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今月の一冊 2001年2月

森まゆみ著 『森の人 四手井綱英の九十年』

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 久しぶりに、グローバルな見地から世界をみる人に出会えてうれしくなった。
 ここしばらく、狭い視野からしかモノがみえない、そんなことが習慣になっていたとき、思い切り世界を広げてもらったような気がする。ふぅーと肩の力を抜いて、自分たちの周りにある自然のことを、もう一度見つめ直すことを教えてもらった本だった。

 四手井綱英という人のことは、実はこの本を読むまでまったく知らなかった。四手井さんは京都大学農学部の出身で、森林生態学を創始した学者であり、いまブームになっている「里山」という言葉をつくったことでも知られているという。
 これは、森まゆみが、京都山科にある四手井さんの家を訪ね、京大山岳部の話、戦前の山林局の仕事、兵隊として中国に赴いた話、里山の発見、森林生態学の創始などを聞き出したものである。
 四手井さんの森への愛情は、並み大抵のものでない。山登りが好きで、そこから森との付き合いが始まるのだが、大学卒業後営林署に勤務することで、すっかり「森の人」になる。秋田、青森、山形の森林の中に入っての生活を振りかえる時は、本当に楽しそうである。この後、徴兵され、中国で従軍し、ここで終戦を迎える。日本に戻ってきた時の喜びを、「森の人」はこう語っている。

 「浦賀に着いて船倉からはい出したとき森の緑が目にうつり、本当にうれしくなった。生きて帰ってこられた。これからまた森とともに生きられると」

 戦後また営林署に勤めたのち大学へ戻り、今度は学者として四手井さんは、森林生態学という新しい分野を創始し、日本だけでなく、世界の森林をフィールドとして活躍することになる。森が生きていることを、さらにダイナミックに捉えようとするこの学問は、四手井さんの本領を十二分に発揮したものだった。
 森林生態学とは、生産、消費、分解という物質の循環を視野においた生態学である。これは植物を対象に光合成による有機物の生産、植物による呼吸消費、草食動物による消費、さらに朽ちた葉や、幹、根、動物の遺体などが大地に還元し、それが土壌でどう分解するかを量的に把握することを目的にしている。
 四手井さんは、生物界の営みを、人間の歴史を、常にマクロに捉えようとする。個々の生物がそれ自体生の営みをしているのではなく、連鎖のなかで営みをしている相互関係や、そのダイナミズムに視点が定められている。ここに四手井流のものの見方の本質があるように感じる。
 例えばブームになっている縄文文化について、四手井さんは、雪の重要性について言及している。青森で発見された集落がなぜあれだけ大きいものだったのか、その秘密は、雪にあるというのだ。つまり雪があったからこそ、縄文人は、孤立した生活はできなくなり、さらに冬の間は移動もできない、そこで春から秋まで働き、食料を貯えておき、冬の間は集団で楽しみながら、織物をしたり、陶器を焼いたりすることになる。縄文土器の装飾の豊さは、こうした冬の生活から生まれたと、四手井さんは大胆な説を打ち出している。
 目から鱗とはまさにこのことだろう。発掘に夢中になって、形として残る遺跡だけを相手にしてばかりいたら、こんな視点は生まれない。消えてなくなる雪を、生活のなかで捉え直すことによってこんな発想が生まれてくる、ここに四手井さんの真骨頂がある。
 だから四手井さんは、自然保護だけを訴える人たちの危うさを直観的に感じている。農業や林業で生活している人たちのことも考えないといけない、生産、消費、分解というサイクルの中で、自然と共生することで、人間は生きてきたのだ。

 森まゆみの聞き方も実に堂にいっている。決して表にはでず、ひかえめながら、四手井さんの人間的魅力を巧みに引き出している。
 山科の四手井さんの自宅は、古くからある森林の中にある。ここを訪れた著者は、この森にある樹のひとつひとつの由来などを聞く。読者は自然に森林が生きたものであること、そしてそこに森の生き物たちが関わりをもっていることを知ることになる。たとえばシュロの樹が、鳥のフンに入っていた種から生まれたことなどを何気なく聞き出すことによって、森の生態学のプロローグが語られる、見事な導入である。
 さらにこの本にはエッセイストでもある奥さんの淑子さんの小文がおまけについている。この「鰻と勲章」と題されたエッセイで、勲二等を受賞することになった夫の姿を、孫を可愛がるあまり、つまらないことで娘と喧嘩するエピソードや、学者であった自分の父親への追憶を重ね合わせながら、見事に描き出している。最後に「森の人」がどこにでもいるふつうのおじいちゃんであることわかり、なんとなくうれしくなってくる。
 また山に登り、森の中を歩きたくなってきた。


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