クマの公演日誌

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2000年7月21日〜8月2日
福岡キャナルシティー&愛知リトルワールド編


2000年7月21日(金)

 9時55分成田第二空港着。モスクワから到着予定のアエロフロートは、すでに到着済。30分ぐらい待ったころに、ロシアからの人間ボールの3人組アレーシン・グループが出てくる。
 リーダー格のアレーシンは36才、10才のフリップと13才のオレグ、三人とも元気そう。リムジンの切符を買う時に、サミットの関係で羽田まで3時間ぐらいかかるという説明を受ける。羽田からの飛行機は3時すぎなので、十分に間に合うと判断し、これに乗ることにする。
 何故か今日のアエロフロートには子どもの団体が多かった。バスにもロシア人の子どもの団体が乗っていた。
 バスのなかでアレーシンといろいろ話す。彼はかつて私が見て感動した番組のひとつハーレーダッビドソンに仰向けに乗り、人間ボール(仰向けになった下の人間が、人間を蹴りあげ、さまざまな回転技を演じる芸、イカロスとも呼ばれる、日本では人間蹴合呼ばれていた)を演じたコルトバングループに在籍していたことがわかる。
 今回連れてきた子どもは、ひとりは甥、もうひとりは他人の子で4年一緒に芸をしているという。自分の子どもは、独立してサーカスで働いているとのこと。今回の日本公演が終わったらモスクワに戻り、猫の番組をつくる予定というので、猫の調教は難しいのではと聞くと、高いだけだという。なんでもモスクワに猫を専門に調教する人がいて、ネコの芸をする人は、みんなこの人から猫を買っている、ネコはイヌと違って主人より餌に忠実なので、こうして調教された猫を仕込むのは簡単だという。
 このアレーシン、ロシア人には珍しく真面目な男で、とてもクレバーな感じがする。バスの中でロシアの新しい大統領プーチンは、日本でどう評価されているのだろうと聞いてきた。こんなことを話題にするロシアの芸人はあまりいない。
 2時間半で羽田に到着、食事をして(子どもたちはチョコパフェを食べて、大喜びだった)、福岡行きの飛行機に乗り、午後5時半福岡空港着。キャナルシティーのKさんと、昨日福岡に入っている会社のOが出迎え。車でキャナルシティーへ。
 キャナルシティーは福岡最大のショッピングセンター、二年前のオープンから空中ブランコを中心としたサーカスショーがひとつの目玉になっている。ここでステージを見学、仕込みを終えたカナダの空中ブランコ、ステファニーと助手でボーイフレンドのセルジュに挨拶。一緒に宿舎へ。
 宿舎で早速子どものフィリップがトイレで警報ボタンを押してひと騒ぎ。
 夜5人のメンバーとO、私とで近くの居酒屋へ。ここで子どもふたりが出てきた料理を歓声をあげながら、真っ先に手を出して食べるのに、皆大笑い。子どもらしく、元気があっておおいによろしい。
 12時ちかくに就寝。

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2000年7月22日(土)

 遅くまで寝ていた。12時にホテルを出発。久しぶりのキャナルで、バスの乗り換えなどでちょっと戸惑う。
 なんとか13時すぎにキャナルに到着。キャナルのスタッフと顔合わせと打ち合わせ。大きな問題はない。音の素材を編集することになったが、アレーシンが音源としてCDとMD、さらにカセットまで持ってきているのにスタッフはびっくり、彼はロシア人ではないというもっぱら話題に。
 夕方ちょっとリハ、アレーシンが子どもふたりを足で次々に回すのに、お客さんたちはいっせいに歓声。フリップが、この反応にニンマリ。
 17時すぎにもうひとり夏休みのキャナルに参加する、在日のブラジル人でパペットショーをするブルーノが到着。彼は着いたこの日からすぐにステージ。
 17時30分ホテルのロビーで読売新聞の取材の通訳。ちょっと目的不明のインタビューであった。
 19時半ブルーノも交えて近くの中華料理店で夕食。ここでも主人公はフリップとオレグのふたりの子ども、料理が来る度に、すぐに立ち上がりそれを取ろうとするので大騒ぎ、とうとうコーラをこぼし、私のズボンをびしょ濡れにしてくれる。さすがにアレーシンが厳しく張本人のフリップを叱る。フイリップは小さな声で、私に『ごめん』って謝り、少ししょげていたが、またデザートを何にする時に、元気復活。なんとかみんな1ヶ月一緒に仲良くやっていけるのではないだろうか。
 この日は11時ぐらいに就寝。

