クマの公演日誌

前の日誌へ クマの公演日誌 Topへ 次の日誌へ

2000年9月25日〜10月6日
カザフスタン&韓国編


2000年9月25日(月)

 会社を1時半過ぎに出て、京成上野駅からスカイライナーで成田空港第一ターミナルへ。チェックインを済ませたあと、売店でお土産(忍者のTシャツ5枚とハッピ1枚)購入。入国審査を済ませたあと、会社と家に電話。17時25分UA881便に搭乗。
 機内でよど号のハイジャッカーのその後を丹念に追いかけたノンフィクション『宿命』を読みはじめる。なかなか面白い。20時10分ソウル金浦空港に到着。入国手続き、税関の手続きはほぼ日本並、30分ぐらいで出られる。煙草を一服吸った後、タクシーで南天門にある、イースタンホテルへ向かう。
 街の看板はすべてハングル、全然わからない文字の洪水がちょっと新鮮に感じられる。漢河のそばを都心に向けて走る通称オリンピック道路を突っ走る。このオリンピック道路を下りてからは、渋滞に何度か巻き込まれる。特にホテル近くの南天門が混み合っていた。若い人が多い。ホテル到着。
 最初はとてもホテルとは思えない建物の前に止まったので、違うところに来たのではないかと思ったのだが、運ちゃんがイースタンだと、建物を指さす。ホテルの周辺は暗く、玄関前にはわけのわからん人たちがたむろしている。歌舞伎町の裏にあるようなホテルの雰囲気だ。受付に行くと、「大島さんですか」と声をかけられる。今回いろいろ手配や通訳をお願いしたフリージャーナリスト栗原さんだった。大体9時半ぐらいになるだろうということで、待っていてくれたのだ。
 旅行社からもらってあるクーポンを渡しただけで、名前や住所を書くわけでもなく、いきなり鍵を渡される。何故かエレベーターの前には、タスキをかけたお姉ちゃんが立っている。荷物を置いて、すぐに下におりますからと栗原さんに言ってエレベーターに乗る。部屋を開けてびっくり、4畳半ぐらいのスペースにベットもなく、床に布団が敷かれ、枕がふたつ並んでいる。ここは連れ込み宿なのかもしれない。とにかく一泊するだけだし、今日は寝れればいい。荷物を置いて下へ。
 栗原さんの案内でホテル裏にある料理屋へ入って食事。ここはなんでも南天門市場というソウル最大の市場があるところで、食い物屋は24時間営業しているところも少なくないという。ホテルから2・3分のところにあるじゃがいもと肉を鍋にした料理を出す店に入る。ジンロ(焼酎)を頼んで、このじゃがいもと肉鍋をつつく。これがなかなかうまい。ジンロは日本で飲むものより甘口。あまり好みではない。ただ辛口の料理がほとんどなので、こうした料理には合うかもしれない。300CC入りのジンロを3本飲む。18,000won。
 栗原さんとは初対面で、電話で2度ほど、メールで2〜3度やりとりしただけ。お互いいままでなにをやってきたのかを中心に、簡単な顔合わせという感じ。今回の韓国での予定と目的などを説明する。韓国に戻るのは10月3日、それまでに今回の韓国訪問の目的である綱渡りの金大均氏とのミーティングの日取りや公演を見る予定などの段取りをお願いする。2時間ぐらい打ち合わせしたあと、ホテルに戻る。部屋には扇風機一台とテレビが置いてある。ちょっとオリンピックを見たあと1時ぐらいに就寝。

このページのTopへ

2000年9月26日(火)

 9時過ぎ起床。シャワーを浴びる。シャワー室には手桶というか洗面器が用意してある。他はなにもなし。荷物を簡単に整理して、10時にチェックアウト。
 ホテル前でタクシーを拾う。ホテルの近くには、最近は日本の若い女性に大人気になっているという南天門マーケットビルが立っている。とにかくこのあたりは車が多い。例のオリンピック道路に出るまで、ずっーと渋滞が続く。とにかくこのタクシーの運転手は、車線を変更するのが大好きなようだ。なんとなく大阪の街をタクシーで走っているような錯覚に陥る。オリンピック道路に出てからは、わりとスムーズに走ることになったが、この運ちゃん、とにかく車線変更に命を賭けているのではないかと思うくらい、無茶苦茶な運転をする。あとでこれは異常ではなく、韓国ではきわめて当たり前の運転方法であることを知ることになる。
 11時すぎに空港に到着。これはあとでわかったことなのだが、金浦空港は成田同様2つのターミナルがあり、航空会社によってターミナルが違う。この運ちゃん日本人が多く利用する第一ターミナルではなく、何も聞かず、週に一度しか発着しないカザフスタン航空がある第二ターミナルに着けてくれた。確かに昨日着いたターミナルではないなという気はしたのだが・・・。(20000won)。
 チェックインまで少し時間があったが、どこのカウンターがカザフ航空かわからず、それを確認するためにあちこち動き回る。11時30分すぎにやっとカザフ航空のカウンターを発見。どこからともなく巨大でしかも莫大な荷物を持ったロシア人、カザフ人が集まってくる。嫌な予感がしてきた。チェックインを待つ列は見事に乱されていく。次から次へ脇から入ってくる。
 12時ちょい前に搭乗受付。うまく空きカウンターを見つけ、3番目ぐらいにチェックインできる。脇から入る技術はあっても、要領は悪いところがロシア人やカザフ人のかわいいところかもしれない。荷物を預け、少し自由になったので、ますは腹ごしらえ。レストランで冷麺とビール。これが高い。7,000won。日本並の物価だ。
 今回カザフに一緒に行くことになる吉本興業の田中さんが大阪から到着しているはずなので、早めに入国手続き。カザフ航空のゲートに田中さんの姿は見えず。免税店でバーボンを購入。喫煙室で煙草を吸ったあと、ゲート付近にあったトランジットカンターで田中さんを発見。ふたりで免税店をブラブラしたあと、出発ゲート付近で休憩。
 13時45分搭乗。カザフスタン航空は初めて乗る。エアバスで、わりと設備はいい。別々にチェックインしていたので、田中さんとは席は別々。隣に座った韓国人が、面白いおっさんで、どうも喉が渇き、腹も減っていたらしく、なかなか出ない機内食やドリンクサービスに業を煮やし、カバンから韓国の栄養ドリンクや饅頭のようなものを取り出して食べるのだが、その度に私にもそれをくれる。栄養ドリンクも饅頭も決してうまいものではないのだが、なんか食べないと悪いような気がして、ゴチになる。
 昨日読みはじめた『宿命』に夢中になる。昼食を食べ、ビールを飲み、ワインも飲んで、少しは眠くなるところなのだが、本に熱中する。あと1時間ほどでアルマトゥイに着くというところで、窓から天山山脈が見えてくる。
 田中さんもやってきて、この広大な山脈に目を凝らす。前回アルマトゥイに行ったときには見えなかった景色に圧倒される。山の塊が果てしなく東西に伸びている。この山脈の西の果てでパミール高原とつながっていることを思うと、普段は思ったこともないのだが、地球という言葉を噛みしめたくなる。そして一見荒野と見えるこの山脈のなかに人が住んでいると思われる集落もいくつかある。自然と人、途方もないスケールで、生きているそんな感じにちょっとスゲェーなと驚かされる。
 『宿命』が佳境に入り、あと残すところわずか数十頁というところで、窓の外を見ると、すぐ目の前に山並みが迫って見えてきたのに、思わず息を飲む。天山山脈を越えようとした時に、遠くに雲のような山のようなものが見えて気になっていたのだが、たぶんあれが、いま見えている山並みだと思う。そしてこの山並みをこれから毎日アルマトゥイの街から見ることになる。それにしてもすごいと思ったのは、普通飛行機に乗って景色を見るといっても、眺め下ろすことがほとんどなのに、いま目の前にしている山並みが、目線より上にあることだった。こんな経験は初めて。アルマトゥイに向けて飛行機は降下していたのだ。
 まもなく到着するというアナウンスのあとに、只今のアルマトゥイの気温は6度という報告にびっくらする。おいおいいくらなんでも極端ではないの。
 アルマトゥイの空港は去年火災に遭ったこともあって、いまはかなり小さい。到着予定時間をちょっとすぎた19時に着陸。タラップをおりてゲートに向かう途中、「オオシマ」と呼ぶ声が聞こえる。カザフサーカスのアーティストチーフで、日本にも3回来ている兄弟分のローマだった。手を振って答える。しかし確かに寒い。12月ぐらいの気温だろう。
 入国手続きを終えると、税関のところで国立カザフサーカス総裁、ハーリックが待っていた。2年ぶりの再会。一緒にいた空港職員カバクを紹介される。彼はこのあともずっと我々をフォローしてくれることになる。カバクのおかげで、税関はフリーパス。空港で待っていたローマ、初めて会うローマの兄貴のジギドのシュクール、副総裁と会う。三台の車でとにかくホテルというか宿泊先に向かう。なんでも昨日低気圧が来て、アルマトゥイは大変な雨で、寒くなったという。山の方では雪が降ったぐらいだとい。でもそさまではとても暑い日が続いていたということだった。
 空港からおよそ40分ぐらいのところ、明らかに一般のアパートと思われるところで車は停車。ここがお前たちの宿舎となるといわれる。田中さんはたぶんかなりびっくりしたと思う。ホテルか、さもなくば、サーカス場隣接のサーカスホテルに宿泊することになるだろうと話はしてていたが、まさか一般のアパートが我々の宿泊先になるとは、私自身思いもよらなかった。
 ここは身をまかせるしかないのだ。今回の旅のパートナー田中さんも、このへんは実に潔かった。こんなもんかもしれんと腹をくくってくれたようだ。
 気になったのは、ここまで来る途中にいろいろ聞かされた、断片的な事実。いまサーカス場は自分たちのものではない、カザフには国立とは別な私営サーカス団が生れたとか、脈略もなく、一方的に言っているので、なにがどうなっているのかさっぱりわからなかった。
 とにかく我々がアルマトゥイで一週間寝泊まりすることになるアパートに到着して、隣に住むローマの妹とその旦那のイズラエルと、イズラエルの兄弟を紹介され、彼らが私たちの面倒を見ると一方的に言われ、パーティにうつる。この無茶苦茶な強引さは、いつものことではあるのだけど、ちょっと違和感があった。何かわからんが異変があった。この異変を説明するのは、ちょっと大変だし、とにかく迎え入れる俺たちは誠心誠意オオシマ、タナカを歓迎する、この事実を受け入れよといわんばかりの強引さが目立つ。
 何か説明しようとしているのだが、要領を得ない、もどかしさがあった。私のロシア語の能力の問題もあったかもしれないが、なにか大事な異変を隠している、そんな感じだった。ハーリックが、「オオシマ、お前は兄弟だから言うけど、いま俺たちはとても大変な状況にいる。二年前お前たちが来たとき、いろんな馬鹿話をして陽気に騒ぎ、冗談ばかり言い合っていたけど、いまこうして兄弟が来ても冗談を言ったり、陽気に騒いだりする雰囲気にはない。でも今回の訪問の目的を100%実現できるようにがんばるし、それは少なくてもやる、それだけは信じてくれ」と言う。
 この歯切れの悪さは、いつものハーリックではない。たぶんハーリック自身いまは国立カザフサーカスの現状を説明する踏ん切りがつかなかったのだと思う。
 ローマから明日以降のスケジュールの説明があった。とにかく明日は、12時サーカス場ではないところで、サーカスを見て、撮影をすることになる。それ以降のスケジュールはいろいろ言っていたが、あてにはならない。この部分は通訳せず。
 2時間ぐらいで宴会が終わり、12時近くに寝る。田中さんは個室、私は居間のソファーをベッドに変えてもらいそこで寝ることに。荷物の整理を何にも出来ず、とにかく我々はここで寝ることになる。
 田中さんと私はこの住まいを、招待所と呼ぶことになる。
 なんとなくアルマトゥイの一週間は波瀾含みになりそう気配た。
 1時頃就寝。

