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クマのコスモポリタン紀行

第8回 済州島紀行編 その2

2004年5月20日(木)

 10時に起こされる。頭がフラフラ、喉カラカラ。とにかく朝飯を食べようと言われ、昨日のレストランへ。とにかくなにかをつめこんでおくという感じ。でも韓国でよかった。キムチがあるとかなり助かる。
 このあと、社長さんの部屋に行って、馬サーカス誕生の経緯を聞かせてもらった。

『モンゴル馬サーカス』誕生秘話

 社長さんは、このグリーンリゾートの支配人をする前は、競馬のジョッキーをしていたという。たしかに150センチちょっと越えるぐらいのジョッキー体型をしている。年齢は49歳、私のひとつ下。とにかく精力が体中からみなぎっている。若いなあ。ジョッキーをしていた社長さんが、何故馬サーカスを経営することになったのか?まずは江口君の話から。

 「あれは1997年のことだったと思います。済州島で花のフェスティバルがあるということで、ジギドを見せてくれというオファーがあり、僕といまのこのチームリーダとふたりで、馬の鞍だけもって済州島に来ました。公演の1日前に牧場で調教しやすそうな馬を選んで、ほんとうに簡単なジギドを見せたのです。しかもこのときは前の日に選んだ馬とはちがう馬を使うことになりました。これが評判よかったみたいで、翌年の春にまた呼ばれました。この時社長さんと会ったのです。社長さんは僕たちの演技を見て、すぐに契約するから7月に来いというのです。そして7月28日にまた済州島にまた鞍だけ持って、来たのです。馬が5頭飼われていました。この中の4頭を調教して、1週間後にはショーがはじまりました。この時は3頭の馬をつかってショーをしました。絶対にできないだろうと思いました。だってなにもないんですよ。原っぱがあるだけ、僕といまのリーダーとふたりで、古いタイヤでバリエール(柵)をつくって、舞台をつくりました。
 最初の日僕たちのショーを見に来たお客さんは、3人だけでした。しかもおじいちゃんが2人の孫を連れてきていたので、子供たちはショーそっちのけで、あっちへいったりこっちへいったり、おじいちゃんはそれを追いかけていたわけですから、ショーなんか誰もみてないのと同じでした。
 それから一週間ぐらい経ってからです。お客さんが70人来ました。その時は、社長さんは大喜びでした。「ありがとう、ありがとう」って。」

 3人のお客さんからはじまった馬サーカスは次第に評判を呼ぶようになる。この人気に目をつけた業者が、次々に済州島のなかに馬サーカスをつくる。多いときでは、4つのグループがあったという。でも次第に淘汰され、いまではこのグリーンリゾートだけが、馬サーカスを続けている。
 社長さんは、「江口君は最初の時から私を助けてくれました。私たちは兄弟と同じです」と江口の肩を抱いた。いまの時期は済州島はシーズンオフでお客さんもあまりいないが、シーズンになると、1日4000人のお客さんが来場するという、済州島の人気観光スポットになっている。
 江口君はジギドの仲間たちを次々に呼び、グループも大きくし、ショーのレベルをあげている。
 さらに江口君は、ウランバートルにジギド専門の学校を開き、ここで教育した子供たちを、いまやっているショーに参加させている。子供のジギドは、このサーカスの中身をさらに厚くしている。
 済州島は、馬の島でもある。この島で、モンゴルの馬サーカスを定着させたというのはたいしたものである。
 いい話を聞かせてもらった。
 社長さんの話は続く。
 「いまサーカス場をつくっているのですよ。ここで成功したからといって、このままお金をため込むのは嫌なのです。新しいことをしたいと思ったのです。」
 ということで、私たちは、社長さんの案内で島の観光スポットを案内してもらったあと、昨日も立ち寄ったサーカス場建設地へ向かうことになる。


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