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クマのコスモポリタン紀行

第5回 長崎

1999年9月レザーノフ日本滞在日記を訳していた私は、どうしてもレザーノフが半年間過ごした長崎を自分の足で歩く必要性を感じた。駆け足で歩いた長崎取材日記を公開します。

1999年 9月5日

 5時半起床。6時半家を出て、羽田空港へ。土曜日でかなり混み合っている。朝食を食べることもできず、搭乗。9時50分長崎空港着。どんよりとした曇り空。リムジンバスで、長崎駅前に。Iコピーに電話。直接シーボルト記念館で会いましょうということに。腹が減ったのでバスターミナルで、立ち食いのうどんを食べたあと、タクシーでシーボルト記念館に向かう。

 小川に沿った細い路地沿いに記念館がある。鳴滝塾のあった隣に建つ赤い建物が記念館。そんなに大きくはないが、落ち着いた静粛な感じに好感がもてる。いままでなんどか電話でやりとりをしてきた学芸員のN氏が、開口一番「首を長くしてまっておりましたよ」と声をかけてくれる。IコピーのIさんもすでに到着していた。N氏は電話の声からこちらが勝手に想像していたように、大柄で、見るからに豪快そうな九州男児。
 早速別室で、今回の長崎訪問の一番の目的である『魯船滞船日記中山作三郎控』を見せてもらう。立派な装丁で、保存状態もなかなかいい。厚さ10センチぐらいはあるかもしれない。パラパラめくらせてもらう。どうやって複写させてもらうかで、Iコピーと打ち合わせ。今日はすぐに出来ないので、後日撮影することになった。

 N氏が複写申請の手続きをしてくれる間、また別な部屋で待つことになった。ここでひとりの婦人が、熱心に古文書の裏打ち作業をしていた。手持ちぶたさだったので、この婦人にいろいろ話を聞く。この古文書を水で洗うと汚れと糊がとれ、きれいに見えるという。誰から習ったわけでなく、自分で覚え、その実績をもとに、はじめて先生といえる人たちの教えを受けることができるという。話しているうちに、県図書館のH氏の話がでてきた。H氏とは、何度かファックスと手紙でやりとりをしており、H氏を通じ、レザーノフの辞書を県図書館に寄贈することになった。これをH氏がとても喜んでくれていたことが、婦人やI氏の話から知ることができた。

 やっと複写申請の手続きが終わり、I氏とは撮影したあとに、請求書をつけて送ってもらうことになった。
 N氏が自分ももうじき帰るから、一緒に飯でも食いましょうと言ってくれる。その前にせっかく来たので、記念館を一回りすることにした。
 3階は展示替えということで見れなかったが、自分にとっては出島のバルコニーの絵が参考になった。事務所に戻ると、N氏の帰り支度が完了、館長に挨拶して記念館を出る。
 タクシーで、ロシア料理屋ハルビンに向かう。せっかくロシア通の大島さんが来たのだから、といって案内してくれたのだ。クワスとパン(おいしかった)、冷しスパゲッテイを食べる。

 N氏は、この日公休だったのにも関わらず、休みを返上してくれ、今回の最大の目的であった、長崎通詞中山作三郎が持っていた、レザーノフ来航当時の通詞たちの日記を複写するために、つきあってくれたのだ。これもまた縁なのではないだろうか。
 玉井とシーボルトの長男アレクサンダーとの関係もある、しかもN氏は、漂流民のことについて一緒にラジオドキュメンタリーをつくった東北放送のKプロデューサーもよく知っているという。この人とはきっと、ずっと付き合うことになるだろうと思う。

 N氏があのおばさんが裏打ちしていた古文書はなんだか知ってますか、あれは本木の資料なのですよと教えてくれた。来年ここで予定している「知らざれる通詞の記録展」の一番目玉の展示物になるとのことだ。
 本木庄左衛門、長崎通詞のひとりとしてレザーノフの時には激しくやりあい、また日露会談のあと、秘密工作をレザーノフにもちかけるこの男は、いま訳しているレザーノフの「日本滞在日記」のもうひとりの主人公だといってもいい。本木の子孫が、長崎に残っているのではないか、それを探るのも、今回の長崎訪問の大きな目的のひとつだった。これも何かの縁なのだろう。

 嬉しかったのは、N氏が別れ際に、握手を求めてきてくれたことだった。うん、絶対この人とは、一生のつきあいになるだろうし、今回N氏の尽力で閲覧複写できた通詞日記とレザーノフの日記、そして長崎図書館から入手した公式記録、これを生かして、なにか書かなくてはならないと思った。