このページのTopへ

2000年9月27日(水)

 10時すぎに起こされ、朝食。昨日の残りの手作りのパンと、ピロシキが3個づづ。ピロシキを一個食べる。11時にカバクが迎えに来る。なんとなく世話になりそうだったので、お土産を渡す。
 天気はいいし、気温も高い。車で会場に向かう途中、山並が間近に見えるのに、田中さんはいたく感動、田中さんは大学で山岳部にいたとか。映画館の前に車が停まる。ここが国立サーカスの現在の公演会場だという。入り口の前には子どもたちが一杯並んでいる。
 一昨年リトルで公演したキッズサーカスのメンバーのひとり、ダズバトゥイリョーフが待っていた。ロシアのサーカス公団から抜けて、いまはフリーだという。新しい番組のビデオをもらう。去年リナワールドに出演した空中アクロバットの助手サーシャが会場内に案内してくれる。会場には懐かしいパフォーマーたちがたくさん。一昨年リトルに参加したデニス、ファリダ、ジーマ、オリガ、オリエンタルアクロバットのリーダーリューダ、去年リナに出演したオリガとオクサーナとあいさつ。田中さんは前の中央で、写真撮り、私は一番上からビデオ撮り。リューダが隣に座り、いつものように仕事が欲しいから、エージェントになってほしいとかぐちゃぐちゃ相変わらず自分のことしか頭にないようだ。
 公演は休憩15分を挟んで、約2時間あまり。舞台サーカスなのだが、やはり規模が小さく、内容的にはいまいち。構成は、去年のリナワールドの公演を踏襲したもの。客は300人ぐらいで満員。子どもがほとんど。
 かつて自分たちの持っていたサーカス場は2000人ぐらい入っていたことを考えれば、映画館のこの小さなホールで、私たちにサーカスを見せるハーリックの心境にはかなり辛いものがあったのではないだろうか。
 オリエンタルアクロバットは出演していなかった。リューダに聞くと、いま私たちは民間のサーカスのところで働いているという。公演後出演者全員にそれぞれポーズをとってもらい、田中さんが写真撮影。マジックの番組が結構よかったので、まだコンクリートされていない番組のひとつの候補としておくことにする。
 途中から来たハーリックがリューダと何か言い争いをしている。なんでもリューダは泣いていたらしい。リューダは日本公演に参加したい、でもいまは国立のメンバーではないということもこの言い争いの背景にあったようだ。
 田中さんがさかんにオリエンタルアクロバットのことを気にする。大丈夫ですとはいったものの、ハーリックとリューダのやりとりを見て、若干不安も。
 ハーリックの車に乗って、第二夫人のアパートへ。ハーリックはいまはほとんど第二夫人のサーシャのところに寝泊まりしているようだ。彼女とは一昨年会ったことがある。彼女は覚えていなかったようすだったが、ほらキルギスで羊を食べたじゃないと言ったら、思い出してくれた。インテリアデザイナーをしていたサーシャもいまは、仕事がないという。サーシャの手料理(じゃがいも炒め)とハーリックが途中で買ってきたペルメニでランチ。またウォッカを出されるのを見て、田中さんが昼間から酒飲むのと、びっくり。ハーリックが「健康のために乾杯」と言うと、田中さんが「昼から酒飲むのは健康じゃない、不健康のためです」と言いながらも、一杯付き合う。
 3時に、文化省文化委員会へ。いまはここがハーリックの仮のオフィイスになっている様子だ。3時半文化委員会議長カセヤーン氏と面会。今回の訪問の目的を田中さんが、来年開催される、カザフサーカスが出演することになっている北九州博覧祭の資料を見せながら説明するのを通訳。この席で田中さんは、今回カザフのことをあまり知らない日本人にとってもわかりやすいように、シルクロードのオアシスをテーマに番組をつくりたいという意見を述べた。シルクロードのオアシス、エクスポという言葉に、カセヤーン氏はおおいに興味を持ったようだ。なんでも協力できることがあれば、仰って下さいと非常に好意的な対応をしてくれた。
 この15分ぐらいの会談のあと、広報担当の女性と面会。具体的なプロポーズ。博覧祭のカザフサーカス公演前にスクリーンで映す、カザフの自然などを紹介するビデオが欲しいと田中さんから、希望が出される。この他ハーリックから、我々がアルマトゥイ滞在中の文化的プログラムについて希望が伝えられる。
 ここで落ち合ったローマと、兄貴はこういう場が苦手のようで、居心地が悪そうだった。
 日本からのファックスは、今後はこの文化委員会気付で送って欲しいとのこと。田中さんが、ここからファックスを送る。
 とりあえず今日の予定は、これまでということで、招待所に戻る。食事の前に今日のショーを見た上で、番組編成についてハーリック、ローマとミーティング。田中さんから、正式に番組の希望を伝える。ここにはオリエンタルアクロバットが絶対に落とせない番組として、伝えられる。ハーリックがわかったと、明日写真撮れるように手配を約束。マジックもいいのだが、人数が7人必要だというので、これは見送る。
 このミーティングの中で、田中さんが、オープニングを、オアシスに集まった旅人たちが、まずいろいろな芸を見るという構成ではじめたいと提案。ハーリックがここでこの提案に大きな興味を抱く。自分のアイディアも披露。ミーティングは熱を帯びたものになる。政治問題で駈けずり回っていたハーリックにとっては、こうしたサーカスの演出の問題は、久しぶりに胸踊るものだったのかもしれない。
 ローマの妹が温かいうちに食べてとつくってくれたグルジア料理に箸をつけず、内容と構成、出演者についての意見のやりとりが続けられる。
 この席で、ハーリックの口から、半年前に国立サーカス場が、文化省の役人が勝手に売ってしまい、いまはここではスミルノフという若手のサーカスをまったく知らないビジネスマンが経営し、かつての国立のサーカスのメンバーのほとんどはここで働いていることを知る。オリエンタルアクロバットもここで働いているという。ハーリックは、いま自分のところに残っているメンバー、今日の公演で見たメンバーだけが、わずかな給料でがまんして残ってくれていると説明。だいたい様子がわかってきた。かなりの窮地にあることは確かなようだ。
 ハーリックはまだこれから用事があるということで、早めに帰宅。ローマと、田中さんと3人で飲んでいたが、田中さんが、ローマにもう疲れたから寝ますので、帰ってくれというと、ローマもあっさりと帰る。彼も明日12時から公演があるのだから、早く帰った方がいいに決まっている。
 このあと田中さんと、いまの国立カザフサーカスの現況、来年派遣されるメンバーの確認、構成の問題などを、またウォッカをちびりちびりやりながら話す。
それでも12時すぎには就寝。
 グルジア料理は、明日の朝食べることに。このパンケーキなかなか美味しかった。

このページのTopへ

2000年9月28日(木)

