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【連載】クラウン断章

第6回 伝説のクラウン−エンギバロフ その1
     エンギバロフのレプリーズ 1

『街の軽業師』 (ULICHNII AKROBAT)
ローラーバランス (KATUSHKA)


 クラウン断章の第2回でとりあげたエンギバロフがつくったレプリーズ(サーカスで演じられるクラウン寸劇)を、3回にわたって紹介していきたい。
 伝説的なクラウン、エンギバロフのクラウニングが、いかに先鋭的なものであったことを知ってもらうことができると思うし、彼がこうしたレプリーズのなかに、自分の世界観を凝縮したものを表現しようとしたこともわかるはずだ。

『街の軽業師』 (ULICHNII AKROBAT)

街の軽業師 エンギバロフのアクロバット技術を駆使したレプリーズ。
 逆立ちのなかでも、最も難しいとされる側倒立( 両手をついた状態の倒立姿勢から、ゆっくりと両足を横に曲げていき、静かにその足を下げていく) の姿勢で、街から街を彷徨う、売れない軽業師の悲哀を描いた。
 エンギバロフが、このレプリーズをつくる動機となったのは、ルイ・アームストロングの「セントルイスブルース」を聞いたことであった。このブルースに、エンギバロフは悲惨な運命への嘆き、悩んだ魂の孤独な物語を聞き取った。そしてこのイメージが彼に、失敗を繰り返し、自分に裏切られ続け、成功することが信じられなくなった放浪する軽業師、実際は、巧みな技をもち、その芸も素晴らしいのに、自分で自分のことが信じられなくなった軽業師の物語を生み出したのだ。
 エンギバロフはこの話を、いままで自分が練習を重ねてきたアクロバットと悲しいブルースにのったパントマイムという表現手段で演じたいと考えたのだ。

 エンギバロフの回想:
  「すべてのリハーサルが終わったとき、サーカスの楽団のトランペット演奏者に、なにかブルースのような曲を演奏してくれと頼んだ。そのときトランペット演奏者は、ブルースといったっていろいろあるぜ、どんなのがいい、と言ってきた。そう、アームストロングのブルースの即興をやってくれ」

 アームストロングのブルースが静かに流れる。客席の照明がゆっくりとおちていく。ただ細いあかりが、アリーナにちいさな円を描く。このなかで、側倒立ができる、街の軽業師の悲しい物語がゆっくりと演じられるのだ。彼が街の軽業師であることは、外面からはなにも分からない。たとえば小さな絨毯を脇にもっているとか、帽子をもって歩きまわるとかはしない。観客は、彼がストリートパフォーマーであることを想像の世界で、感じ取るのである。人それぞれ自分のイメージでこの物語を描くことができるであろう。例えば、「バラ色の時代」のピカソが好んで描いたおちぶれた軽業師やクラウンを思い浮かべることもできるだろう。
 観客は、この軽業師が演じる側倒立の一連の動きにただ、息を呑むだけである。驚くべき技を次々に演じおえたのに、軽業師は、自分が失敗したと確信し、悲しげに、頭を垂れ、ポケットに手を突っ込み、静かに広場を立ち去る。この時客席から嵐のような拍手がまきおこる。悲しげなメロディーにのって、ゆっくりとしたトーンでのこの退場は、なにか重苦しい希望のない情感を呼び起こすのだ。
 このレプリーズは、のちに悲しい、あるいは悲劇的と称されるようになるエンギバロフのキャラクターを最初につくりあげたものだとされている。いまではこうした悲劇的叙情的なレパートリーは、珍しくなくなっているが、これをエンギバロフが初めて演じた頃は、大変な冒険と考えられた。実際アルメニアのサーカス団はこのレパートリーを、まだ若いクラウンの失敗作だと考えていた。観客が熱狂的な拍手でこのレパートリーを迎え入れたとき、やっと市民権を得ることができたのだ。
 『街の軽業師』は、振付、難易度の高いアクロバット、リズム、音楽、照明などのサーカス芸術のあらゆる要素が、ひとつとなり、観客に訴えかけた。このレパートリーは、エンギバロフにとってクラウンニングの新しい発見となったのだ。

ローラーバランス (KATUSHKA)

 台の上に円形状のシリンダーを積み重ね、その上でバランスをとる芸をローラーバランスという。この道具−円形状のシリンダーをカトゥーシカという。
 エンギバロフは最初、自分の仲間であるローラーバランスの芸人たちのために、このギャグを考えた。

 エンギバロフの回想:
 「それはあまり面白くないと見なされ、その芸人たちは演じるのを拒否した。そこで 自分自身がローラーバランスの芸を学ぶハメになったのだ。いまではこのコントは、私のレパートリーのなかで、気に入っているもののひとつである」

