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金倉孝子シベリア紀行第三弾
『エニセイ川ドライブ紀行』

前編

 クラスノヤルスクにお住まいの金倉孝子さんから、また貴重な体験を綴った紀行エッセイが届きました。今回のエッセイは、エニセイの流れを車で追ったもの。古いロシア、ソ連時代の影が交錯しながら、シベリアのいまが浮かび上がってきます


クラスノヤルスク市から南へ、
エニセイ川上流へ、2002年秋

2002年10月30日から11月3日
金倉孝子
(kanakuta@krasmail.ru)

地図1
エニセイ川流域

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地図2
クラスノヤルスク市〜ダム湖

(138KB)
地図1 エニセイ川流域 地図2 クラスノヤルスク市〜ダム湖
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 10月30日から11月3日まで、5日間かけて、クラスノヤルスク南方へ車で行ってきました。あちこち寄ったので、全行程は1500キロ程になりました。でも、この1日平均三百キロは、シベリアにしてはとても少ない距離です。というのも、路面凍結の日があったりして、スピードを出せなかったからです。

1日目 ハカシア共和国アバカン市

 クラスノヤルスク市を午後出発し、エニセイ川の左岸をさかのぼるように通っている国道54号線を、400キロ程南下して、ハカシア共和国の首都アバカン市(人口15万人)で第1日目は泊まりました。南下すればする程、半乾燥地帯に入っていき、森林は少なく、代わって草原が多くなります。
 ハカシアはソ連時代は、ロシア連邦構成「自治共和国」でしたが、ソ連邦がなくなって、今ではロシア連邦構成「共和国」といいます。一応「共和国」なので、自分達の大統領、内閣、国会など持っていますが、地方自治体の知事、県会とあまり変わりません。外交権は勿論、ロシア連邦政府にあります。カフカス地方の、例えば、チェチェン共和国のように、ロシア連邦から分離独立などを要求したことは一度もありません。ハカシア人のための国ですが、住民の中でハカシア人は20%以下で、他はロシア人達です。ハカシア人はモンゴルの北から南シベリア、中央アジアに古くから住んでいたチェルク系民族の子孫だそうです。

クラスノヤルスク地方とハカシア共和国との国境、案内版が立っているだけ
クラスノヤルスク地方とハカシア共和国との国境、案内版が立っているだけ

2日目 発電所の町

 2日目は、さらに、ステップ(草原)地帯を南下して、巨大な(昔のソ連のことですので、そんなものを建設した)サヤノ・シューシンスキー水力発電所のあるチェリョームシカ市に向かいました。
 エニセイ川やエニセイ川の支流には多くの発電所があります。1955年から71年にかけて作られたクラスノヤルスク発電所は、当時はロシア第一の規模でした。その後、エニセイ川の600キロ程上流に、78年から超巨大なサヤノ・シューシンスキー水力発電所が作られたので、ロシア第2の規模になりました。
 エニセイ川の上流の峡谷は、手づかずの自然が残っていて、絵のように美しいのです。勿論すべての渓谷を自分の目で見たわけではありませんが。エニセイ川の、クラスノヤルスクから北の下流はクルイーズ船がありますが、南の上流は、大きな船の運行はありません。ダムがあったり、それこそ渓谷があったりで、筏やゴムボート、カヌーでなければ、今は通行できません。ちなみに、カヌーでの川下りは、観光客に人気があるそうです。私は、カヌーではなく、車で行ったので、エニセイ沿いの道に出たり、遠ざかったりで、全貌は見られませんでした。
 エニセイ上流の手づかずの自然のような所は、シベリアにはたくさんあり、ソ連時代にはそうした地に、例えば、発電所を作ったりしました。発電所を作るためには、そこへ行くまでの道路を、まず作らなければなりません。また、その発電所を建設する労働者、そして、建設後はそこで働く労働者のための新規の町を作らなくてはなりません。そのようにしてできたのが、サヤノ・シューシンスキー発電所のためのチェリョームシキ市です。