 朝はゆっくり起床し、バスタブにお湯をため入浴。日本から持ってきたコーヒーを入れて飲む。朝食はまたピロシキ。あまり空腹感はない、というかカザフ滞在中腹が減ったと思ったのは、一回か二回ぐらいだ。全部昼間から飲む酒ウォッカのせいだと思う。無理やりピロシキを一個食べる。ローマとハーリックが迎えに来れないので、シューリンが迎えに来る。今日もいい天気、相変わらず街から見える山並みはきれいだ。
 14時からサーカスの公演、この中に急遽オリエンタルアクロバットと、縄跳びアクロバットが入れられることになる。昨日ほどではないが、今日も子どもたちで客席は8割の入り。今日の公演には、ハーリックの第二夫人サーシャ、シュークルの奥さんと子どもも見に来ていた。シュークルはおそらく五十ちかいと思うのだが、奥さんはたぶん二十代後半か、三十代前半、こどもは一歳になっていないだろう。日常生活はどちらかというとおっとりというか、鈍臭いシューリンなのだが、なかなかやるではないか。昨日と同じポジションで写真とビデオ撮影。
 オリエンタルアクロバットのメンバーは、一昨年リトルに来たメンバー六名のうち、三人が代わっていた。前の三人は、ずいぶんと女らしくなって、一目で気づかなかった。前半にオリンエンタルアクロバットが登場、客席から大きな歓声がわきあがる。公演後オリエンタルアクロバットのメンバーと、昨日写真がうまく撮れなかったベリーダンスのエンマのポーズをとっての写真撮影。エンマはとにかく色ぽい。田中さんは結局エンマのために一本のフィルムをつかうことに。
 公演中に音響のオペレーターがだいぶミスをしたり、音のレベルが高かったりということで、ハーリックが激怒。ダメだしでしかりとばしていた。
 このあとローマの自宅へ。日本に電話をする。田中さんは会社と連絡ができてほっとしたようだ。私も会社に電話。日本を発ったあとすぐに、韓国の綱渡りの金さんからファックスが来たとのこと。ローマの自宅は、サーカス場のすぐ近く。最近買ったばかりだという。まだ修理する暇も金もないようだ。なんでも奥さんのイリーナの話によると、モルドワにいるお父さんががんで、入院しているため、このところモルドワに帰ることがおおいという。
 来年の公演メンバーのうち、ひとり足りないということで、ハーリックとローマが一押しの空中リングの演技のビデオを見る。なかなか肉感のある女性で、パワフルな演技、問題ないだろう。田中さんもオーケーをだす。写真とプロフィールをすぐに彼女の実家があるキルギスの首都ビシケクに連絡して、とりよせることになった。
 この日は、7時から国立カザフ民族アンサンブルオーケストラ公演を聞きに、国立コンサートホールへ。昨日会った文化省文化委員会の議長も来ていた。VIP用の入り口から案内される。なんと席は一番前のど真ん中。オーケストラの副総裁の娘という若い女性が紹介される。大学で日本語を勉強をしているという。たどたどしい日本語で挨拶してくる。われわれの隣に座る。ビデオ撮影するにはあまり近すぎるというので、私は田中さんを残し、上手側の通路の方へ行くことにした。楽団員が入場、これが壮観。七〇名の団員が、黄色と緑の民族衣装に身を包み、帽子をかぶって登場。演奏される楽器のほとんどは民族楽器。演奏される曲は民族音楽だけでなく、ベートベンやチャイコフスキイなどの西洋音楽も演奏するという。休憩なしでおよそ1時間半の演奏。途中トイレに抜けだすが、やはり自分にはちょっと退屈だった。公演後田中さんのところに行くと、もともとクラシックが好きだということで、なかなか面白かったというので一安心。
 公演後ロビーで、ちょっとしたパーティー。なんでも今日は秋のシーズンの開幕日ということでの記念演奏会だったらしい。団長や指揮者をはじめ、次々に乾杯の音頭をとる。ほとんどがカザフ語でちんぷんかんぷん。ハーリックが訳してくれるのだが、要領を得ない。文化省の例の議長も乾杯のスピーチ、このなかで今日の記念すべきコンサートにトルコ大使館の文化担当と、来年日本の九州というところで、エクスポをするのだが、そのプロデューサーもお見えになっていると言っていた。ちょっと嫌な予感がしたのだが、やはりスピーチを求められる。今回はサーカスだけみればいいと思って平服だけでいいですよと田中さんに言っていたので、田中さんも私もネクタイを持ってきておらず。この日私などはジージャンとジーパン。ちょっと格好悪かった。急なことにもかかわらず、田中さんは、来年開催されるエクスポにカザフの国立サーカスを招待するため、今回来日したこと、テーマはシルクロードであることを説明し、今回のような素晴らしい演奏会に招待していただいたことに感謝しますと見事なスピーチ。さすが場馴れしている。このあとあちこちから、いつまでアルマトゥイにいるんだ、こんな演奏会があるから招待したいと声がかかる。ハーリックとローマが適当に対応してくれた。
 車で招待所に戻り、遅い夕飯というか、ウォッカ大会。なんでも空中リングの芸人さんが、今日ビシケクからやって来るので、明日写真撮影ができるという。田中さんは満足。これで全部の出演予定アーティストの写真が撮れるわけだから、出張の目的をほぼ達成できることになる。この席に田中さんが醤油を出してくる。そしてキュウリをビネガーに浸したものにちょっと醤油をたらして簡単な料理をつくる。妹の旦那のイスラエルは、なんでも料理人らしい。日本料理にずいぶんと興味をもっているようだ。そこで肉はいっぱいあるし、醤油もあるから、いつかすきやきパーティーをしようと提案する。みんなは大喜び。ローマたちも明日から私たちが帰るまでは、サーカス公演が休みなため、少しはのんびりと酒を飲んでいたが、空中リングのガーリャが来るというので、わりと早めに帰宅。ローマたちが帰った後、田中さんとまた今日の演奏会の感想などを言い合いながら、ちびりちびりとウォッカを飲む。この日はふたりだけで結構飲んだ気がする。

このページのTopへ

2000年9月29日(金)