 練習を重ね、エンギバロフは、当時としてはこの芸の最高の水準である、5つのカトゥーシカを積み重ねた上でバランスをとることができた。この番組が成功したのは、もちろん彼のバランス芸の見事さにもあることにはあるが、この芸をつかった形式の面白さにあった。
 彼は、この作品のなかで寓話という手法を用いた。これによりとりあげる素材(題材)に対する作者である自分の関わり方を明確に表現することができた。そして結果的に、観客たちが教訓的な結論を得るように導いていった。
 これは人間の虚栄についての寓話である。
 ある男が最初はひとつのカトゥーシカの上で、バランスをとり、その次はふたつ、さらには三つと積み重ねていく。しかしこれでもまだ足らない。冒険心でいっぱいのこのバランス師は「さあ、もっと持ってこい、好きなだけ高いところまで」と自分を駆り立てる。 この男はカトゥーシカの上で、バランスを成功させるたびごとに、儀式として自分自身にメダルを贈るのだ。つまりひとつのカトゥーシカの上でのバランスを成功させると、すぐに自分の胸にメダルをつける、二つのカトゥーシカの上でのバランスを成功させると二つのメダルを下げるというぐあいにだ。コントの最後近くには、この男の限りない上昇欲は比喩的に誇張される。もうふたつや三つのメダルではなく、たくさんのメダルを自分に授与するのだ。メダルは、胸のうえだけでなく、背中にも付けられ、キラキラ輝き、カチャカチャ音を鳴らさせ、さらに、帽子の中から滝が流れるように落ちてくる。
 観客は、この単純なテーマのなかに、裏に隠されたシニカルな意味、現実とのアナロジーを捉えることができた。このギャグは60年代末に演じられたのだが、この時代の高官たちが、虚栄心の虜となり、勲章をつけることが大好きであったことを、観客たちはみんなよく知っていた。
 このレパートリーは、静の状態と動の状態が、非常に対照的に組み合わされていた。ローラーの上でバランスをとっている時と、自分で勲章をつけたあと駆け回ることで、静と動の対比が見事に描きだされる。
 ブレヒトの異化効果の影響があったと思われる。
 エンギバロフは、この時期ブレヒト、そして異化効果に大変興味をもっていた。

 エンギバロフの言葉:
 「私は、いつもギャグをただ演じるのではなく、たとえどんなちっぽけなギャグであろうが、自分がつくったヒーローたちを見守り、あるいは非難しながら、自分の作者としての立場を表明しようとした」

 「カトゥーシカ」は、エンギバロフのレパートリーの中で、構成において最も練られ、そして芸術性において、最も円熟した作品のひとつであろう。
 第一に 危険な道具を使ってのバランスという、人の目を引くスペクタクル性の強いものを見せたこと。
 第二に、社会の断面を暴露してみせたこと。
 第三に、寓話という手法をとり、この手法により、メインテーマを尖鋭化させることができた。
 最後に、作家の立場を明確に表明したことだ。
 このレプリーズのなかでエンギバロフは、はじめて誇張という手法をとりあげた。リングで、社会の欠陥を暴露したのだ。つまり際限のない虚栄心、みせかけだけのものを風刺的に格下げし、そのインチキ性を暴いたのだ。こうした形式は、サーカスにとってはまったく新しい表現方法であった、直截的に表現するのではなく、ブレヒト的に異化したやり方をとったのだ。
 エンギバロフは絶えず自分の番組に手を加え続けた。エンギバロフ自身こうした仕上げの仕事をデタリザーツィア(細部にわたって検討すること)と呼んでいた。

 エンギバロフの言葉:
 「自分のコントを、私は絶えず細部にわたって検討を加えた」

 ある時彼は、このレプリーズを次のように演じた。
 エンギバロフは、道具をオーケストラに近づけて演じた。
 四つのカトゥーシカの上で演技を終え、すでに勲章だらけになり得意の絶頂にいる。いよいよ最後の五つ目に挑戦する前に、エンギバロフは、オーケストラの指揮者のところに近づき、短いマイムでこんな意味のことを伝える。
 「あなたはちょっと下手に演奏してます」としかめ面で文句を言うような表情をする。「タッタッタッとこんな風、ちょっとひどいよ」と前に突き出された指を素早く動かす。「いいですか、こんな風に、私のこの高度な事業に相応しい、輝かしい祝いの曲を演奏するのです」と胸は思い切って突き出す。このパントマイムによる演技が素晴らしかった。音楽も不協和音が鳴り響き、この愚かな虚栄に対するあてこすりが感じられる。
 カトゥーシカは、エンギバロフがつくりあげてきたクラウニングに、新しい一頁を加えた。


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