 アバカン市を出発し、さらに、南へ南へと草原の中の、鋪装道路を100キロ程走っていくと、右手に遠く、煙りをもくもくと吐き出す巨大な工場が、見えてきます。草原で遮るものがないため、遠くまで見えるのです。これは、サヤノゴルスク市と言う新興の工業都市で、サヤノ・シューシンスキー発電所からの電力を使うアルミ工場です。勿論公害垂れ流しで、サヤノゴルスク市へ入ると、それだけで、不快な匂いがしてきます。人口5万人だそうですが、その人たちの健康はどうなのでしょう。ソ連時代は、このような環境の悪い所で働く人は、年間休暇が多く、長期に黒海沿岸などのリゾート地、保養地などへ旅行できると聞いたことがあります。今は、どうなっているのでしょうか。

雪の積もった草原の向こうに見えてきたサヤノゴルスク市のアルミ工場
雪の積もった草原の向こうに見えてきたサヤノゴルスク市のアルミ工場

 この公害都市を抜けると、突然、美しいエニセイ川沿いの道で出ます。そこは、山の中の絶壁に囲まれた山道ですので、山国日本の「白山スーパー林道」なんかと少し似ていますが、エニセイのような川が流れていることが違います。また、周りの山々が、温帯地方の日本のように樹林に被われているのではなく、半乾燥地帯のため、森林は育たなくて低い草が生えているだけなこと、そのすぐ向こうの高い山々は、森林も草原もなくただ雪に被われていること、が違います。そうした半乾燥地帯の荒涼とした山々を見ると、私はいつも、「西遊記」の孫悟空でも飛んでないだろうかと思ってしまいます。

西サヤン山脈の中のエニセイ川沿いの道
西サヤン山脈の中のエニセイ川沿いの道

 左手に、もう川幅の狭くなったエニセイ川、その向こうの人気のない西サヤン山脈、右手にこれも西サヤン山脈の絶壁を見ながら50キロも車で走ると、突然、高さ240メートル(エッフェル塔でも300メートル)のサヤノ・シューシンスキー・ダムにぶつかるように、その道がおわリます。
 夏には、クラスノヤルスクから出発して船で、エニセイ川を下りましたが、今回は、車で、上流へ行ってみたわけです。サヤノ・シューシンスキー発電所より上流は、長い長いダム湖が西サヤン山脈の中にできています。西サヤン山脈の中に勿論、道路は、ありません。地図を見ますと、サヤノ・シューシンスキー・ダム湖を、さらに遡っていくと、トゥーヴァ共和国(ロシア連邦構成共和国の一つ)との国境をこえ、その首都のクィズィール市でエニセイ川は、大エニセイと小エニセイに別れ、さらに南へと、モンゴル高原に続く山岳地帯にのびています。アバカン市からクィズィル市に出るには、峡谷を流れるエニセイ沿いの道ではなく、別の、盆地を横切る国道54号線を通ります。
 さて、サヤノ・シューシンスキー発電所には博物館がありますが、見学のためには、前もって、パスポート番号を知らせて許可をもらわなくてはなりません。発電所そのものも、部外者は近付くことはできません。ロシアは発電所に限らず、あちこちに、禁止地区があります。誰かがその発電所を爆破すると、6400メガワットもの発電力のダムがなくなるだけでなく、チェリョームシカ市や、多くの戦略的に重要な工業都市があっという間にエニセイ川の水に押しながされてしまうからだそうです。確かに、チェリョームシキ市は数秒後に水面下240メートルの水中都市になってしまいます。
 今回、ファックスで博物館見学の許可申請をしておいたのですが、行ってみると、モスクワのテロのため、見学禁止と言われました。エニセイ川左岸に見晴らし台があると聞いて、砂利道を車で登ってきました。かなり登って登って行った所にある少し開けたところが見晴らし台でしたが、それでも、ダムの高さより低いので、ダムの向こう側は見れませんでした。途中検問所があって、車の中など調べられました。ロシアではどこでもそうだと思いますが、検問所と言えば、いつも、防弾チョッキを着て自動小銃を持った兵士が、「武器は持ってないか!」と質問します。

見晴らし台から、水力発電所を見る
見晴らし台から、水力発電所を見る。
エニセイ川の向こう岸の道は、ダムにぶつかるように終わっている。
このダムの高さが240メートル