 朝バスタブにお湯を張って入浴するのが、すっかり習慣になった。朝食はまたピロシキ。うーん、もうこれには飽きてきた。昨日の田中さんがつくった胡瓜の一夜酸漬けを冷蔵庫からだしてつまむ。ローマと兄貴が来る。兄貴のジギドのビデオと、野外でやったジギドのショーのビデオを見る。正直いってこのお兄さん、普段は見栄えがしない、単なるおっさんなのだが、馬に乗ると実に恰好いい、颯爽としている。それにこの野外のホースショーもなかなか面白い。この他にローマの姉がつくっているハイワイヤーの演技のビデオを見る。
 ローマに妹さんに洗濯をお願いできないかということと、もうそろそろカザフの料理にあきてきたので、麺類を食べたい、ラグマンを食わしてくれと頼む。ラグマンと聞いたら、妹さんがウーンと大きくうなづき、オーケーと言ってくれた。自信があるようだった。
 今日はサーカスをやっていた劇場で、新しくメンバーに加わる空中リングのガーリャの写真撮影をすることになっている。天気は悪くないのだが、ガスっているようで、山並みがあまりはっきり見えなかった。途中でガーリャを乗せ、劇場へ。ローマの奥さんのイリーナと同じ歳といっていたから、39才、気のいいおばさんといった感じ。
 今日は休演日だったが、昨日と一昨日の公演に出演していたマジシャンのグループが練習していた。ローマが彼らは毎日練習しているといっていた。8人のグループでマジックを中心にしたショーを1時間半できるという。このマジャシンは、コミカルなマジック、観客をつかったマジック、そして東洋風のグロテスクなマジックと演じわけることができる。なかなか才能のある青年だ。英語ができるようで田中さんと、アメリカのマジシャンのことなどを話していた。
 ガーリャの写真撮影は10分もかからないで終わる。彼女をサーカス場近くのホテルに送り届けたあと、絨毯工場へ向かう。これも文化省のアレンジで、エクスポという話を聞き、もし展示や販売できることがあればということらしい。
 「アルマタ・クレム」というこの会社は、町の中心にあった。女社長と挨拶、簡単なこの会社の説明を聞いたあと、工場というか、できあがった製品を陳列してあるコーナーを案内される。機械でつくったものはとにかく安い。4畳半ぐらいに敷ける絨毯が、60ドルだという。かなり厚く、ほぼ純毛だという。このあと手織りの製品を見せてもらう。これも丁寧につくられており、機械でつくられたものよりは、3倍ぐらい高いが、それでもかなり安いのではないだろうか。
 1時間ぐらい見学したのち、ラグマンの材料を買うために市場へ寄る。田中さんと一緒に市場をみてまわるうちに、韓国製の醤油を発見。これですきやきができる。1リットル入りの瓶を買う。
 招待所に戻って、簡単に昼飯を食べ、昨日見た国立民族フィルハーモニーオーケストラのディレクターに会いに行く。青空はすっかりどこかにいってしまい、風が吹き、街路樹の葉が舞いはじめ、昨日までの夏の天気から、一転してまるで木枯らしの晩秋の天候にかわる。盆地というせいもあるのかもしれないが、天気は急激にかわるようだ。
 ディレクターの部屋で、このオーケストラの歴史、成り立ちなどを聞かせられる。日本公演の可能性については、もちろん専門外なので即答はできないが、昨日撮ったビデオを音楽関係者に見せるつもりだと答えておく。私達が訪れたこの楽団の本拠地となっている建物は、なんでもここに抑留された日本人によって建設されたものだという。戦後50年以上経って、さすがに痛みははげしい。いまはおもに練習場としてつかわれているらしい。建物の中を少し見学する。トイレに行くと、まともな便器が5つのうち一つぐらいで、これから修理するとは言っていたが、文化行政がかなり手薄になっていることを物語っているように感じられた。
 そしてまた恒例のパーティーへと移る。ディレクター室の隣の応接室にすっかりパーティーの準備がされていた。この時ハーリックが現れる。ハーリックは我々の外人登録のためあちこち奔走していたらしい。前回来た時は、こんな手続きはしなかったのだが、いま外国人がたとえ一時的に居住するにあたってもいろいろ規制があるらしい。ハーリックはさかんに、去年キルギスでおきた日本人拉致事件のことを言っていたが、確かにカザフにおいてもイスラム急進派のテロ活動が最近いろいろおこり、かなり神経質になっているようだ。今回は予定では車で、隣国のウズベキスタンのタシケントにサーカスを見に行く予定になっていたのだが、ビザをとるのに時間がかかるため、見送りになった。ローマの姉がタシケントのサーカスで働いており、ローマは是非案内したかったらしいのだが、いまウズベクの国境はクローズになってしまったと残念がっていた。
 一昨年来たとき中央アジア−ウズベク、キルギス、カザフ、ダジク、トルクメニアは、ひとつ、国境もみんな開かれているとハーリックが誇らしげに語っていたのが、嘘のようだ。実際前回我々はタシケントに着き、そのあとキルギスを通り、アルマトゥイまで車で来たのだが、そのとき3つの国境を通過したが、ほとんどフリーで通行できた。相次ぐイスラム急進派のテロ活動が、国境を閉ざす結果を招いているようだ。
 パーティーはいつものようにディレクターが最初に、歓迎の辞を述べ、乾杯の音頭をとる。3番目の乾杯の音頭を、いつもはおとなしいローマの兄貴、シュクールが自らすすんでとったとき、事件はおきた。
 「僕はカザフサーカスのディレクターハーリックのために乾杯したい。彼は35年前僕がデビューしたときに、僕を応援してくれ、助けてくれた。苦しい時も、金がないときも彼は助けてくれた。僕にとってはサーカスの父親といってもいいハーリックが、いまサーカス場を取られてしまった。でも僕はきっとハーリックがサーカス場を取り戻すことができると思う」
とここまで言って乾杯といおうとした。これを田中さんに訳しているうちに、情け無いことに私自身が胸が一杯になり、嗚咽をもらし、泣き出してしまったのだ。突然訳す途中に泣き出すもんだから、田中さんは何があったのかわからず、とまどってしまう。それはそうだと思う。すいません、あとでちゃんと訳しますからと言うのだが、涙がとまらなくなってしまった。ひとつはサーカス場が奪われたことへのハーリックへのいたたまれない思いがあった。もうひとつはこうやってハーリックが苦しい時に、支えようとする芸人がいることに感銘を受けたこともあった。
 ハーリックやローマが「わかった、わかった、お前の気持ちはよくわかった」と肩をたたいてくれた。ここのディレクターもいくぶん目に涙をためながら、「私はとても感動いる」と、何度も繰り返し言っていた。ほんとうに不意の涙だったので、私自身このあとどうすればいいのかわからなかったのだが、ここはさすが天才的道化師ハーリックである。即興で踊りをおどってみせてくれ、俺はいまから外人登録の用事があるので、これで失礼すると、おどけてこの場を去っていった。あの消え方は見事だった。照れ臭さもあったのかもしれないが、この場の雰囲気を一気に変えてくれた。彼は本当に根っからの、素晴らしいクラウンである。
 予定では1時間ぐらいの訪問だったが、随分と長居をしてしまった。7時ぐらいにここを出る。少し雨が降ってきた。招待所に戻り、また乾杯になるのだが、今日は待望の麺類、ラグマン。これはうどんに肉と野菜を煮たものをぶっかけたもの、汁はないのだが、麺は麺、いままでウォッカ攻めで活動を拒否していた胃が動き出した。ここへ来て初めてお代わりをする。田中さんが少し呆れていた。唐辛子と田中さんがもってきた醤油をかけて食べるとさらに美味しくなった。ここでまた兄貴がやってくれる。唐辛子の蓋がとれ、瓶の半分ぐらいの唐辛子をかけてしまったのだ。この人はほんとうにこういうところは鈍くさい。
 このあとローマの妹たちが7月に子供の祝いで、彼らの故郷タジキスタンの田舎に帰ったときのビデオを見せてもらった。これが結構ドキュメンタリータッチで面白かった。日本人にとってはタジキスタンは、カザフスタン以上に知られていない国だ。ここでの生活の一部を映像で見ると、なにか時間の流れが、我々の生活とはまったく違った異質なものであることがわかる。隣に住むローマの妹夫妻と妹の旦那の弟が集まってきて、ビデオをじっと見つめている。どうも彼らは職がなくて、都会に職を探しに来たらしい。しかもここには頼りになる兄、ローマやシュクールがいるということもあったのだろう。しかしビデオをじっと見つめている三人の目は、こんな都会で暮らしたくない、できれば、親兄弟がいる、自分たちの故郷に帰りたいと語りかけていた。実際妹の旦那の弟は、この二日後タジキスタンに帰ると言っていた。もうここにはいるより、早く田舎に帰りたいと言っていた。しかし彼は私達が帰るまで、田舎に帰ることはできなかった。なんでもバスに乗る人が少なくて、運行をやめたという。彼は毎日バスターミナルへ行って、バスがでるかを確かめることになるのだ。これもまたすごい話である。
 田中さんは、この環境ビデオを見ながら、すっかり睡魔に誘われたらしい。自分の部屋にいって本格的に寝る。私も最後までビデオを見たあと、寝ることに。外から雨の音が聞こえてきた。

このページのTopへ

2000年9月30日(土)

