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クマの観覧雑記帳

『ククラーチョフの世界でたったひとつの猫劇場』

観覧日 2001年8月9日午後3時
場所   テアトル銀座


 去年の公演を見て、今年のプレビューを見た人たちから、こんどはつまらなかったという話を聞いて、実はあまり期待していなかった。珍しく下の娘が見たいというので、一緒についてきた格好になったのだが、十分楽しめた。娘も面白かったと満足していた。見終わって帰るお客さんも口々に面白かったねと言っていた。
 後で関係者に話を聞くと、プレビューの時はほとんど猫がいうことをきかなかったらしい。この1週間ぐらいで内容がずっと良くなってきたとも言っていた。やはり動物が主人公の舞台は、こういうことは良くあることなのかもしれない。環境に慣れるまでには時間がかかるのだろう。
 もうひとつ裏話で聞いたことによると、今回の「くるみわり人形」というプログラムは、ククラーチョフの息子がメインの作品で、出てくる猫も息子が調教しているものばかりだという。観客の反応があまり良くないのを見て、父親がだいぶ介在したことで、番組自体がかなり締まってきたという話だ。ロングランの公演の場合、こうした微調整は必要になってくる。この手直しの結果、ここ一週間当日券の売れ行きがずーんと伸びたという。やはり公演はなまものである。

 内容的には、去年の作品とおおきなちがいはない。くるみわり人形のテーマを借りてはいるものの、猫の小芸を見せながら、息子のサーカス芸をおりまぜながら、進行していく。ドラマ的な要素は、前半の30分すぎから、後半の10分すぎぐらいまで、20分程度。ネズミたちが(かぶりもの)、息子演じる王子をくるみわり人形に、王女を人形に変えてしまうのを、猫たちが協力してネズミを追い出してしまうというたわいのないものである。ネズミを追いやる時に、もう少し猫がたくさん出てきたほうがいいと思うのだが、舞台には3匹の猫が登場しただけ。ちょっとここはものたりなかった。
 息子もがんばって、ジャグリングやローラーバランス、綱渡りなど演じてみせているが、やはりクラウン役のククラーチョフがいないと成り立たないステージだと思う。相変わらず達者な演技をみせてくれる。オープニングのお客さんをモデルに瞬時で似顔絵を描くレプリーズ、観客にリングを投げさせたり、フラフープをやらせたり、ボールを客席に投げ込んだりと、常に観客との間合いをはかりながらのクラウン芸は、ククラーチョフの真骨頂だと思う。そして彼のクラウン芸は、まぎれもなくサーカスから生まれたものであり、その枠からは出られないものだと思う。そこに彼の才能と限界があるのではないだろうか。サーカスのクラウンが、芸と芸の間を繋ぐ役割を担い、そして客席に橋渡しをすることが使命だということをククラーチョフは十分に知り尽くしている、それを自分の劇場でも忠実に守っているといえる。

 ふたつの作品を見て、ククラーチョフのクラウン芸に関しては、すべて見せてもらったような気がする、そして他の作品で彼がこれ以上のなにかちがうクラウン芸を見せてくれるとは思えないのも事実である。猫の芸自体についても、これ以上新しいものが見れるとも思えない。
 サーカスのクラウン芸はワンパータンでいいと思う、あとはそれを演じるクラウンの芸の資質なのだと思う。猫の芸に対しても、観客はもっとこんなことをして欲しいとは思っていないはずだ。猫好きにとっては、いろんな猫が出てきて、なにかをしてくれるだけで満足できるのだとも思う。このあたりのことは、サーカスで長年クラウンとして生きてきたククラーチョフはすべて承知なはずだ。ククラーチョフの猫劇場は、こうしたマンネリズムをどこまでも追求していくような気がする。そしてそれはそれでいいと思う。
 おそらくそれが彼のクラウンとしてのひとつの生き方なのではないだろうか。


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