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クマのコスモポリタン紀行

第6回 仙台

 石巻若宮丸漂流民の会の第一回目の例会が開かれた仙台市博物館は、仙台観光名所のひとつ、青葉城公園のなかにある。ここは、私にとってはなじみの深いところである。この下にある、追廻住宅と呼ばれている、仙台のひとつの辺境の地で、3歳から17歳まで過ごしたのである。
 もともとここは、終戦の年の11月、厚生省所管の住宅営団が、戦災者や外地からの引場者のために建設した住宅だった。仮の住まいということもあったのかもしれないが、長屋のような棟の小さな家屋が、狭い道に面して密集していた。隣の家でなにが起きているかがすぐにわかる、長屋生活を過ごしていたわけだ。ここで過ごした10数年間は、私にとっては決して忘れることができない、濃密な時間だったと、いまあらためて思う。ここで少年時代をおくれたことは、幸せだった、そうつくづく思う。

 辺境の地だと書いたが、広瀬川と青葉城に挟まれたところで、町と山をつなぐところだということがひとつ、美しい都市つくりのため公園にしたかった仙台市にとって、このバラックのような家が密集するところは、目障りだったということが、もうひとつある。仙台市と、追廻住宅の住民は立ち退き問題をめぐって、50年ちかく対立していた。
 辺境の地だったからこそ、濃密な少年時代を過ごせたのかもしれない。
 まず身近に自然があった。青葉城や植物園、八木山には歩いていけた。それも藪をかき分け、川を渡りと、ちょっとした冒険気分を味わうことができた。すぐそばを流れていた広瀬川で、夏はみんな泳いでいた。私はただ水につかるだけだったが・・・。カジカや鮎などの魚も捕れた。また五色沼、長沼という沼があり、冬は、学校から禁じられてはいたが、スケートもできた。青葉城近くには亜炭山という小高い丘があり、そこで橇滑りをしたものだ。とにかく遊ぶ場所にはことかかなかった。

 遊び場所がたくさんあったということは、逃げ場所があったということになるかもしれない。秘密に悪いことをする場所がたくさんあったのだ。
 コンコンさんと呼ばれた、昼でも暗い稲荷神社が、町はずれにあった。ここで悪ガキたちは、知恵遅れの女の子を相手にお医者さんごっこしたり、火遊びをしたりしていた。
 この町はずれは、子供にとって、ひとつの異界になっていたのだと思う。コンコンさんもそうだったが、そのもう少し先に、三本の大きな杉が立っていた。私たちはここを三本杉と呼んでいた。ここは肝試しの折り返し地点になっていた。このあたりは昼でも薄暗く、なんとなく妖気が漂っていた。まわりも昔の練兵場のあとで、一面藪だった。この近くの山肌に、洞窟があった。ここへもよく行った。空き缶にろうそくを立てて、探検をしたものだ。横穴がいくつもあり、迷うと結構焦った。三本杉の先へいくと、辰の口と呼ばれた渓谷があった。ここには化石があり、よく拾いに行ったが、たしか学校からは入るのを禁じられた場所だったと思う。ここはまた自殺の名所で、救急車のサイレンがなると、みんなで自転車に乗って駆けつけたものである。この辰の口の上には八木山の吊り橋があったのだ。小学校の頃だったが、ここから落ちた百人目の自殺者がでたということで、新聞に大きくとりあげられた。なんでも百人のうち1人だけ、もとレスラーという人が、死ななかったということだった。
 この八木山ではなかったが、青葉城になにか探しに行った、向かいに住む同級生が誤って墜落、救急車で運ばれたことがあった。落下した場所は、コンコンさんの近くだった。救急車がいつものように来たので、みんなで行ったら、同級生が青い顔に血を滴らせタンカで運ばれてきたので、びっくりした。あの青い顔を見て、てっきり死んだと思った。お姉さんやお母さんが、半狂乱になっていた。幸いなことに、1カ月ぐらいの入院ですんだ。
 冬になるとこのあたりにスミカをつくった。これをまわりから見えないようにつくるのだが、誰かが見つけて壊す、そしてそのリベンジとばかりに、壊した相手のスミカを見つけて、壊す、一種の戦争ゲームもしていた。