 雨のせいかもしれないが、昨日の夜は久し振りにぐっすり寝ることができた。そのためか珍しく食欲がわき、朝食のハムエッグをペロっと食べてしまう。
 今日の予定では、山の上にあるという工芸品をつくるアトリエに行き、スミルノフのサーカス場(かつての国立サーカス場)でやっているモスクワのアイスサーカスを見ることになっている。敵情視察というわけではないが、一応様子を見た方がいいような気がして、ローマに頼んでおいた。ローマはハーリックに上手く言っておくからといっていた。ハーリックにしてみればかつて自分が指揮をとっていたところが、いまは他人の手にわたってしまい、そんなところを案内するのは絶対に嫌だとは思ったのだが、スミルノフという男にも会っておくことは、損ではないと思ったのだ。ハーリックはわりと簡単にオーケーを出してくれた。
 ローマが迎えにきて、今日は山の方に行くし、寒くなるだろう、上に着るものを貸すから、まず自分の家に来いという。田中さんはゴアテックスの雨具を持ってきており、準備は万全。確かに外は肌寒い。ローマの家で、トレーナーとジャンパーを借りる。田中さんが、自宅に電話。私も自宅に電話するが、誰も出ない。軽く朝食をとり、サーカスホテルに泊まっているシュクールのところを拾いに行く。出ようとしたところで、ドーベルマンを連れて散歩している30代半ばの眼鏡をかけた男をローマが発見、急に車を止め私たちにおりてこいと言う。なんでもこの男がサーカス場を買収した、いまのここの主スミルノフだという。
 いかにもビジネスマンといった感じ、ロシアのニューリッチ族と同じ雰囲気がただよってくる。とりあえずローマが紹介、挨拶。なんでも少しだが、ニチメンの仕事で日本にいたことがあると言っていた。クレーバーそうだが、とにかく冷たい感じ、目付きも怜悧。ローマが、いまから山のアトリエに文化省のアレンジで行くので、5時もしくはちょっと遅れるかもししれないと説明する。挨拶だけでこの場は別れる。
 途中ハーリックと合流、私と田中さんはハーリックのベンツに乗り換える。途中カバクを乗せ、郊外に向かう。ちょっと気になったのはカバクがカチカチ瓶の音がする大きな袋をもっていたことだ。
 車の中で少し寝ていたようだ。目を覚ましたら、あたりはすっかり霧、高度もだいぶあげてきたようだ。道は舗装されていないデコボコ道。カバクが一生懸命道案内をしている。なんでもこれから行く山のアトリエは、電話が通ってなく、今日のアポイントをとるために、カバクが昨日アトリエまで行ってきたらしい。このメンバーのなかで道を知っているのはカバクだけということになる。この霧のなかで果たして道がわかるのだろうかと心配になったが、とにかく3時すぎには目的地の工芸品のアトリエに到着。
 山間の小高いところに工芸品を売る小さな売店と、その裏側にそれを実際につくっているアトリエがある。おばさんがまず売店に展示されているものを説明してくれる。デパートのお土産コーナーにはない、ぬくもりが感じられる工芸品(絨毯、銀細工品、金細工品、彫金、刀剣、皮革)ばかりだ。このあと実際にこれをつくっているアトリエを案内してもらう。ここはヒゲを生やしたいかにもカザフという顔のお兄さんが説明してくれた。壁に飾る銀や金の細工品のデザインもすべて彼がしているという。いまつくっているのは、石器時代の壁画をモチーフにしたアブストラクトな作品。じっさいのこの壁画があるところまでいって写真に撮ってきて、参考にしているという。とにかくここには静けさがある。そして静かな人たちがいる。
 一通り案内されたあと、店のテーブルにウォッカではなく、お茶(!)の準備がされていた。店に入ってテーブルにつくまえに、儀式だといって、手をお湯をかけてもらい洗う。モンゴルでもよく飲まされたミルクティーとあげぱんのようなお菓子をごちそうになる。おいしかった。この静かなたたずまいがなんともいい。なんでもここは1988年から協同組合形式で工芸をつくることが好きな人たちが集まってできたところらしい。国からの援助も受けず、まったく自立して運営されているとのこと。電話は通っておらず、電気がつくようになったのはごく最近のことだという。ここで働く人たちはみんなここで生活している。いままで騒がしい人たちとばかり会ってきたので、なんか寡黙な人たちに囲まれるとほっとする。
 外に煙草を吸いにいくと、霧がすっかり晴れ、あたりの景色を初めて目にする。雪をいだいた山がぐっと迫ってくるのにびっくり。みんなで山をバックに記念写真。霧が晴れたのはわずか一瞬。またあたりは霧につつまれる。アトリエの人たちと別れを告げる。
 このまま帰るのかと思ったら、この先の山の上の方に行くという。ここは霧があっても、上へいけば霧も晴れているはずだと言う。時計を見ると4時すぎ。やはりハーリックもローマもサーカス場には行きたくないのだと思った。ここは流れにしたがうことにする。でこぼこみちをどんどん登っていく。途中ハイカーらしき若者と会ったが、ロシア語もカザフ語もできなかった。旅行客なのかもしれない。どうも雰囲気的に止まって休憩できる、というかウォッカを飲む場所を探している感じだ。実際上に登っていくと霧がなくなっていった。発電所跡の広い敷地にでたところで、外にでて、少し歩き、小高い丘にウォッカが並べられる。カバクがもってきたチーズが、臭くてなかなか美味しかった。さっき訪れたアトリエがあったところが、標高二千二百メートルだったから、ここは二千五、六メートルぐらいはあったかもしれない。この時点でサーカス場へ行くことはあきらめ、このことを話題に出すのもやめることにした。三十分ほどいたあと、街へ引き返す。下りる途中、下の方遠くに青空が見えた。
 街に出たときには雨もすっかりあがっていた。
 招待所に戻り、乾杯の続きをする。ハーリックが今日は俺も飲むと宣言、確かにいままで人には飲ませるくせに、車を運転するからということで一滴も飲んでいなかった。最初の乾杯が終わると、ハーリックが酒を飲むのは九ヵ月ぶりと告白、いままでいろんなことを隠していたが、すまなかった、今日は全部あらいざらい兄弟であるお前に言うつもりだと、サーカス場が乗っ取られた事情を一気に話してくれた。
 要は、国がなかなかいままでのように援助してくれないことにあせりを感じたハーリックは、かなりの資金を注ぎ込んで、テントを借り、カザフ国内をテントでまわりながら自主興行にうってでた。しかしこれが裏目に出て、およそ七百万の赤字を出してしまった。ハーリックはなんとか二百万は返済したものの五百万の赤字が残る。この隙をねらってかねてからサーカス場の立地のよさ(公園がちかくにあるし、街の一等地、しかも2千人収容の劇場)に目をつけ、ここを買いたいといってくるビジネスマンが数多くいるのを見て、売却することを狙っていた役人のひとりが、文化省には内緒で売却の契約を結んでしまったという。この役人はすぐにとんずらしてしまう。一挙にサーカス場という拠点を失ったハーリックは、なんとか巻き返しをはかるが、うまくいかず、かつてはハーリックの元で仕事をしていた芸人たちに給料も支払えない(それはそうだ、興行ができないのだから収入もない、国も援助はしない)事態になる。ハーリックは、新しいサーカス場の支配人スミルノフの元にいっていいよと芸人たちに言うしかなかった。しかしローマ、シャクール兄弟、オリガとオクサナなど、給料をもらわなくてもいい、ハーリックの元で仕事をしたいといって残った。俺にはこの金がなくても残ると言ってくれた芸人たちのためにもがんばらなければならない。サーカス場を取り戻すことはまだ諦めていないと拳をふりあげ切々と訴えた。
 私がなんでもうすこし早くこんな状態になっていると教えてくれなかったのだ、兄弟ではないかというと、大島よ、兄弟よ、こんなことを電話やファックスで説明できると思うか、俺はお前に会って直接話たかった、せっかく来てくれるというのに、みじめな姿を見られるのが、どんな辛いことだったかわかるのだろう、でも俺はこんな野暮で、デリケートなところがない男だ、ちゃんと説明したいと思っていたんだ。ハーリックよ、わかった、もう言うな、もうお前の気持ちは痛いくらいわかるからというと、ニコッと笑って、うなづいた。
 こんな状況ははっきりいって迷惑な立場の田中さんなのだが、意気に感じるものがあったらしく、ハーリックさん、私で役にたつことがあったらなんでも言って下さい、これからでも誰にでも会いますよ、なんでも言ってください、協力は惜しみませんと言ってくれたのもハーリックは嬉しかったと思う。
 乾杯の音頭の番が来たので、「今日僕たちは山に行ってきました。霧で最初はなにも見えませんでした。もしかしたらそれがいまの国立サーカスの状況なのかもしれません。でも今日霧の向こうに青空が見えましたよね。あれは私達の未来、国立カザフサーカスの未来です。きっと霧の向こうには青空があるのです」と言ったら、ハーリックが抱きついてきた。
 ということで、この日はハーリックが飲むは飲む。招待所の持ち主のナターシャも途中から参加、宴ははてしなく続いた。田中さんは今日はわりと早めにダウン。私もいつ寝たかも覚えていない。尿意も催し起きとき、隣のソファーにローマが寝ていたのは覚えているのだが。

このページのTopへ

2000年10月1日(日)

 朝早くローマは自宅に戻ったようだ。しかしあいつはタフだ。10時ぐらいに電話を寄越し、11時すぎには迎えに行くといってきた。朝飯にまたハムエッグが出てきたが、とても食べられない。田中さんは結構たべていた。ローマの車に乗り、街の中心にあるシャシリーク(肉の串焼き料理)レストランに行く。これからいま公演しているサーカスのアーティストたちと一緒に飲むことに。今日は日曜日、見学なし、ミーティングなし、とにかく一日中飲み、食い、踊る日になっているらしい。
 昨日の今日で、しかもお昼から酒を飲むというのだから、このひとたちは凄い。私も最初はとても飲めないよとおもったのだが、これがこわいことに一口飲むと勢いがついてしまう。しかも二年前、そして一年前に一緒に仕事をした芸人さんたちとやっとアルマトゥイで飲めるわけだ。楽しくないわけがない。とても肉は食えなかったけど、結構飲んでしまう。
 集まった芸人たちは、人間車輪のデニス、綱渡りのファリダー、空中アクロバットのオリガ、オクサーナ、サーシャ、ローマ夫妻、オリエンタルアクロバットのリーダーのリューダ、これは来日した組、これ以外にチャイニーズポールのキプチャク夫妻、マジシャン、空中リングのガーリャ、そして私の憧れの女性エンマ、ハーリックという顔触れだった。
 今年エンマのベリーダンスのビデオを見てからすっかりまいってしまったのだが、幸運なことに真ん前に座ってくれている。これがまたピッチを早めた原因かもしれない。ひとりひとりが乾杯の音頭をとるわけだから、結構たいへんだ。皆にそれぞれの国籍というか民族を聞いてみたら、まあいろんな民族の人たちがいる。カザフ、モルドワ、ウズベク、ウィグル、タジキスタン、ロシア、キルギス、しかしサーカスの仲間には国境はないんだよと、マジシャンが締めてくれた。皆からいろいろお土産をもらう。
 このあと、有志はローマの家に集まる。引っ越し祝いのようなことをやる予定のようだ。途中市場によって、すきやきのための買い出し、肉、野菜(葱のようなもの、キノコ)などを買う。
 ローマの家に行ってまず真先にしたことは、ソウルのコーディネイトをしてくれる栗原さんと自宅に電話、ソウルの手配は順調とのこと、家の方は特になにもなし、男子のマラソンはどうなった、女子のソフトボールはどうなったと聞くと、酔っぱらってんじゃないと奥さんに軽くあしらわれてしまった。確かに酔っぱらっていた。ハーリックが来てから宴会がはじまるというので、田中さんがベットをかりて、一休み。今日はローマの妹の旦那イズラエルも来ていた。すきやきを田中さんがつくることになっていたので、その手伝いをしながら、料理方法を学ぶつもりらしい。
 すきやきをつくれということで、田中さんが起こされる。代わりにこんどは私がジーマのベットを借りてひとねいり。多分1時間ぐらいたったと思う。イリーナがすきやきできたよと起こしにきた。居間にいくと、ハーリックも来ていたし、キプチャク夫妻、ガーリャ、エンマなど勢ぞろい。さっそくすきやきを食べる。
 肉が厚くてちょっと固いのだが、味はすきやきの醤油味、うまかった。みんなにも大好評のよう。イズラエルをはじめ、田中さんが味付けにビールをつかったのに驚いていた。腹が一杯になったところで、はらごなしのダンス大会。まずはハーリックが巧みな腰さばきで踊りを見せてくれる。そうハーリックはこうでなくっちゃ。田中さんがハーリックさん、最初会った時と比べたら顔つきがぜんぜん違いますよね、めちゃめちゃいま明るいと言っていたが、確かにそうだ。このことをハーリックに言うと、昨日お前に全部告白したから、すっかり楽になったんだと言っていた。
 踊りといえば、なんとていってもエンマが本業。このあとしばらくはエンマの独演会が続く。このエンマ、かなりの宴会屋で、しかもローマに負けず仕切り屋、次から次へと宴会芸の極致を披露してくれた。この中には私も田中さんも、参加させられたが、幸せというか、きっとあとで写真でもみたら恥ずかしいというようなことをさせられた。
 あとは音楽を目一杯かけ続け、歌い、踊りという大宴会。久し振りにハメを外すことになる。なんどもローマが、こうやって新しく住宅を購入し、サーカス仲間に集まってもらうことがどれだけ幸せかと言っていたが、最後は気でも狂ったのと思うぐらいの強烈なダンスを踊ったところで、宴会は終わる。何時頃だったのだろう。12時前だったような気もするけど。帰る時、ドアの前で、ウォッカと甘い肉と、梨をのせたお盆をイリーナが持って待っていた。これは引っ越し祝いの恒例行事らしい。ウォッカを一気に飲み、甘い肉を口にして、最後は腕を胸の前で交差させ、お祈りした。ローマはほんとうに疲れたと思う。昨日は昨日であれだけ飲んで、今日これだけ飲んで騒げば、四十二才の身体には、いくらタフだといってもそうとうこたえたはずだ。目も虚ろ、目の下には隈ができていた。
 ハーリックが白タクを捕まえ、招待所まで送ってくれる。
 とにかくあとはベットにばたんキュー。

