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【連載】クラウン断章

第7回 伝説のクラウン−エンギバロフ その2
     エンギバロフのレプリーズ 2

彫像(STATUJA)
皿(TARELKI)


 エンギバロフのレプリーズの中から『彫像』と『皿』を紹介する。
 古典的なコントをエンギバロフは、独自な味付けをして再現した。

彫像(STATUJA)

 民衆演劇や大道芸のなかで古くから使われたコント。すでに16世紀に広場などで演じられていた。忘れられたり、また復活したりしていたが、17世紀にからくり人形が世界中に広まったときに、クラウンたちはこの古いコントを思い出し、彫像のかわりに、からくり人形をつかった。
 彫像にはいくつかのバリアントがあるが、そのなかで最もすぐれたものは、「ローマの兵士」であろう。

 「ローマの兵士」

 ホワイトクラウンが贈り物として人間の大きさをした兵士の人形をもらう。これをみていたオーギュストは「すごいなあ、これは。どうしたら動くのだろう。ねじを巻くのかな。」贈り物をもらったホワイトクラウンは、鍵をかけ出ていく、この愚図の相棒に、きつく「絶対に触るなよ。」と命じたが、これが守られるわけがない。この悪戯好きの大人の赤ん坊であるオーギュストは、もちろん、この玩具と遊びたくてしようがない。慎重に、こわごわとこの謎にみちた人形に近づく、そして注意しながら触ってみる。「フフフ、なんの危険もないじゃないか。」さらに大胆になる。中になにがあるか興味が湧いてくる。すると突然、トントン、ビュー、ガチャン! 人形がこなごなに壊れ、歯車が分解、スプリングも飛びだす。なにをしたらいいのか、どうしたらいいのか? この大事なものが壊れたというのに、頭にいい考えが浮かんでこない。悪戯をした子どものように、このことを隠そうとする。オーギュストは、自分が人形になりすますことにする。彼は鉄の鎧を着込む、これがまず笑いを呼ぶ。愚図がすることはすべてあべこべなのだ。剣を両手にもつのだが、刃先が上になり、いつも自分にぶつかってしまう。舞台袖から相棒の声と足音が聞こえてくる。これがまた新しい即興を生み出す契機となる。「ローマの兵士」の持ち主が現れると、オーギュストは石のように固まって動かない。しつこいハエが、顔のまわりを飛ぶ、すると大きなくしゃみをする、剣があるべき場所にないので、気がつかないように直す必要に迫られる。また背中が痒くなる。しかしホワイトクラウンが彼の方を向くと、また瞬時に静止する。

 もうひとつの例
 50年代のハンガリーサーカスのなかで演じられた「彫像」

 彫像になりすましたオーギュストの傍にあるベンチに若いアベックが座るという状況のなかで演じられる。彫像はあつかましく彼女の方に近づき、男が彼女にちょっかいを出したように思わせながらいろいろ不躾なことを女にする、女は怒って彼の横っ面をひっぱたく。男はさくらんぼを彼女にすすめる。オーギュストはさくらんぼが入っている紙袋に手を突っ込みというぐあいに、同じようなことが、繰り返されるのだ。

 エンギバロフの言葉:
 「私がこの古いコントをアリーナに戻そうと思ったのは、新しいアイディアのストックがなくなったということではないし、私たちの古典に敬意で報いたいといことでもない、もっとことは簡単なことなのだ。『ボクシング』や『彫像』は、私に自分の表現したいことの動機を与えてくれたからだ。こうした古いコントを通じて、今日私や私の同時代人を悩ませるていることを、もっと鮮明に表現することが出来たのだ。」

 エンギバロフがこのコントを取り上げるきっかけになったことについて

 ブィストロフ(クラウン)の証言
 「エレバンのサーカス場で働いている時だった。この公演を終えるにあたってさよなら公演として『笑いの夕べ』が開かれた。この時私たちは『彫像』を演じた。ちょうどこの時エンギバロフがエレバンに来て、私たちのリハーサルを見て、すっかり興奮しながらこういってきたのだ。「もしあなたが同意してくれるのなら、このコントを私も演じたいのですが、いかがでしょうか。」私はこう答えた。「どうぞ、このコントは、誰のものでもない、皆がつかっているのだから」
 半年たって再び会ったとき、びっくりたまげたね、『彫像』とは思えなかった。正直びっくりしたよ。このコントは何世紀にもわたって演じられてきた。しかしどんなクラウンもこんな風にこのコントに変化をつけることは思いもつかなかったろう。確かにレーニャ( エンギバロフ) は、ひとつの図式だけは残しておいた。オーギュストが彫像に変わるということだけは。しかしあとのことは全くの別物だった。面白かったし、賢明であった。」