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2000年7月23日(日)

 10時チェックアウト。12時にOと一緒にホテルを出ることになっいたので、それまで近くを散歩する。
 海の方に行ってみる。このホテルがある近くは、福岡ドームがあるほか、いろいろな新しい施設が集中してあるところ。東京でいえばお台場のような感じの一角。
 12時Oとキャナルへ。このところずっと私を悩ませていた秋のリトルの企画、ラスベガスサーカスのアーティストの件で、ひとつの結論が出た。リトルのS氏から電話で、こちらがプレゼンしていたアーティストに対して、最終回答が告げられる。早速Oと打ち合わせしたうえ、アーティストにメールを送ることにする。
 15時に軽くリハーサル。そして17時に最初の公演。最初は人間ボール、子どもふたりが足で蹴りあげられ、空中でさまざまな回転技を演じるのに、客席からオーという歓声が起こる、圧巻はアレーシンが天秤棒にふたりを乗せて、これを旋回させるというカルーセルの技。この芸は、私がだいぶまえに追いかけていた海外で活躍した日本人サーカス芸人沢田豊が得意としていた芸でもある。遠心力がついてぐるぐる回る棒に必死になってバランスをとりながらしがみついている子どもふたり、ブルーン、ブルーンと棒が旋回する時のうなりが、聞こえてくる、迫力のある芸だった。
 次はステファニーのブランコ。最後の技で落下、この時命綱をもっていたセルジュが大きくジャンプする、一瞬ドキッという感じ。公演後キャナルのスタッフが、あれって、結構ドキドキですよねと言ってくる。
 アレーシンは子ども、特にフリップの表情が固いとおかんむり、ステファニーは失敗したので、ごめんねっと言った後、やはりまだ慣れないところがあるので、しばらくは失敗するかもとちょっとおちこんでいた。
 19時の公演では、セルジュがまた大きくジャンプしたが、技自体は成功。やれやれということで、私とOはこの公演終了後、福岡空港にタクシーで移動。羽田には夜の11時ちかく到着した。

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2000年7月28日(金)

 やっとメンバーが決まった秋のリトルの企画、ラスベガスサーカスのアーティストの査証申請のために、入管へ。入管に行くのはOの仕事なのだが、Oが昨日からヨーロッパにバカンスに出かけたので、久しぶりに申請の仕事に入管に出かける。
 ゲロ込みで3時間ぐらい待たされる。おかげでこの待ち時間で『見世物稼業』を読み終える。
 入管に興行の申請にきている人の3分の2は、いわいるフィリピンさんたちダンサーの資格の人の招聘のため。狭い部屋に物凄い人数の人たちが、申請の順番を待ち、そのあとの申請書類の書き込みで汗を流しながしている。
 招聘会社はそれぞれ、自分の会社の台帳をもっているのだが、これを実に久しぶりに目にすることになった。そうするとACCが初めて招聘事業を始めたときの記録が、自分の字で書かれているではないか。いまから10年ぐらい前の間違いない自分の筆跡である。あれから10年、いろいろ感慨ぶかいものがある。
 17時すぎにやっと申請手続きを終え、浜松町へ。フール祭で協力してもらったろうあ者連盟の文化部長と会う。
 このあと今度はお台場へ直行。日経新聞主催の『夢技術展』の客寄せで出演している、モンゴルのハトガーに会いに行く。
 19時すぎに東京ビックサイトに到着。大道芸コーナーはガラガラ、やはり金土を夜9時までの開催にしたのだが、そこまで家族連れは来るのが難しいということなのだろう。
 ハトガーと久しぶりに飲む。前回会ったのは野毛の大道芸フェスの時。奥さんは妊娠六カ月。ハトガーもこれからが大変だ。応援したいと思うのは、彼が『ツィルカッチ(サーカス野郎)』だからだと思う。彼にとってサーカスとは、皮膚と同じ、肉体から離れないものなのだ。
 そんな彼がビールを飲む前に、昨日モンゴルサーカスの団長が亡くなったという話をする。心臓発作だったという。エルデネサイハンというこの団長とは、とても親しく酒を飲んだこともあったし、喧嘩したこともあった、特に去年のモンゴルサーカスを呼ぶ時に、彼はアーティストの出国を邪魔したり、それで日本の大使館の人ともめたりと、いろいろな思い出がある。ハトガーがいうように、彼の急死は、ある意味でモンゴル国立サーカスの解体を促進することは間違いない。サーカス側の人間でこのあとエルデネの後を継ぐ人間はいない。サーカスとは別な次元で、ビジネスの話が進み、モンゴルのサーカスは買い取られていくのだろう。
 ハトガーはテントを買ってモンゴル国内をツアーしたいという。酔った勢いもあるのだが、私はこのプランに援助を申し入れた、具体的にいうとテントは俺が買ってやる、あとはお前たちで運営しろということだった。サーカスをなくしてならない。サーカスを守ろうという熱意に賭けたいというのは本音である。
 タクシーでホテルに戻るハトガーたちと別れる。今度はいつ会えるのだろう。