このページのTopへ

2000年10月2日(月)

 今日はいよいよアルマトゥイを出発する日、といっても飛行機の出発は夜11時半。時間はたっぷりある。とにかく2日続けの酒で、身体がだるいことこのうえない。日本から持ってきたインスタントラーメンチャルメラで朝飯をつくることになる。田中さんがはりきってつくるが、気持ち悪くて、なんとか胃に流し込むだけ。田中さんは「こりゃうまい」と、チキンラーメンも食べることに。こっちは立っているのも、座っているのもやっとという感じ。ソファーに横になる。
 ローマから電話。少し遅れるという。田中さんは元気、荷造りに励む。こっちはとてもそんな元気が出て来ない。ローマとシュクールが迎えに来る。彼らも疲れているようす。車の中でも口数が少ない。
 まずは中央デパートへ。お土産屋コーナーで田中さんはトレーナー2枚を娘さんのために購入。とにかく立っているのもやっとのフラフラの状態。
 このあと国立中央博物館を見学。ここにも文化省の手配で案内人がつく。旧石器時代から16世紀までの資料が並べられ、それを丁寧に説明してくれるのだが、なにせこっちはフラフラ状態に加えて、歴史用語というか、聞いたこともないような単語がばんばん出てくるので、訳すのに四苦八苦する。田中さんに聞くと、歩きながら眠くなったという。最後に感想を求められたので、カザフの歴史について勉強する必要を感じましたと答えたら、いやいやカザフ人自体がまだ、自国の歴史を知らないのです、ソ連時代に教えられたのは、ソ連の歴史です、これからいろいろな意味で自国の歴史をカザフ人が学ぶ必要があるのですと案内のおばちゃんが言っていた。たしかにこの博物館には、マンモスの骨とか、石器時代の壁画とか、すごい資料はあるのだけど、考古学的な資料が3分の2ぐらいを占め、ジンギスハーンが登場したあたりのところで展示は終わってしまっている。このあとの歴史については、何の説明もなかった。このあとの歴史について、どうまとめるかまだ整理がついていないのかもしれない。途中でハーリックも合流する。
 いったん招待所に戻り、昼食をとって、今度は国立民族オーケストラを聞いた会場へ、ここのディレクターから招待を受けているとのこと。3時すぎにホールへ。最初にディレクター室でここを本拠地として活躍している6つのグループについて説明を受けたあと、民族オーケストラのもうひとつのグループのリハーサルを聞く。リハーサルといっても、みんな民族衣装を来て、本番さながら。観客はわれわれだけ。この体調不良の時に、耐えられるかどうか心配になってくる。3曲目ぐらいに危うく寝そうになった。 5曲ぐらい聞かせてもらったところで、どうでしょうか、もう少し聞きますかと尋ねられたので、いや十分楽しみましたので、これで終わりにして下さいと答える。
 当然のことながら、ホールに隣接してあるVIPルームにパーティーセットが用意されてあった。前回コンサートの時日本語の通訳をしてくれた女性のお父さんを中心に乾杯の音頭が次々に交わされる。驚いたのは、このバイス・ディレクターが、大変な日本びいきだったこと、娘に日本語を習わせる他、息子には空手を習わせているらしい。田中さんがなんでまたそんな日本がいいのですか、と聞くと、日本人は芸術をこよなく愛する民族だからですと答えていた。もうひとつ驚いたのは、バイスディレクターが二度目の乾杯の音頭をとったときに、「私たち文化芸術に携わる者にとって、いまは大変な危機を迎えています。サーカス場もとられてしまいました。でも私はここで断言します。サーカス場は絶対に取り戻します。我々も協力します」と真剣な表情で語ったことだ。
 あとで田中さんと話したのだが、今回われわれが日本で開催されるエクスポのためにサーカスを呼ぶためにカザフに来たことが、大きなインパクトを与えたこと、もうひとつはいつ自分たちもコンサートホールをとられるかもしれないという危機感が、このスピーチの背景にあったような気がする。
 ここで借りてきた猫のようにおとなしかったローマが、帰るときに、これはすごいぞ、彼がサーカス場を取り戻すと言ってくれたと、いささか興奮気味に語る。ローマに、正直なところどう思う、本当にサーカス場は取り戻せるのかと聞くと、ローマは自信たっぷりに「取り戻せる」、そして「彼があんな風に言ってくれたじゃないか、自信がわいてきた」と答えた。アルマトゥイ最後の日に、一昨日見た霧の中の青空のように光明がさしてきた、そんな感じだった。
 6日間世話になった招待所に戻り、荷物をまとめ、衣食住の面倒を見てくれたローマの妹、旦那、そしてその弟に別れを告げる。あたりを夕闇がつつみはじめる。再びローマの自宅へ。ほんとうにこれが最後の別れの宴になる。
 キプチャク夫妻、カバク、ガーリャ、グーリャ(サーカス団の秘書)、ハーリック、シュクールらが集まる。この頃にはだいぶ体調も戻り、酒もすんなり入るようになってきた。ひとりひとりがお土産を持ってきて、旅の無事を祈るスピーチをしてくれる。
じゃこんどは私がスピーチをしますと立ち上がる。
「今回私たちをあたたかく迎え入れてくれてほんとうにありがとう。最初到着した日は寒い日でした。そしてそこでサーカス場を失ったという話を聞き、とてもびっくりしました。でも今回6日間いろいろな人たちと会い、この危機を乗り越えるため、皆が協力しようとしてくれるのを見て、少しは安心して日本に帰ることができます。
サーカスを生業とする人のことをツィルカッチといいます。もしかしたらこの言葉が嫌いだという人もいると思います。でも私はこの言葉をサーカスを心から愛する人のことをいうと信じています。いまここにいる人はツィルカッチです。サーカスはツィルカッチのものです。決してビジネスマンのものではありません。ツィルカッチたちが協力すれば、ビジネスマンに勝てます、そしてサーカス場も取り戻せます、今度会う時は、皆がサーカス場を取り戻した時です。私はその時は必ずアルマトゥイに戻ってきます。再会を祝して乾杯」
とこんなことを言ったのだが、どこかですすり泣く声が聞こえてくる。シュクールだった。あの日すばらしいスピーチで私を泣かせたシュクールである。彼が目を真っ赤にするのを見て、また涙がこぼれてくる。田中さんに、すいません、あとで通訳しますと謝る。
 ハーリックが、ローマが、みんな兄弟よ、とにかく無事に帰国することを祈っている。お前たちは本当の友人だし、兄弟だ、アルマトゥイに来てくれてありがとうと挨拶、時計を見ると9時すぎ。そろそろ出発しなければならない。みんなに別れを告げる。
 空港には結構人がいる。民族オーケストラのディレクターも来てくれていた。ネクタイピンをもらう。空港に着くと、カバクは突然空港職員のネームカードをつけ、税関をフリーパスにしてくれる。この税関のところで皆とお別れしなければならない。ここで突然「Mr. 大島」と呼ぶ声がする。スミルノフのサーカスの者だが、このビデオをこれからあなたが会う韓国の金さんに渡してくれという。一瞬何のことかわからなかったが、ローマがとりあえずもらっておけと言うので、受け取る。税関の前で、ハーリック、ローマ、シュクールとロシア式に口づけをして別れを告げる。カバクが搭乗カウンターまで来てくれる。このせいもあったのかもしれないが、帰りの席はビジネスだった。ここでローマに渡そうと思ったお金を渡さなかったことに気づく。いそいで紙でドルをくるみ、カバクにローマに渡してくれと頼む。わかったといったカバクは、すぐにローマに渡しに行った。
 結構混み合っている。出国カウンターのところで、カバクともお別れ。2階にバーがあるというので、行ってみる。免税店も開いていた。私は煙草を買う。バーでビールを買って、テーブルに着く。空港へついてからはとにかく慌ただしかった。田中さんと「お疲れさまでした」とビールで乾杯。なんとなくほっとした一時だった。無理やりもたされたお土産をふたりで分ける。リンゴと梨ももらったのだが、これはもっていけないと判断、忘れることにする。ザックからピーナツが出てきたので、これをつまみながらビールをもう一本飲んだあと、搭乗。
 飛行機は23時25分離陸。離陸後もしばらく田中さんとビールを飲みながら、今回のカザフ出張を振り返る。いろいろあった。そしてよく飲んだ。2時間ぐらいたったところで就寝。ソウルの空港に向けて着陸体制に入る時まで、ぐっすりと寝入る。

このページのTopへ

2000年10月3日(火)

 7時25分ソウル金浦空港に到着。タラップからおりてバスに乗ってターミナルに行ったのだが、霧が深いのに驚いた。そんなに離れていないところに止まっている飛行機が見えないほどだった。よく着陸できたものだと感心する。トランジットのところで、田中さんと別れる。田中さんは2時間あとの飛行機で、大阪に戻る。もう少し一緒にいようと思ったのだが、出国する人間は早く、ここから立ち去れみたいな雰囲気があった。とにかく田中さんもたいへんだったと思う。お疲れさまでした。

