月刊デラシネ通信 > サーカス&パフォーマンス > サーカス サーカス漂流 > 第5回

【連載】サーカス漂流

第5回 『海を渡ったサーカス芸人』−サワダファミリーとの出会い

 モスクワを訪れた時、スラフスキイの書斎で、見せてもらった写真が、私にとって二冊目の本となる『海を渡ったサーカス芸人』を書くきっかけとなった。この写真は革命前のロシアで活躍していた日本のサーカス芸人のものだった。名前のわかる人もいたが、私にはまったく未知の芸人ばかりだった。複写して持ち帰った写真も載せて、共同通信で「ロシアに渡ったサーカス芸人」という記事を書かせてもらった。写真を見て、誰か知っている人が名乗りをあげてくれるのではないかという期待があった。反応は思いもかけないところからあった。島根県に住む永見さんという人から、ドイツで仕事をしていたとき、マンフレッド沢田という日系の元サーカス芸人と会ったという手紙が届いた。これが、沢田ファミリーとの長いつきあいのはじまりだった。
 何度か手紙でやりとりをして、彼の父沢田豊が、ヨーロッパでも有名なサーカス芸人であることはわかった。ただ手紙のやりとりだけでは、もどかしかった。やはり会って直接話を聞きたいと思っていた時、ヨーロッパに行く仕事が舞い込む。高校時代の親友が、ドイツに住む日本人ルジチカ・タキエさんを紹介してくれ、連絡をとり、マンフレッド沢田が住むニュールンベルクを訪ねた。1990年のことだった。ここでマンフレッドは、家族の思い出の写真を見せてくれるほか、父のこと、家族のことをまくしたてるように語り続けた。そして最後に、父の故郷日本を死ぬ前に一度訪ねたいとポツリとつぶやいた。叶わぬ夢だということを承知しているようだった。
 帰国して、この話を朝日新聞の記者に話したところ、写真入りで大きく全国版の記事として掲載されることになる。記事は大きな反響を呼んだ。まず横浜に住む親戚たちが、次々に名乗りでてくれ、さらには、野毛大道芸フェスティバル実行委員会が、ぜひ翌年のフェスティバルに、特別ゲストで招待したいと言ってきてくれたのだ。この知らせは、タキエさんを通じて、マンフレッドに伝えられた。マンフレッドはすっかり興奮し、日本に行ける、と泣いて喜んだという。
 来日する前に、ひとつ大きな問題がもちあがる。マンフレッドの旅券が、一次旅券で、日本に入国すると同時に失効し、ドイツに戻れなくなるというのだ。ここでひとり救世主が現れる。ミュンヘンの領事館で、マンフレッドの旅券を実際に見ていた神奈川県警の割栢さんだ。戸籍さえ残っていればなんとかなりますよと、親戚たちから話を聞き出し、自ら横浜市南区役所で、父沢田豊の戸籍抄本を見つけ出してくれたのだ。これで、日本に来た時に、数時旅券を発行してもらうことができる、いったんは諦めかけていた日本の土を踏むという夢は、こうして実現する。
 1991年4月マンフレッドは、妻と息子を連れて、日本にやってきた。わずか一週間の滞在であったが、大道芸フェスティバルの特別ゲストとして大歓迎を受け、さらには親戚たちも集まり、交流を深めることができた。夢のようなひとときだったと思う。この滞在中彼は、意外なことを思い出してくれた。父と一緒にブラジル公演した時に、現地の日本語新聞で、自分の半生記を連載していたというのだ。マンフレッドも知らない父豊の少年時代や、サーカス芸人としての遍歴が、ここに書き記されているという。マンフレッドたちが帰国したあと、私はこの記事が掲載された『日本新聞』を国会図書館で見つける。海を渡ったサーカス芸人の一生は、マンフレッドの話と、この記事で、すべて明らかにされることになる。1993年沢田豊の波瀾に飛んだ生涯を書いた『海を渡ったサーカス芸人』が出来上がる。
 これで、私の中で、沢田の物語は終わるはずだった・・・しかしこのあとも交流は続くのである。本ができて、2年後マンフレッドが、入院しているという知らせが届く。どうしても横浜で過ごした時のビデオを見たいと、うなされがら繰り返しているというのである。親戚の川島さんと、一緒にビデオを持って、見舞いにドイツまで行くことになった。病院で見たマンフレッドは、2年前に日本で見た時よりもずいぶんと小さくなっていた。意識が朦朧とするなか、彼は私の手をしっかり握って、うわ言のように「ヨコハマ、ヨコハマ」と繰り返した。死を目の前にして、横浜で過ごした一週間が、マンフレッドの脳裏に、走馬灯のようにかけめぐっていたのであろう。私たちがドイツをあとにして、およそ一カ月後にマンフレッドは、72歳の生涯を閉じる。
 これでも話は終わらなかった、まだ後日談がある。東北放送が、私の本をもとに、『20世紀大サーカス』というドキュメンタリー番組をつくったのだ(1997年)。この取材のために私はまたドイツへ行くことになった。そしてこの旅で、沢田豊の長女で、いまでもスイスのサーカスで働いているタニコさんと会うことになる。いまでも娘2人とサーカスと一緒に旅するタニコさんに、家族の絆、そしてサーカスを支えに、幾多の困難を乗り切った父沢田豊の人生が重なってきた。
 沢田タニコは、91歳になるいまも、元気にサーカスとともに旅しているという。まだまだ沢田の物語は続いているのである。


連載目次へ デラシネ通信 Top 前へ | 次へ