 エンギバロフの『彫像』

 テーマは善。
 主人公はクラウンのレーニャ。ひとりの娘に恋している。しかし彼女の方は、彼よりも別な男のことを好いている。彼女は、前にレーニャと会った同じ公園にやって来る。なんという裏切り! 彼女は新しい愛人と一緒だ。愛を拒絶されながら、いまだ彼女を慕うレーニャは、幸せだった過去への懐かしさにひかれここにやってきたのだが、いまここでこのふたりの逢引きの目撃者となってしまう。
 こんな状況にすっかり取り乱した、憐れな男は、このアベックを邪魔しないように、といって他になにをしていいかわからず、急いで公園の彫像に扮する。愛に盲目となったこのアベックは、こんな簡単なトリックにも気づかないでいる。
 娘へのレーニャの気持ちは純粋で、誠実なものだ、彼女への献身的愛情に駆られた彼は、突然この逢引きを手伝いはじめる。このお人好しの高邁な行為は滑稽でもあると同時に感動的でもある。しかし娘が選んだ男に徳が欠けているのは、一目瞭然だ。なれなれしく、気取りながら、不作法なのだ。彼らは彫像の下のベンチに腰掛ける。男は娘を抱こうとするが、娘が手に持っているハンドバックが邪魔する。このやっかいものを掛けるフックがどこかにないかとまわりを見渡す。
 ここで彫像はとても言葉では表せないような滑稽な動きで、親切にも、指を曲げて、差し出す。どうぞ、ここに掛けて下さいと。男は掛けようとするが、どうしても届かない。そうするとフックは自分で下に下がり、ハンドバッグを掛けてやる。この彫像の動きは、いつも爆笑を呼んだ。
 このあとも、興奮した若い男は、煙草を取り出し、火をつけようとして、ポケットをまさぐりながらマッチを探す。ちなみに、この男は、チェックの上着を着て、目深かに鳥打ち帽子をかぶっている。マッチがない、男は畜生と舌打ちする。この時も彫像は、動作でがっかりしなくてもいいですよ、ほらあなたに火を差し上げますと甲斐甲斐しく彼にライターを差し出す。この無邪気さも観客席からあらたな笑いも呼び起こす。実際は馬鹿げたことなのかもしれない。彼は裏切られたのにも関わらず、悪に対して善で対処しようとしているのだから。
 ふたりのアベックは、キスをする。なんたる拷問! 不幸なレーニャは、涙を押さえることができない。道化芝居でいつもやるように、彫像の目からふたつの水しぶきが流れ飛ぶ。恋人たちは、これをにわか雨がふってきたのかと思う。するとすぐにまたレーニャは、甲斐甲斐しく傘を開いてあげるのだ。
 エンギバロフは、簡潔にそしてまたメリハリをつけながら、この魅力的なお人良しのキャラクターをスケッチした。このお人好しの愛は、恋敵に対するエゴイスティックな敵意を越えたものだ。コミカルなおふざけの向こうには、惜しみなく与え続けようとする、美しい精神が透けてみえる。
 それはドストエフスキイの作品に出てくる登場人物、「貧しい人々」のマカール、「未成年」のアルカージイ、「白痴」のムィシキンと同じ精神といえるかもしれない。

 エンギバロフの言葉
 「ムィシキン伯爵の特徴は、私がつくるクラウンの人物像のなかに体現されているといってもさしつかえない。しかしわずかの違いがあるとすれば、ドストエフスキイのつくった主人公は、悲劇的な人物であるが、私のクラウンは、本質的には悲喜劇的である。基本的には同じである。両者とも人間について思い悩み、また助けを呼ぶ声には、応えようとする」

 この「彫像」では、「ボクシング」ほどはコミカルな調子が濃密ではないといえるかもしれないが、笑いは十分にとれている。エンギバロフの言葉にしたがうならば、ユーモアによってセンチメンタリズムから逃れている。「彫像」を演じながら、甘ったるい調子に陥ることは簡単なことである。これはエンギバロフ自身が言っていることである。ただひとつのことを忘れてはならない、ユーモアの感覚だ。自分の考えをさらにふくらまし、エンギバロフは、こうも言っている、善良さの魅力によって、観客の感情にはたらきかけられたらいい、しかしそれは微笑みをつうじてだ。

皿(TARELKI)

 サーカスのリングマスターのかけあいで演じられる。
 クラウン対リングマスターの図式、いたずら者と厳しくリング上での規則を遵守する監 督官。この対立は、道化寸劇の格好の材料となる。