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2000年8月1日(火)

 10時50分新横浜発ひかりに乗り大阪に。車中で『江戸の見世物』を読む。
 関空までにいくまで、打ち合わせを2つこなし、難波からラピータに乗り、関西空港へ。
 出迎えに先に行っているACCのNから携帯に電話。待ち合わせを予定したホテルは空港の隣にあるのではなく、りんくうタウンにあるという。りんくうタウンに戻る。
 ACCのNと合流して、ワシントンホテルに、民音の仕事で公演していた上海雑技団のメンバーをピックアップして、いまリトルワールドで公演している上海魔術団のところに連れていくのが、今回の仕事。すでにリトルでの公演は先月20日から始まっている。
 さよならパーティの真っ只中メンバーの藩さんを発見。荷物を持ってまた関空に戻る。Nはここから羽田へ向かい、私と藩さんははるかと新幹線をつかって名古屋へ向かうことに。電車は空いているのだが、乗り換えの度にトランクを持って運ぶのが、結構大変。情けない話だが、翌日腕がパンパンに張ってしまった。
 関空を出たのが、8時5分、結局犬山の宿舎に着いたのが、11時すぎ。長い一日だった。
 宿舎に着いた時に、リトルのS氏から携帯に電話。白木屋で飲んでいるという。すぐにそこに向かうから待っているように頼む。ビールが飲みたい。S氏、Kさん、Yさんの4人で2時ぐらいまで飲む。
 今日は総体のためホテルがどこも空いてなく、公団のアパートに泊まることになった。

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2000年8月2日(火)

  公団から犬山までおよそ50分歩く。駅前のトイレで着替えて、 バスに乗り、リトルワールドへ。
 藩さんは今日は出演しないで、公演のあとリハーサルをすることになった。
 一回目の公演を見る。変面、衣装の早替え、気功、火吹きとバラエティー に富んでいるし、お客さんの受けもいい。
 S氏と秋のラスベガスについて打ち合わせ。一番の問題は、BMXのため のボードを他の演技に支障ないようにどうセッティングするかということ、 BMXのアーティストから来た図面をもとに、実際に舞台でどうセットする かをいろいろ検討する。
 二回目の公演のあと、リハーサル。この演技は古い伝統あるマジックで、 次から次へと水の入った皿を出していき、それだけでなく、最後には水が満 杯になったでかい壺までを出すという技なのだが、全員がお手伝いをしなく てはならず、そのリハをかねて、場当たりを二回、音楽のきっかけをチェックして、衣装をつけてリハをする。水や壺、皿などは全部身体に仕込んであることはわかっても、次々に実際に水が入ったままでてくるというのは、やはり不思議。所長もご満悦だった。
 事務所に戻り、ラスベガスの契約書をもらう。S氏とは今日は名古屋で飲むことになっていたので、一足先にリトルを出る。
 19時20分名古屋駅前でS氏と落ち合い、前任者のSさんとの待ち合わせ場所に行く途中、やはりリトルに以前勤めていたSさんとばったり会う。一緒に飲みに行きましょうということになり、結局4人で駅近くのミュンヘンでビールを飲む。それぞれまたリトルの思い出話に花が咲く。
 気づいたらもう21時10分、指定をとってあった新幹線が21分だったので、駅まで走ることに。なんとか間に合い、あとは熟睡、結局新横浜を乗り過ごし、東京まで行くハメに。12時すぎに帰宅。

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