 今日から韓国にいるあいだ付き合ってくれる栗原氏が、待っていてくれた。2時にロッテホテルで、金さんのマネージャーのユンさんと会う段取りになっているという。それまでとりあえず荷物を栗原氏の会社において、近くの旅館でひとねいるするのが、いいだろうということになる。
 今日はなんでも韓国の建国記念日で、祝日ということだ。タクシーで中心街へ。(20,000won)。栗原の事務所に荷物を置いたあと、近くの連れ込み宿で仮眠(20,000won)をとる。
 この旅館がかなりしぶい。うらびれた部屋に、小さなベットに枕がふたつおいてある。一応風呂もある。とにかく疲れた。3時間は寝れるはずだ。外がうるさいせいもあったが、何度も何度も目が覚め、よく眠れなかった。おばちゃんが12時に起こしにくる。
 通りで栗原氏が来るのを待っていたのだが、なんか活気があってうれしくなる。若者が多い街のようだ、10年ぐらい前の神田や御茶の水の雰囲気。活気といってもいまの日本の渋谷や新宿のような感じの活気ではなく、私が学生の頃感じた懐かしい感じのする活気が溢れてくる。栗原氏がまもなく来て、事務所があるビルの地下の食堂で、昼飯。鳥鍋だったが、これが美味かった。カザフでほとんどまともな食事をとっていなかったので、この辛さが胃を刺激してくれる、なによりも白い御飯がうれしかった。ペロッと食べてしまう。
 車でロッテホテルへ向かうのだが、休みということもあって、渋滞。結局30分遅れてロッテホテルに到着。
 マネージャーのユー君は、なかなか実務に長けているようだ。今回の来訪の目的を簡単に説明する。日本での公演にはかなり興味をしめしているが、スケジュールが問題なようだ。こちら側が予定している時期は、なかなかフィクスが難しそうな感じだった。
 とにかくこちらも金さんのショーを実際に見ていないし、とにかく明日見たあともう一度お会いしましょうということになる。まずはジャブの打ち合いということで、明日が勝負になる。ユー君の目には、私がよっぽど疲れて見えたのだと思う。大島先生はひどくお疲れの様子ですけど、大丈夫ですかと聞いてくる。たしかに前日あまり寝ていない、髭も剃っていないということで、かなりひどい顔だったのだと思う。
 カザフから預かったビデオのことを遠回しに聞いてみる。なんでもスミルノフから電話があり、こちらはカザフのサーカス団だが、大島の紹介で電話している(紹介なんかしていない)、是非韓国でもカザフのサーカスを紹介したいと売り込んできたらしい。タイミングがいいことに、金さんたちは2年後に綱渡りのフェスティバルを企画中だったので、資料があれば下さいと答えたようなのだ。これで真相が飲み込めた。
 要は私の会社が、私が出発後金さんから来たファックスの件で、翻訳して金さんの電話番号を書き、連絡をとって欲しいと、サーカス場にファックスしたものを、スミルノフが見て、金さんを韓国のプロモーターと勘違いし、売り込みをかけたのだ(スミルノフは私宛のファックスを私に渡さず、盗み見したことになる)。なかなかスミルノフはやるではないか。それにしても卑劣なやり方だ。あの冷たい目が思い出される。
 今日は頭が回転しないので、この件については明日にでもタイミングを見て、金さんたちに詳しく説明しようと思う。
 このミーティングのあと、いったん栗原氏の事務所に戻り、荷物を積み、バスセンターへタクシーで向かう。またしてもすごい渋滞。最初着いたターミナルからはこれから行く安東(アンドン)まで行くバスがないというので、またタクシーに乗り、タクシーで移動。(20,000ウォン)。渋滞、車のなかではほとんど寝ていた。5時半にターミナルに到着、バスは6時半に出るというので、カフェでビールを飲む。
 6時半のバスで安東へ向かう。途中一回休憩。とにかくバスの運転が荒っぽいのに驚く、ゆっくり寝ようと思ったのだが、思い切りスピードを出して、細い道をガンガン飛ばすし、カーブもやたたら多く、寝るどころの騒ぎではない。4時間ぐらいかかると聞いていたのだが、10時安東のバスターミナルに到着。
 タクシー(1,300won)でパークホテル。とてもまともなホテル。考えてみれば、今回の出張で初めてまともなホテルに泊まることになる。まずは食事。駅前の食堂に入ると、おばちゃんが寝ていた。やってないのかと思っていたら、食べれるという。暇な時は寝ている、これは韓国では当たり前のことらしい。キムチ鍋を食べ、ビールを少し飲む。だんだん胃が正常な活動をしはじめているのを実感する。美味しかった。
 部屋に戻り、湯船にお湯を張り、風呂につかる。ほっとした瞬間である。荷物の整理を少しして、12時すぎに就寝。

このページのTopへ

200010月4日(水)

 10時起床。ほんとうに久し振りにというか、今回の出張ではじめてまともなホテルで寝れたので、かなり元気になれたような気がする。ぐっすり寝れた。下のレストランで朝食。これもひさしぶりにトーストと目玉焼きというまともな食事がとれた。朝方曇っていたので、心配だったのだが、だいぶ日もさしてきた。たぶん天気はもつであろう。もしも今日雨が降ると、キム氏のチュルタギ(綱渡り)の公演は中止になり、なんのためにここまで来たのか意味がなくなる。食事をとったあと部屋に戻り、会社と家に電話。これといって大きな事件はないようだ。
 ホテルの前からタクシーを拾い、河回村(ハフェマウル)のフェスティバル会場に向かう。安東駅前を出て、市街地はあっというまに抜け、のどかな田園風景がひろがる。日本の田舎と同じ景色、稲もだいぶ黄色くなっている。なぜかなつかしさがこみあげてくる。
 30分ぐらいで河回村のフェスティバル会場に到着する。帰りのタクシーがないというので、待っていてもらうことにする。
 タクシーの運転手が気のいいおじさんで、ガイドを買ってでる。安東と河回村が有名になったのは、去年4月イギリスのエリザベス女王がここを訪問してからだという。村の入り口には、女王の訪問を記念して、記念館がつくられている。運ちゃんは得意気にここを案内してくれた。
 ここは両班(リャンパン)という封建時代に官僚を輩出することを許された支配階級の中でも名門の豊山柳氏が、代々暮らしを営んできた同姓村落として知られる。村の中心に本家がそのまま保存され、周囲に130戸あまりの古い民家が、昔のまんま残されている。昔の村落をそのまま展示しながら、そのなかで住民が実際生活しているところに特徴がある。唐辛子の畑などが村のあちこちに見られる。なにか古い時代にタイムスリップした錯覚に陥ってしまう。のんびりと村のなかを歩く。天気もよく少し汗ばんでくる。
 この村のもうひとつの特徴は、山々に囲まれ、なおかつ村の周りを洛東江という川がS字形に包んでいることだ。あとで聞くところによると、まさに天然の要塞ともいうべきこの地形のおかげで、この村は外からの侵略を逃れてきたということだ。
 またここは仮面劇でも知られており、村には実際に仮面をつくる工房や仮面博物館などがある。私も手作りの木彫りの仮面をふたつ購入する。(60,000won)
 小一時間ほど村を散歩。2時にキム氏と、安東駅近くのフェスティバルのメイン会場で落ち合うことになっているので、1時すぎに村を出発する。
 1時半ぐらいに国際仮面劇フェスティバル、安東民俗芸術祭のメイン会場に到着する。会場はかなり大きい。屋台が並ぶ大きなテントが三つ、照明・音響設備が完備したメインステージがひとつ、屋台のちかくに、祭壇を模したステージがひとつ、さらにすり鉢形の仮面劇専用野外劇場がひとつ、その他にも人形劇専用のテント、売店、土俵、ノルティギと呼ばれる伝統的な遊戯シーソー、鯖売りの荷車などがある。平日だというのに、人が一杯。かなり本格的なフェスティバルであることがわかる。
 メインステージの前で綱を張っている人たちを発見。昨日会ったユー君もいる。早速そこに向かう。キム氏と挨拶。仕込みを終え、軽くリハをしたあと、ミーティング。日本公演に関してはかなり関心があるようだ。昨日言っていたスケジュールの問題も、全然無理という感じではなく、調整したいという意向をはっきりと示す。詳しくは公演後にまたゆっくりということで、この場は別れる。
 屋台村の方に行って、うどんとキムチを食べる(7000ウォン)。周りを見ていると、年配の人たちがグループで酒を酌み交わしているのが目につく。ワイワイ大きな声を出して、マッカリやジンロを飲み、楽しそうに話している。昔田舎で見た祭りの雰囲気を思い出す。
 実際にフェスティバル会場のあちこちでは、酒を飲んで、踊ったり、歌ったりしている人たちがかなりいた。どうもお祭りが好きなようだ。
 4時キム氏のチュルタギの公演が始まる。最初事務局のスタッフが綱が張られているところからかなり離れて座るように指示していたが、キムさんは、逆にもっと近づくように人垣を前のほうに集める。
 チュルタギは、マダン(広場)ノリの芸と言われているように、大道芸のひとつ、円く輪になってみてもらうほうがいいようだ。
チュルタギの芸の内容については、観覧日誌を参照してもらうことにして、とにかく私はこの時およそ35分間汗だくになって、ビデオを撮影するのに専念。綱の上でボンボン弾み宙にあがる時には、思わずオッーと唸ってしまった。見事な芸だった。公演のあと撤収に時間がかかるというので、6時に会うことにして、また会場内をブラブラする。
 いつの間にか屋台の近くで人垣ができていて、耳をつんざくような大きな音楽が流れ、観客の笑い声が聞こえたので、そっちへ行ってみると、女装していたお兄ちゃんが、下手くそな踊りをしている。ストリートパフォーマンスなのだが、日本と違うのは、投げ銭を集めるのではなく、別なお兄ちゃんとお姉ちゃんが飴をつくってそれを売っていたことだ。
ノ ルティギに挑戦。これが結構難しい。タイミングが合わないと、シーソーから落ちて転んでしまう。
 祭壇ステージでもなにかでっかい音を立て、いろいろなパフォーマンス(宗教儀式の延長上にあるもの)が演じられていた。
 鯖売りの荷車の脇では、この鯖を実際に焚き火で焼いたものを、見物客が買い、そこに敷かれたござの上に座って酒を飲みながら、食べているのも面白い風景だった。
 6時キム氏とユー氏と他のメンバーと一緒に車に乗り、駅近くの食堂へ。プルコギという韓国料理の代表的な肉料理をごちそうになる。
 キム氏はチュルタギ保存会も主宰している。キム氏が日本の綱渡りについて質問してきたあたりから話は一気にもりあがる。日本の伝統的な綱渡り、青竹渡りや坂綱のことを話したら、どういうものかさかんに聞いてくるので、絵を描きながら説明すると、かなりびっくりしていたようだ。日本だけでなく、自分がいままで見てきた世界の綱渡りのことを話すと、キン氏の目は、まさにらんらんと輝いてくる。この人本当に綱渡りのことが好きなのだと思う。とにかく自分がもっている綱渡りに関する資料は、コピーしてあとで送るといったら大喜びしていた。なんとなく波長が合うことをお互いに感じあえたのではないかと思う。
 日本公演の話については、場所を代えてやろうということになり、私たちが泊まっているホテルのロビーでコーヒーを飲みながらやることに。今日見たチュルタギについて私なりの感想を述べたあと、これをこのまま日本でやることもひとつ考えられるだろうが、古いかたちでチュルタギを保存する、守るということだけでなく、新しいものも取り入れていかに見せるかということを考えないと、日本ではなかなか難しいのではないかというような話をした。これが今回の一番大きなポイントだと思ったのだが、彼らの反応は良かった。
 キム氏もユー氏も私たちは、チュルタギを残したいということで、こうして仲間が集まって保存会をつくったわけだが、生きのこるためには常に新しいことも考えなくてはならないと思っている。具体的にどうやったらいいのかと聞いてきたので、ここから私がアィデアを出し、それが出来るかどうかについて話し合いを重ねる。コーヒーショップが10時で閉店ということで、近くの飲み屋に場所を代えて、またこの話の続き、さらにはどうして自分たちがチュルタギ保存会をつくるようになったのか、将来の夢、再来年予定している国際綱渡りフェスティバルについて(なんでも38度線の北と南の国境でやりたいということだった)、韓国のサーカスについて、日本のサーカスについて、この一週間見てきたカザフサーカスの実情など、話は多岐にわたり、結局は12時半ぐらいまで、ジンロを飲みながら熱く語り合う。キム氏もユー氏も本当に真摯な芸人たちであることがわかり、うれしくなってくる。ついついこっちもボルテージがあがってくる。
 カザフのサーカスのビデオの件に話が及んだ時は、彼らに私が実際に見てきたことを率直に話し、サーカスを愛する人たちが、いま懸命に国立のサーカス団を維持しようとしてがんばっているし、少しは光明も見えてきたと説明すると、ふたりはおもわず拍手してくれた。そして当然のことながら、もし再来年国際綱渡りフェスティバルを開催するときには、ハーリックを通じてカザフから綱渡りのアーティストを呼びたいと言ってくれた。
 久し振りに気持ちのよい芸人さんと会えたというのが実感。彼らも私たちがやろうとしていることを理解してくれたと思うし、とにももかくにもこれから末永い付き合いになりそうだということが私には嬉しかった。
 最後に日本からもってきたお土産祭りのハッピをプレゼントしたら、とても喜んでいた。明日彼らは、河回村で公演することになっている。私達は3時か4時のバスでソウルに戻ることになっているといったら、是非昼食を一緒に食べましょうといってくる。河回村でしか食べれない料理があるという。喜んでこの申し出を受入れ、ホテルの前で別れる。
 部屋に戻ってから、シャワーを浴び、ひさしぶりにパソコンのキーを叩く。せっかく日本から重い思いをしてもってきたパソコンだが、いままでまったく使うことがなかったのだ。
 2時すぎに就寝。