 みんなと野球をしたり、肝試しをしたり、スミカつくりをしたり、橇滑りをしたりもしたが、孤独にもなれるところでもあった。夏になると、私はよくひとりでセミとりをしていた。何時間も飽きずに、セミを求め、山を歩いた。なにか面白くないことがあったり、親に叱られたりした時は、簡単に家出できたのだ。
 子供の頃、とにかく学校から帰って、家にいることはあまりなかった。カバンをおき、外にでかけ、この辺境にあった自然と異界を相手に遊び歩いたわけだ。

 そしてこの町には、いろんな人たちが住んでいた。一癖もふた癖もある人たちばかりだった。野球が盛んで、いまヤクルトのコーチをつとめている八重樫なども、ここの出身だった。登山のピッケルつくりでは、日本一と呼ばれた人もいた。
 一番印象に残っているは、「六さん」と呼ばれたおっちゃんだった。ゴミ拾いのようなことをしていたが、ねぐらは私の家の裏の誰かの家の鳥小屋だった。ちょっと頭がおかしかったのだと思うが、子供たちの人気者だった。「六さん」の得意技は、おならを自在にできることだった。「六さん、屁して」と頼むと、あいよとばかりに、足をあげて、見事に一発かましてくれた。子供心に凄いなあと思ったものである。「六さん」は皆から馬鹿にはされていたが、愛されていた。夏のお祭りの時には、神輿の先導役をしていた。
 火事もよくあった。密集した、木造の長屋の住宅地だったので、火の手が早い。忘れられないのは、幼稚園の卒園式のあとにあった、仙台史に残る大火だった。何十軒もの家が燃え上がった。船乗りの父親が航海中で、おふくろが、私と弟をパトカーに預け、ひとりで博物館のある山の方にタンスや布団をひとりで担いで、運んでいた。子供心にあの火の勢いでは、もうダメだろうと思ったのだが、なんとか被災は免れた。おふくろには、もうタンスや布団を持ち帰る力は残っていなかった。火事場の馬鹿力というのは本当にあるのである。


 この濃密な、そして幸せな時間を送った追廻を出てから、30年以上経っている。
 あれだけ密集していた住宅の三分の二以上はもうない。野球をしたグランドや、三本杉のちかくにあった藪はもうなく、テニスコートになっている。辰の口は立ち入り禁止。洞窟があったあたりは、いま仙台市が進めている青葉城の石垣づくりの現場になっている。コンコンさんもあるが、すっかり荒れ果ててしまった。鳥居もすっかり朽ち果てている。長沼や五色沼が美しくなっているのは、公園整備の一環なのであろう。でもただ美しくなっているだけなのだ。子供の時沼にあった、蓮もないし、水草もない、沼のまわりにあった小道もない。のっぺり、ただきれいなだけの沼しかない。
 昔私たちが大通りと呼んでいた、追廻のメインストリートを歩いてみる。一番驚いたのは、軒を並べる家の屋根が低かったことだ。これだけ年月が経ち、身長も伸びたのだから、当たり前のことなのかもしれないが、昔は見上げていた家の軒並みを、見下ろすように歩いていた。
 人通りも少ない。まるでゴーストタウンの西部の町を歩いているような感じだ。映画『真昼の決闘』とか、『荒野の決闘』とかみたいに、砂ぼこりが舞うなか、誰もいない町を歩く、そんな気持ちだ。

 50年近く争われていた市と住民との立ち退きをめぐる対立も、ある意味で終局に差しかかっているだろう。ここ、私が少年時代を過ごしたこの場所が、長沼や五色沼のように、ただきれいなだけの公園になってしまうことに一抹の寂しさを感じてしまう。立ち退いた家の跡地に、家庭農園がいくつかできていた。その手入れをするおばあさんやおじいさんだけしか見かけなかった。あの時は町中子供たちで一杯だったのに。
 表札を見ながら通りを歩く。小学校の同級生の名前の表札がいくつかあった。みんなどうしているのだろう。
 昔私が住んでいた家は、もうすでになかった。でもまわりにあの時と同じままの家が何軒があった。あのまんまだ。あとは朽ちるのを待つだけなのかもしれない。

 仙台は急激に、住みやすい町として、東京人の関心を集めているようだが、町はただ単に暮らしやすいところだけであってはいけないと思う。町は、辺境や闇を抱えるぐらいではないと、つまらないものになってしまうのではないだろうか。
 辺境の住宅地追廻、その存在意義をもう一度考えてみたい、考えて見ようよ。


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