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【連載】サーカス漂流

第6回 『海を渡った芸人』−ヤマサキとの別れ

 今年3月モスクワでの仕事が一段落したので、モスクワ郊外にあるナルフォミンスクに行ってみようと思い立った。ここにはアレクセイ・ヤマサキという日系ロシア人が住んでいる。5年ぶりの再会になる。突然訪ねて驚かせようと思い、電話もせずに出掛けた。アバートの扉をあけた夫人が、私の顔を見るなり、顔を崩して泣きじゃくりだした時、すべての事情がのみ込めた。アレクセイがもうこの世にいないということを。

 『モスクワで粛清された日本人』という一冊の本が、私たちの出会いのきっかけとなった。ソ連崩壊後、次々に暴露された党の秘密文書を調査し、戦前ソ連に渡った多くの日本人が粛清された事実を追求したこの本の中に、「ヤマサキ・キヨシ−元サーカス芸人」という記述を見て、もしかしたら彼はずっと私が追い求めていたロシアに渡ったサーカス芸人のひとりかもしれないと思った。いてもたってもおられず、著者の加藤哲郎氏に手紙を出したところ、「ヤマサキキヨシ」に関するKGB秘密文書、取調調書のコピーが送られてきた。手書きの尋問記録を読むうちに、彼が戦前ロシアに渡った日本人のサーカス一座「ヤマダサーカス団」のメンバーであることがわかった。
 モスクワでスラフスキイにみせてもらったロシアで活躍した日本人サーカス芸人の写真の中には、1912年モスクワで公演したヤマダサーカス団のメンバーが何人か含まれていた。ヤマサキの調書には、1905年ロシアに渡り、1912年モスクワで公演したという供述がでてくる。彼がヤマダサーカス団のメンバーであったことはまちがいない。しかしロシアに渡り、革命後もソ連に残った芸人が、日本人スパイとして処刑されていたという事実は、衝撃だった。
 彼がどんな理由でロシアに渡り、なぜ革命後もソ連に残り、そしてどうして粛清されなくてはならなかったのか、それを知りたいと思った。ただこの調書だけで、彼の生きた足跡をたどるのは無理だった。彼と血の繋がった人間を探すことが、先決だった。彼には、奥さんとふたりのこどもがいたことが調書にでている。この人たちを見つけ出せば、なにかがわかるかもしれない。でもどうやってと思って、なんども調書を読み直しているうちに、意外なところに糸口があった。70頁あまりの秘密文書の最後に、彼が無実の罪で粛清されていたことを証明する文書も含まれていたのだが、そこに名誉回復を求める息子のアレクセイの手紙があった。そこに書かれている住所は調書にでてくる父の住所と同じだった。もしかしたら彼はまだここに住んでいるのかもしれない、そう思い、調書のコピーを同封して、手紙を送ることにした。
 反応は早かった。まもなくアレクセイ・ヤマサキから手紙が届く。そこには「父が日本人だったことは知っていたが、サーカス芸人だったとは知らなかった、父のことをもっと知りたい」と書かれてあった。私は、彼に会いに行くことを決意した。
 1998年12月モスクワから車で3時間ほどのところにある、ナルフォミンスクのアレクセイのアパートを訪ねた。
 アレクセイが5歳の時粛清された父のことは、ほとんど記憶にないという。ただいつもスパイの子と呼ばたこと、そのため早くこの町から出たいと思っていたこと、母が死ぬ前に「お前のおじさんが、日本にいるから探せ」と言われたこと、私から手紙をもらって、いてもたってもおられずモスクワの日本大使館に行き、なにか父の記録がないかと尋ねたものの、玄関払い同然で追い払われたことなどを、興奮しながら語り続けた。そして父のことが知りたい、どんな生き方をしたのか、日本にもしも父の記録が残っているのなら、それを調べてもらいたいとも。私は、日本には旅券を申請した時の記録が残っているし、マスコミを通じて探すこともできる、絶対に探し出してみせると約束した。
 帰国してから共同通信配信で、ヤマサキの情報を求める記事を書き、外交史料館に行き、旅券申請の資料も調べた、自分のHPだけでなく、「モスクワで粛清された日本人」の著者加藤哲郎氏のHPと提携して、ヤマサキに関する情報を求めた。できる限りのことはした。しかしまったく手がかりを得ることはできなかった。そんなこともあってアレクセイに、二、三度手紙を出したきりのままだった。
 一年前の5月のことだった。夫人の話しだと、ほんとうに急のことだったという。突然頭が割れるように痛いとわめきだして、そのまま倒れ、亡くなったという。
 アパートの近くにある、お墓に案内してもらった。墓を見て、私の胸にどうしようもない無念さがこみあげてきた。自分が言い出し、父親のことを探そうと言ったのに、彼との約束をなにも果たせないまま、アレクセイは逝ってしまったのだ。
 なんということだろう。忘れていたことを思い出させ、その気にさせて、私はなにもできなかったのである。モスクワに帰るとき、夫人は、私を抱きしめ、「アレクセイはあなたと会えたことをほんとうに喜んでいたのよ」と言ってくれたのが慰めだった。
 しかし私の胸のなかには、約束を果たせなかったという無念が、いまでも重い軛として残っている。たとえアレクセイが亡くなっても、それを果たさなくてはならない、それが私の義務だと思っている。


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