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クマの観覧雑記帳

コメディアデラルテ 『フラミニアの誘拐あるいは恋はルナティコ』

作・演出 アントニオ・ファーヴァ
場所 青山・円形劇場
日時 2001年5月25日
上演時間 2時間(休憩あり)


 コメディア・デラルテっていうと、お勉強で見ておかないと、少なくても自分にはそんな意識があった。喜劇の原点、身体の演劇、メイエルホリドらロシア・アヴァンギャルドたちに影響を与えたもの、だからチェックしておこうか、そんな構えがあった。
 そんな意味からいうと、この作品は、見事に肩透かしを食らわせてくれた。コメディア・デラルテという古典をそのまま見せるというよりは、コメディア・デラルテという古典的様式をつかいながら、現代風人間喜劇を演じてくれたという気がする。
 狂言役者が、吉本新喜劇を演じたという感じだろうか。

 たわいものないストーリーを、戯曲の内容よりは、役者の力で見せてやろうというところに、コメディア・デラルテの真髄があると思うのだが、この作品の見所、見せどころもそこにある。とにかく役者たちの達者なこと、ひとりの役者が何人もの役柄をやすやすと演じる、これがそもそも芝居の原点だったろう、それを見せつけてくれた。
 文句なく面白かった。
 「狂言役者が、吉本新喜劇を演じたという感じ」と書いたが、劇の中身よりも、外身、つまり役者の演技力を全面に出しているところが、この作品の真骨頂だ。役者たちは一人何役も演じてみせる。しかもそれを当たり前のように演じている、ここが凄い。
 台詞はストーリーを構成する大事な要素だと思う。でもこの芝居は違う。役者がすべての芝居だった。ストーリーなんてたわいのないものさ。俺たちが演技するさまをみせてくれという、心意気が心地良かった。特に作・演出もしているアントニオ・ファーヴァの演技は、まさに変幻自在、見事だった。
 そしてもうひとつ。
 言葉が意味を伝える道具ではないこと、音として自立したものであることを、この芝居は教えてくれた。コメディア・デラルテは、イタリアの各地方の方言を取り入れながら、つくった芝居だが、この方言を、わかる日本人はいない。日本人に認識できるのは、すべて音としての言葉。言葉そのもののリズムというか、言葉そのものが「コメディア・デラルテ」の中で、表現となっていた。言葉が音だけで、その存在を主張していた。それがとても新鮮だった。


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