 エンギバロフのコント

 リングマスターは、自分のことをジャグラーやアクロバットと思い込んで、しつこくまとわりつく、いたずら者を思い知らせようと、道具に、ほんとうの瀬戸物の皿を与える。当然のことだが、このいたずら者は、次々にこの皿を割ってしまう。これが全体のストーリーだ。一見するとなんでもない小劇なのだが、他のエンギバロフのナンバーと同じように、表現に富み、精神的な教訓にあふれている。
 レーニャは、もう役に立たなくなり捨てられていた、古いデコボコになったアルミニウムの皿をつかってジャグリングをしようとする。しかしほんとうのジャグラーがやるように、巧みに、投げて、キャッチすることができない。そう簡単ではないのだ。もちろんこの失敗の一因は、彼がどこからか手に入れたこのアルミの皿にもある。ここにリングマスターが現れ、いたずら者の目の前で、白い瀬戸物の皿を巧みにあやつってみせる。ほう、どうだといわんばかりに。そして「どうやら、おまえはジャグラーになりたいらしい、よろしい、それではおまえがこれにむいているかどうか、ためしてあげよう。」とでもいうかのように、リングマスターは、腕に皿をおいて、それを上に放りあげて、地面に落ちる寸前に、見事にキャッチする。おまえにできるかなとでもいうように、リングマスターは二枚の皿をレーニャに差し出す。
 レーニャは、古いアルミの皿を脇に投げ捨て、両手に、スボットライトに照らされ白く光る、二枚の皿をもつ。
 しかし同じように皿を放りあげるてみるが、ガチャンという音をたてて、空中でぶつかり、こなごなに皿はわれてしまう。
 「がっかりすることはない、これは初心者にはよくあることだ、他の皿をあげよう」とリングマスターは、いたずら者をなだめる。この時、レーニャは、こんな大事なことをするのに、自分の格好があまりリッパでないことに気づく。一瞬舞台袖に消えたレーニャは、リングに燕尾服と黒の皮手袋(リングマスターのしているような白い手袋は見つからなかったのだ)を身に着け、現れる。燕尾服は身体に全然あわず、クラウンに間抜けな感じを与える。
 慎重に注意深く、レーニャは事にとりかかる。しかし、赤いリングの絨毯の上に、嘲り笑うかのように、また白い破片が飛び散る。燕尾服も役にたたなかったのだ。苛立ちながら、若者はリングマスターにまた新しい皿をくれるようにせがむ。しかし一度も成功することはない。失敗するたびに、観客は、悲しみが増すのを感じる。若者の夢が打ち砕かれるのを見るような気がしてくるのだ。エンギバロフはここで最大限の工夫を見せた。同じことを繰り返すのに、ひとつひとつに工夫を凝らされ、私たちをうんざりさせることがない。
 滑稽なディテールは、喜劇の構成でもっとも大事なものである。「喜劇役者はディテールと節度の感覚から成り立つ」と言われるているくらいだ。「皿」は、滑稽な技がたくさん盛り込まれている。レーニャの手に、皿の破片しか残らないとき、まるでこの失敗が、彼に責任があるとでもいうように、自分の先生をきつい眼差しでじっと見つめる。そして、ふたつの破片を先を研ぐ。しかしまたすぐに、節度をとりもどし、陽気な微笑みで血の報復をどこかにやってしまう。すべてをいたずらに変えてしまうのだ。そしてふたつの破片を肩に置き、将軍の肩章のようにして、ナポレオンのポーズをとるのだ。
 すぐにでも複雑なジャグリングの技術を取得できると思ったレーニャの自己過信は、当惑にかわってしまう。これが滑稽さの源となった。
 相次ぐ失敗のあと、エンギバロフはすっかり気落ちしてしまう。そのしょげた姿はこんなことを語っているようだ。「サーカスの奇跡を起こす人になりたいという私の透明な夢は、粉々にくだけ散ってしまった。」
 彼は、ゆっくりと燕尾服を脱ぎ、そして次に手袋をとる。彼にとってこの立派なものたちと別れを告げるのは、淋しいことだった。どうにもならない、他のものはもう彼には必要のないことだ。彼は、絨毯のうえにすべてを注意深く置く、そして深く、深くため息をつく。結局これからレーニャはなにも得ることができなかったのだ。サーカス場には、静寂が訪れる。観客は、この若者の悲しみがよくわかった。悲しみは客席に伝わっていくのだ。
 レーニャは、地面から古いアルミの皿を拾い上げる。わずか7分前に要らなくなったとして、軽蔑げに捨て去ったものだ。レーニャは、注意深く皿のごみを吹きはらい、またまるで生きているもののように、頼るものないものとして、いとおしげに胸に抱きながら、うなだれながら出口に去っていく。

 過去のクラウンの芸には全くなかった小劇

 特にラストの意外性−コメディアンはにぎやかななかで、観客席に爆笑の渦を巻き起こして、退場するために、いつも効果的なオチを得ようとする。しかしここでは『街の軽業師』と同じように、陽気ないたずらにとってかわるのは、悲しげなトーンである。
 滑稽なものと悲劇的なものの調和のとれた結合は、エンギバロフの創造方法の最も特徴的なことである。−これはエンギバロフのスタイルと呼ばれているものである。


エンギバロフ秘蔵のビデオをおわけします

レオニード・エンギバロフ  いまほとんど映像で見られないエンギバロフのビデオをデラシネショップにて販売いたします。
 これは、ドイツで放映されたドキュメンタリー(20分弱)と、ロシアで放映されたドキュメンタリー(20分強)を特別に編集したものです。
 エンギバロフが出演した映画のシーン、マイムのエチュード、さらには前回と今回紹介したレプリーズも含む、彼の寸劇が収められた貴重な映像ばかりです。

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