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【連載】クラウン断章

第8回 パルーニンは語る その1

 モスクワで開催された『演劇オリンピック』で野外劇のディレクターをするために、モスクワに久々に帰ってきたパルーニン。彼が語るクラウン論を数回にわけて紹介していきます。
 リツェジェイという伝説的なクラウングループを生み出したパルーニンは、コーディネイターと同時にクラウンとして演じ続けている。生涯クラウン、そんなことを彼は思っているのではないだろうか。
 パルーニンについての覚書。一回目は、彼のプロフィールを中心に紹介する。

パルーニンについては【連載】Back to the USSR第3回もご覧下さい


 スラーバ・パルーニンは、いま世界で最も精力的に活躍しているクラウンといっていいだろう。自ら舞台に立つほか、プロデューサーとしてさまざまなクラウンフェスティバル、ストリートパフォーマンスショーを仕掛けている。特に昨年は、モスクワで開催された『シアターオリンピック』の野外劇プロデューサーとして、クラウン野外劇や船上カーニバルなどを制作するなど、久しぶりに故国に戻り、意欲的な活動を見せてくれた。いまはロンドンを拠点に活動しているが、モスクワにクラウン劇場をつくるため市とかけあっているというニュースも伝わっている。彼の頭のなかは、クラウンに対するさまざまなアイディアでぎっしりなようだ。

 彼とは二度あって話をしたことがある。最初に会ったのは、渋谷にBeamというホールがオープンしたとき、『リツェジェイ』というグループを率いて初来日した時だった。彼に、自分はミミクリーチの公演をなんども日本でプロデュースをしていると言ったら、とても嫌な顔をして、彼らは『リツェジェイ』のコピーだ、と言い放ったので、あまり突っ込んだ話はできなかった。確かにソ連時代にグループのクラウンを結成したのは、パルーニンが最初だったし、モスクワで最初にクラウンを探していたとき、皆『リツェジェイ』を推薦してくれた。ただその時すでにパルーニンは、パリに亡命していたので、実際に呼ぶための働きかけはせず、その代わりにミミクリーチを呼んできた経緯があった。

 二度目に会ったのは、『アレグリア』の日本公演の時だった。パルーニンは、シルク ドゥ ソレイユと契約し、『アレグリア』のためのクラウンシーンの演出するほか、自らも出演していた。『アレグリア』日本公演では、最初の一ヶ月だけ出演していた。ここでパルーニンは、おなじみの全身黄色いコスチュームを身につけ、哀愁漂うクラウンを演じていた。今度は彼から会いたいと言ってきた。彼は『Snow Show』という新作をつくり、それを日本でも公演したいという希望をもっていた。そこで前に会った私のことを思い出したらしい。
 前回に比べてこの時は、ずいぶんいろいろな話しをした。『Snow Show』の他にも、いま彼が準備している作品のアイディアを聞かされた。ドストエフスキイの『白痴』をクラウン劇にしたいとか、私の会社も何度か呼んで公演していた女性クラウン、ノーラ・レイと一緒に、「ダマボーイ」(家の中にすむといわれる霊)をテーマにして作品をつくりたいとも言っていた。その他にもクラウンがたくさん乗った『愚者の船』をつくって、世界中をクルージングしたらどうだろうとか、女性だけのクラウンのフェスティバルを開催したいとか、夢を語って聞かせてくれた。この時、彼がエンギバロフの崇拝者であることも知った。彼の頭の中は、クラウンに関することで飽和状態になっていることがよくわかった。最後に別れる時、「でも僕は生涯クラウンとして演じ続けるつもりだよ」と言ったのが、とても印象に残っている。最初は『Snow Show』を売り込むためのミーティングだったのだが、クラウンのことで、ビジネス抜きに話し合えたことが、彼自身とても楽しかったようだった。

 去年モスクワでシアターオリンピックが開催されることになり、彼がプロデューサーのひとりとして名を連ねているのを見て、相変わらず精力的に活躍していることを知った。そして彼は、モスクワであの時語っていた夢のひとつ『愚者の船』を実現させようとしていたことも知った。フェスティバルの最終日にモスクワ川に浮かべた船で、世界から集めたクラウンたちのショーを演出したのだ。もちろんこの船は、世界中をクルージングするまではいかないが、それにしても夢への大きな一歩であることにはかわりがない。
 モスクワで『シアターオリンピック』を見てきた友人が、持ち帰ったパンフレットを見て、彼があの時語っていた夢を少しずつ実現していたことにも驚かされた。

 昨年9月ロシアの週刊誌にこんな投書が寄せられた。
 「もしかして、モスクワにはクラウンは残っていないのではないか。ユーリー・ニクーリンは死んでしまったし、オレグ・ポポフはドイツに行ってしまい、こちらには戻ってこないようだ。パルーニンがちょっとモスクワに立ち寄ったらしいが、彼を永久に呼ぶというわけにはいかないのか」
 アシーシャというクラウンネームでみんなから愛されながら、ほとんどロシアを離れて公演しているパルーニンが、モスクワでシアターオリンピックのために祖国に戻ってきたことで、みんな彼のことを思い出したようだ。
 パルーニンも、パルーニン国際演劇文化センターをつくり、その本拠地としてモスクワに劇場をつくりたいというプランをもち、モスクワ市と交渉しているようだ。
 彼のクラウンにかける夢は、まだまだ果てがない。


 次号では、彼のインタビュー記事を一部抜粋して紹介するので、彼の肉声を伝えることができると思う。
 最後に簡単な彼の略歴を紹介しておく。

1950年 ノヴシリ・オルロフスカ県の小さな町で生れる
1968年 レニングラードで最初のショーをつくる
1979年 彼が結成したスタジオが、職業専門劇団『リツェジェイ』となる
1982年 この時に国内にあったパントマイムを集めて、「マイム・パレード」を開催 プロデュース
1985年 モスクワで開催された国際青少年学生フェスティバルで、モスクワの観客のために、ヨーロッパからクラウンやマイムを招聘して公開。これはこのジャンルにおける最初のショーとなり、モスクワ市民に忘れられない出来事となった。
1987年 フィンランド湾にある無人島で、ソ連国内のクラウンやマイムを集めて、最 初のストリートフェスティバル『リツェジェイ−リツェジェイ』をプロデュース
1988年 最初の全露フールコングレスを開催
1989年 ソ連で最初に開催された街頭演劇フェスティバル『世界キャラバン』(モス クワとレニングラード)のイデオローグ、プロデューサー
このあと、ヨーロッパのストリートコメディアンを交え、ヨーロッパ巡業(半年間)
1992年 モスクワとレニングラードで『愚者のアカデミー』を結成する。
1993年 女性クラウンフェスティバルをプロデュース
2000年 7年ぶりにモスクワでソロショー『スノーショー』を上演
2001年 モスクワで『世界の野外劇』をプロデュース
受賞歴
 「ローレンス・オリビエ賞」(ロンドン)
 「凱旋賞」(ロシア)
 「ヘルプマン賞のベストビジュアルシアター部門」(オーストラリア)

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