 N氏と別れたあと、歩いて県の図書館に。4階の郷土室でH氏を訪ねる。カウンターの当番の日で忙しいのにも関わらず、書庫からいろいろ貴重な本を出してくれる。レザーノフの資料は結構一杯あるのですよといって、次々にこちらの質問にテキパキと答えてくれた。気になる本木家のことについては、明治20年代に途絶えてしまったとのこと。これは残念、ひとつ手がかりが消えたことになる。H氏は、大光寺にある本木家の墓というのは、他の通詞たちのものと比べものにならないくらい立派なものです、何故あんなに立派な墓が建てられたのでしょうかねと、とても気になるようだった。
 寄贈していたレザーノフの辞書も見せてもらった。立派な装丁に仕立ててくれていた。H氏は、資料の価値を知ってくれている。ただロシア語をやる人が長崎にいないので、これだけの資料を読む人がいまはいないことを残念がっていた。でも資料は、いまだけのものではない、またいつか誰か研究しようという人が現れてくるはずだ。その時まで、資料として保管されていること、これも大事なことだと思う。
 これだけロシアと関係が深かった長崎に、ロシア語ができる研究者がいないことを残念がっていたが、これはN氏も言っていたこと。
 5時閉館のアナウンスが流れたので、ここでH氏と別れる。元北大のA先生と同じように、ながいつきあいになるような気がする。

 ホテルにチェックイン。ビールを飲み、少し横になる。せっかく長崎に来たのだから夜の町の匂いぐらいは嗅いでおこうと思い、8時頃歩いて思案橋あたりまでふらふらと歩いく。一応目標はチャンポンの店探し。なかなか賑わっている。土曜日の夜ということもあるのだろうが、思案橋付近は、細い路地がいくつもある。広島の飲み屋街流川と似ている。チャンポンは結局ホテル近くの中華屋さんで、食べる。美味しかった。大波止のコンビニで、ウィスキイの小瓶を買ってホテルに戻る。朝早かったのでやはり疲れてしまった。この日はじっくり熟睡。

9月6日

 7時半起床。8時すぎに朝飯。どんよりとした曇り空。天気予報では雨の降る確率は少なかったのだが。駅のコインロッカーにリュックを預ける。カメラとノート、そして念のため傘も持つ。

 まずは梅が崎へ。一度行ったことはあるのだが、その時は時間がなかったので、タクシーでぐるぐるまわっただけ。やはり歩いた方が地理的なこともはっきりと実感できる。昨日H氏から、梅が崎郵便局あたりが、宿舎があったあたりらしいということを聞いていた。前回は気づかなかったのだが、この郵便局(住所は梅が崎1−1)の前に、ロシア人気球飛翔の碑がたっていた。
 郵便局から石階段が続いていたので、登ってみる。急な坂道に家が立ち並んでいる。レザーノフの日記では宿舎の裏が、山になっていたとあるが、それが実感できる。この坂道に立ち並ぶ家で、古そうな石垣も見られた。新道に続く、郵便局前の通りの家も結構古い家がある。梅が崎という地名があるエリアは、そんなに広くない。これがそのままロシア人宿舎と断定はできないが、レザーノフがぼやいていたように、そしてドゥーフも賓客をもてなすのに、あまりにも不適当な場所だと書いていたように、かなり狭いところだったのではないだろうか。郵便局の前あたりから海だったのだろう。

 大波止まで歩く。途中雨が本格的に降ってくる。いまの海岸通り、市民病院があるあたりは、海だったのだろう。梅が崎から出島までは、歩いて7〜8分ぐらい。ロシア人宿舎から肉眼で、出島のオランダ商館は見えたであろう。会談の時にレザーノフ一行は船で、大波止まで行っているが、出島を右手に見て、航海をしたのだろう。時間にして30分ぐらいかかったのかもしれない。大波止は、いまも五島や伊王島などに出る船のターミナルがある。伊王島、高島行きの船が出ている。レザーノフたちは最初伊王島沖に碇泊している。時間的にも高速艇で、30分ぐらいでいけるので、乗ってみることにする。

 11時35分発の高島行きの船に乗る。船のデッキで、地図を見ながら、木鉢、大田尾のあたりを確認する。高鉾島は、木鉢のすぐ近くにあった。長崎の入り江は、両端から半島にはさまれているので、高鉾島あたりを長崎港に向かって少し進んだあたりで、初めて町が見えてくる。伊王島や木鉢からは、まったく長崎の町の全貌が見えないことがわかる。レザーノフが長崎港に入って、町を目にしたときに胸に去来したものは何だったのか。両岸に見えた山の段々畑を見て、コロセニウムのようだと書き、この美しさは、とても字では書けないとも書いている。それはやっと日本に着けたという安心感だったかもしれない。
 伊王島でかなり客が下りる。新しい観光リゾート地になっているようだ。