このページのTopへ

2000年10月5日(木)

 9時半起床。荷作りをする。10時朝食といっても、コーヒーとジュースだけ飲む。
昨夜最後の店で飲んだ時食べたイカ鍋が結構効いている。スーツケースをフロントに預ける。12時キム氏とユー氏が迎えに来る。車に乗って、河回村へむかう。
 車の中で、キム氏がこの町は10年ぐらい前に来たときは、信号がほとんどなかったのですよ、と言う。儒教の教えがとても浸透している町で、人間を優先する考えが徹底していたという。実は昨日の公演中お客さんが静かで結構やりずらかったとも言っていた。これも儒教の強い影響がまだあるせいだという。
 村の近くへ来ると、コスモスの花や銀杏の木が道端にたくさん植えられているのに気づく。すっかり黄色くなった田んぼ、コスモス、秋の気配がしみじみとつたわってくる。
 昨日行った民俗村の近くのレストランに入る。団体客で店は人で一杯。なんとか席を見つけ、安東でしか食べれないという、ホッ祭祀パブをごちそうになる。ホッというのはいつわりとか空という意味で、祭祀の時に食べる料理を、平常のときに食べることから名付けられた。祭祀もどき料理ということになるのだろうか。ナムルと肉と魚を串焼きにした皿のほかに、ビビンパが出てくる。いままで食べてきた韓国料理とちがって、辛味があまりなく、若干うすあじ、おしいかった。混んでいたので、あまりゆっくり話して食事するというわけにいかず、美味に舌鼓をうつことに終始した。
 食事のあと外で煙草を吸う。外には池があり、鯉や小魚が飼われている。誰かが餌をやったら、大きな鯉がこの餌を独り占め状態で食べていた。キム氏が、この鯉めがけて、石を投げた。他の小魚にも餌を食わしたいという意図で、この鯉を脅かしたのだ。キム氏の人間性の一面を知ったような気がした。
 河回村の入り口で降りて、みんなで記念写真をとる。キム氏は昨日プレゼントしたハッピを着てくれた。今日も4時からここで公演するキム氏とはここで別れることに。またきっとかなり近いうちに、どこかで会える、そんな確信があった。キム氏も同じ思いだったと思う。
 ユー氏が車で送ってくれる。栗原氏の知り合いの妹さんが勤めている地元の放送局MBS(安東文化放送)の報道局を訪ねる。李さんという記者と会う。なかなかの美人、日本語を勉強したことがあるとかで、私の日本語が少しわかるようだった。安東の町のこと、河回村の歴史、仮面劇フェスティバルのことなどをいろいろと話を聞く。これは栗原氏が言っていたことだが、安東の女性は静かで、物腰も柔らく、声も小さい。確かにソウルのどちらというとがさつな女性と比べて安東の女性は優しい感じがする。
 李さんの話によると、いま安東は、エリザベス女王の訪問を契機に、観光地として俄然注目を浴びているらしい。仮面劇フェスティバルも今年で三回目だが、年々規模が大きくなっているし、国もかなり援助をしているという。いま韓国はフェスティバルブームで、金大中大統領の肝入りで地方色を生かした、お祭りがあちこちで開催されているらしい。
 しかし南北統一の気運が高まっているにもかかわらず、金大統領の人気は、いま最低だという。原油高がまた韓国の経済を苦しめているようだ。でも実際に金大統領の後継者については、誰もいないのが現状だという。
李さんの話によると、昨日TBSのスタッフがここに来て、来年つくる日韓合作テレビドラマの打合せをしたとのこと。安東を舞台にしたラブロマンスということなので、来年安東の町並みをブラウン管を通して見れるわけだ。
 李さんが車で、ホテル経由でバスターミナルまで送ってくれる。4時発のソウル行きのバスに乗る。バスの中で栗原氏の話を聞くと、いまの南北統一ムードのなかで、韓国側で積極的に動いているのは、統一教会系らしいことがわかる。6月に北朝鮮のサーカス団がソウルで公演したときのスポンサーも統一教会のナンバーツゥーが経営する会社だったということだ。バスの中でラジオの放送を聞いていた栗原氏が、どうやら金正日のソウル来訪に反対する団体が結成されたと教えてくれた。
 儒教、南北問題、韓国内での地域対立、経済不振、いろいろな問題をいまの韓国は抱えているのはまちがいない。それでも韓国は若い国だと思う。なによりもメラメラのバィタリティーが感じられるのだ。
 途中行きと同じ場所でトイレ休憩をはさんで、四時間半の走行でソウルのバスターミナルに着く。
 タクシーで今日泊まるセントラルホテルへ。荷物を部屋に入れたあと、栗原氏と韓国出張の打ち上げは、ふぐを食ることにする。
 タクシーで一区間のところでフグ屋に到着。こちらのフグはやはり辛味がベース。最後のおじやが美味しかった。
 3日間世話になった栗原氏とも今日でお別れ。本当に世話になったし、いろいろ助けてもらった。
 このホテルは日本のNHKの放送が見れる。1時すぎまでテレビを見る。
 翌日の10月6日、朝ホテルを8時半に出て、9時ちょっと過ぎに空港に着き、あとはタイムテーブル通りに、チェックイン。税関調査などを終え11時の飛行機で成田へ向かう。機内は超満員だった。2時過ぎに成田着。
 およそ2週間の出張が終わった。なかなかいろいろあって楽しかったというのが正直な感想だ。
 韓国にはこれからも何回か来るようになるかもしれない。

このページのTopへ


前の日誌へ クマの公演日誌 Topへ 次の日誌へ
デラシネ通信 Top