その中に新しい可能性を見いだしていた。劇場で演じられる芝居に飽き足らず、街頭へ飛び出た演劇青年たちは、身体表現の可能性をサーカスに発見したのだ。こうした若者たちのために、フランス各地にサーカス学校が開設され、ここを母体にヌーヴォーシルクが生まれていく。なかでもフランス文化省が設立した「国立サーカスアートセンター学校」は、世界各地から才能ある優秀な若者を集め、ヌーヴォーシルクの中心を担うアーティストを育てあげた。ちなみに、ジョアンは、この学校の第一期生でもある。
 サーカスは、ヌーヴォ・シルクとともに息を吹き返す。
 そしてクラウンも死の淵から蘇る。
 アストレイサーカスが誕生した時から、サーカスが必要としたクラウンの役割、それは芸と芸の間を繋ぐことであった。ジョアンが、ひとりで演じた『シルク・イシ』で、幕間を繋いでいったのは、自力で動く鉄や弦、あるいは木で作られた奇妙な彫刻物だったのだ。こうしたオブジェが突然舞台に現れ、ユーモラスな動きで、舞台に張り詰めていた緊張をとくのである。これは伝統的なサーカスのクラウンの在り方への否定であり、同時に新しいクラウンの発見でもあった。ではこの奇妙なオブジェがクラウンの代用だったかというと、そうではない。ここでクラウンを演じていたのは、ジョアン自身であった。彼が否定したのは幕間を繋ぐクラウンの役割だけであり、クラウンの精神そのものを、ジョアンはここであますことなく表現していた。
 『シルク・イシ』のイシとは、「ここ」という意味をもつ。ジョアンはあるインタビューで「『ここ』で僕が何かをする。なんだ、なんだ、と人が集まる。そこにサーカスが生まれる。・・・僕にできることのすべて、人間の行為というものを、それは肉体的なことだけでなく、精神的なことも含めて、見てもらいたいです。そして、人間って面白い、人間にはこんなこともできるんだ、という発見をわかちあいたいと思ってます」と語っている。
 「道化役者は行為における詩人である。彼は自分の演じる物語そのものである」と書いたのはヘンリー・ミラーであったが、ジョアンは、「ここ」という小さな場所で、いま自分の物語を紡ぎだし、まさに行為における詩人=クラウンになろうとしたのではないだろうか。
 三七歳という若さで一九七二年にこの世を去ったエンギバロフという天才クラウンがソ連にいた。共産主義というイデオロギーに呪縛されていたあの国で、彼は言葉を全くつかわずアクロバット、マイム、ジャグリングといった身体の動きだけで、クラウンをひとりで演じきった。彼も「クラウンとは詩人である」と言い、さらに「クラウン、これは職業ではない、これは世界観なのだ。私は人々に喜びや微笑み、そして悪に打ち勝つ善への信頼をもたらすおとぎ話のクラウンになりたい」と語っていた。
 まもなく二十一世紀を迎えようとするいま、道化師に求められているのは、ふたつの相反する世界を自在に行き来すること以上に、まず「ここ」という場をつくりだすことなのかもしれない。「ここ」とは、現代人が失ってしまった人と人が交わる場、心と心を通わせる場のことをいう。そしてそこで演じられるのは、身体を媒体とするおとぎ話であり、詩なのである。
 クラウンは不滅だった。いつの世も道化師は時代の、そして人間の鏡なのだから。


連載目次へ デラシネ通信 Top 前へ | 次へ