 高島は、かつて炭鉱があったところ。人の気配があまりない。ゴーストタウンのようだ。1時間半後にまた長崎に戻る船が来る。海沿いの道を歩いてみる。今年できたという海水浴場まで来たところで、ポツン、ポツンと大粒の雨。見る見るうちに、空が真っ黒になり、大雨が降ってくる。幸い更衣所の近くだったので、そこで雨やどり。季節外れで海水浴を楽しんでいた家族2組と、外人のグループも逃げ込んでくる。さっきまで見えていた伊王島も、まったく見えなくなる。20分ぐらいで雨は上がった。ターミナルまで戻り、13時35分発の船に乗る。
 コース的にいうと、レザーノフが長崎に入ってきたコースをたどることになる。高鉾島を左に見て、神の鼻を過ぎたあたりから、長崎の町を臨んだことになるのだろう。14時5分ターミナル着。名物の五目うどんを食べる。

 ここから長崎奉行所があった立山まで歩いてみる。結構雨が降りそうだったので、早足で歩いたのだが、30分ぐらいで奉行所前に着いた。どの通りを通ったのだろうか。おそらくは自分が歩いた道を通ったのだと思う。レザーノフは、まるで葬式のようだったと書いている。通りの家々は全て、戸を締め、警備の人間以外、人通りはまったくなかったという。おそらく小一時間ぐらいかけて奉行所まで籠に乗って、この道を進んだのだろう。二回目の会談の時は、雷も交えての、豪雨が降った。レザーノフが、随行の人間も駕籠に乗せてくれと、抗議しているが、無理もないことだと思う。

 県の美術館は県展を開催中で、常設展を見ることができなかった。早々に引き揚げ、寺町にある、大光寺へ向かう。寺町は狭い通りに沿って寺が立ち並ぶ、文字通りの寺町。狭い通りから、山沿いに建てられている墓が見える。雨がいよいよ本格的に。途中古本屋をのぞく。郷土資料が充実していた。ちょうど中国のお盆ということで賑わう崇福寺の近くに、大光寺があった。まったく人の気配がない。本木昌造の墓という案内板があったので、わりと簡単に本木家の墓所を見つけることができた。坂をかなり登ったところにあったのだが、H氏が言っていたように、かなり大きい、そして一角を仕切った立派な墓所。一番大きいのは昌造のものだが、庄左衛門の墓もかなり大きい。正栄の墓の字をノートに写す。H氏は、どうしてこんな大きな墓なのか、他の通詞たちの墓でこんなに大きいものはない、何故か不思議だといっておられたのがよくわかる。

 この隣の寺、大音寺には、石橋助左衛門の墓がある。雨がかなり強くなってくる。大音寺には、フェートン号事件で責任をとり切腹した松平図書守の墓があるという案内板があったが、見つけられず。石橋の墓も結局は見つけられなかった。
 レザーノフの日記中、彼と直接関わった日本人で最も鮮やかに描かれているのは、本木庄左衛門である。忠実な官吏石橋と比べて、本木は野心を心に秘めた、時にはあけすけに国の秘密を語る男として書かれてある。印刷を日本で最初に始めたという本木昌造は、庄左衛門の義理の息子である。通詞として活躍したあと、維新後素早く転身した昌造にもその野心は受け継がれているのではないか。レザーノフはどちらかといえば、嫌な男として本木を描いているのだが、あれだけ人間像がわかるように書き込んでいるのは、それだけ気になったのではないか、それだけ魅力的な人間だったのではないだろうか。そしてどちらかというと官吏として付き合ってきた日本の役人の中で、人間として付き合ってきたからそんな風に気になったのではないだろうか。馬場為八郎と本木は、レザーノフにとっても魅力的な人間だったのではないだろうか。そんなことに思いがいった。

 さすがに今日は歩きづくめで疲れてしまった。大光寺の近くの喫茶店で休憩。コーヒーが美味しかった。お替わりをする。雨も降っていたので、タクシーで長崎駅に。近くのホテルの名店街で娘のかや子と結子のためにカステラのお土産を買って、宅急便で送る。駅で絵はがきを購入。絵はがきを見ると、いわゆる名所で行っていないところはたくさんあることがよくわかる。しようがない。バスターミナルから、空港行きのバスへ。疲れていたのだと思う。熟睡していた。空港で食事。20時30分発の飛行機で関空へ。明日の朝、関西空港に来日するアーティストをピックアップすることになっている。

 収穫が多い旅だった。取材旅行などというのは、前に若宮丸漂流民のラジオドキュメンタリーをつくる時に、Kプロデューサーと函館、札幌を取材して以来のことかもしれない。長崎でレザーノフが見たところは、今回の旅で全部見ることができたと思う。それが実感できたことが大きい。それとN氏、H氏という人と出会えたことが、なによりも大きな財産になったと思う。きっとこれからもずっと付き合うことになるだろう。ふたりとも個性は違うが、レザーノフ来航の意義をほんとうに良く知ってくれていた。このつきあいを大事していきたい。それがこの旅の一番大きい収穫だった。


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