 チェリョームシキ市は、発電所のためだけにできている人口2万人程のミニシティで、ロシア不景気のリストラのため、失業者が増えているそうです。大都市なら他にも産業はあるでしょうが、ここは、発電所しかありません。耕地もありません。発電所を解雇されたら、どうするのでしょうか。他の町も失業者が溢れていますし。
 袋小路にある町なので、三方が自然の絶壁に囲まれた要塞都市のようです。戦国時代でしたら、きっと堅固だったでしょう。市のホテルと言っても、観光客のためと言うより、発電所関係の出張者のためにあるので、アパートのように台所付きでした。これは、家具付きアパートを日割り制で貸しているといった方がいいです。
 チェリョームシキ市のすぐ横を流れるエニセイ川を見て、3000キロ下流の大河は想像できません。ダムがあるために特に狭いのでしょう。と言うより、狭いから、クラスノヤルスクから600キロも離れた所にダムを作ったのでしょう。西サヤン山脈の向こうのトゥーヴァ盆地に入ると、また広くなります。

3日目 古代文明を訪ねる

 次の日は、チェリョームシカ市から、道を少し戻って(何しろ、そこは突き当たりの袋小路なので、それ以上は行けません)マイナ村と言う所にある小さな発電所のダムの上(これが、橋になっている)を通って、エニセイ川の右岸に出、シーザヤ村で、車を止めて写真を取りました。このへんは一歩一歩が写真にとって残しておきたくなるほど美しいのです。この人里はなれた村に、大理石をふんだんに使った白と青の美しい教会があります。対岸のマイヤ村からもよく見える高台に建っています。これはソ連時代に新築された唯一の教会だそうです。というのも、シザヤ村は、有名なレスリング選手ヤルィギンの故郷で、彼は、きっと体育会系官僚を動員して、自分の母親と同じ名前の「聖エウドキヤ」教会を建てたのです。立派なものです。
 シザヤ村を通り過ぎエニセイ右岸の道も、川岸から離れ、「シベリアのイタリア」と言われる程、温暖なミヌシンスク盆地を北上し、盆地の中心地ミヌシンスク市(人口7万人)にむかいました。
 古代文明は大河の近くで発展しました。エニセイ川も大河ですから、古代文明が発達してもよさそうです。でも、下流の北極圏は勿論、クラスノヤルスクがある中流地帯も気候が厳しくて、文化らしいものは発達しませんでした。でも、過ごしやすい気候のミヌシンスク盆地には、2万年前からの旧石器遺跡、6、7千年前からの新石器文化遺跡、4、5千年前から青銅器文化が発達しました。紀元前後に鉄器文化が生まれ、16、17世紀は、封建国家ができました。また、墓跡もたくさん残っていて、シベリア(エニセイ)・スキタイ文化の青銅器(三千年前)や、匈奴青銅器文化(2200年前)、タガルスカヤ鉄器文化など発掘調査中です。墓は巨石で囲まれていて、発掘物は、ミヌシンスク博物館に保存されています。
 それで、その日は、ミヌシンスク博物館をゆっくりと見学し、写真もたくさん取りました(有料で、60円です)。入館料はロシア人は20円、外国人は約200円です。私は「日本人だけど、クラスノヤルスクの住んでいるのだから」と言って、ロシア人料金で入りました。その他、300円を払うと、専用ガイドが雇えます。特に、物知りと言う程のガイドではありませんでした。だいたいガイドと言うのは早口でしゃべるものですが、彼女は特に早口で、「もっとゆっくり話してくれなければ、私には分からないでしょうが」と、文句を言ったくらいです。
 ミヌシンスクシでは、「アムィール」ホテルと言う19世紀末に建てられた古いホテルのデラックスルームに泊まりました。というのも、デラックスルームにしかバス・トイレがついていないからです。一泊2000円でした。1年前に、来た時も同じホテルに泊まりました、ホテルの管理人が私達を覚えていました。ホテルに泊まる時はパスポートを見せなければなりません。きっと、日本人がこんな所まで来て泊まるなんて、珍しいことだからでしょう。

(続く)


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