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金倉孝子の部屋
シベリアの中心クラスノヤルスク(後編)

(前編)
 1.未知の町クラスノヤルスク
 2.クラスノヤルスクの歴史
 3.革命後のクラスノヤルスク
 4.クラスノヤルスクの自然と産業
 5.私とクラスノヤルスク

6.クラスノヤルスクの四季
7.レザーノフフォンドとの出会い


6.クラスノヤルスクの四季

 さて、クラスノヤルスクは北緯56度でカムチャッカ半島のまん中ぐらいです。カムチャッカは周りが海ですが、クラスノヤルスクは大陸のまん中ですから「超」大陸性気候で、冬は零下40度、夏はプラス30度にもなります。普通の年は、10月中ごろから5月始めまで、日本でいえば冬です。気温は零下が普通です。11月から3月ごろまでは、零下10度から30度の間を数日毎に上がったり下がったりします。なん年かに1度は大寒波に襲われて、零下45度が何日も居座るということもありますし、反対に、一番寒いはずのお正月に雨が降って、氷の彫刻展を台なしにすることもあります。
 零下20度程度で、適当に雪がふり、余り風の吹かない日ですと、「今日は、いい日和ですね」と人々は挨拶します。 雪がないと、大地が直に冷えて、動植物にとって厳しい冬となります。雪は、みんなを寒さから守ってくれます。また、風が強いと、零下10度でも、外出は辛いです。
 4月後半からは雪解けの季節です。前の年の秋から積もった雪が解けるのですが、雪と一緒に凍り付いていたゴミや塵が、雪解けとともにどっと現れてきます。日本のように道路の端に側溝がなく、水はけが悪いので大きな水たまりができます。大海原のように道幅いっぱい何メートルも続いて、通り抜け不可の所もあります。車なら抜けられます。夜間に零下の気温になると、翌朝はでこぼこのスケート場のようになり、車はブレーキもハンドルも効きません。昼間はまた融けて水たまりとなり、通行人を苦しめます。それをくり返しているうちに、乾燥したシベリアのことですから、水分は蒸発して塵や泥だけが残ります。この時期、道ばたにも野原にも、まだ雑草さえ生えてなく、一面泥だらけです。
 5月中旬には、冬の間トラックが通れる程厚く張っていた河川の氷りが融け、下流へ下流へと流れ出します。季節の変わり目にはよくあることですが、気温の上昇が急激だったりすると、洪水が起こります。
 ちなみに、エニセイ川は、ほぼ南から北へ流れているので、氷がまだ堅く張っている北の川へ、南で融けた流氷が流れてきて、行き場をなくした河川水が溢れだすと言うのは、毎年決まって起きる普通のことのようです。それで、エニセイ川の畔の村々は、10メートル以上も川面から高いところに作られています。時々、10メートル以上も水面が上がる時があって、そうなると村は流されてしまうので、別の所に新しい村を作り直したそうです。
 5月後半からは、寒の戻りはありますが一気に春から夏になり、日本では気温の上昇につれて順番に咲くような花が、ここでは一気に咲きます。4月後半の「雪解け泥」の景色は一転して、お花畑になります。お花畑の広さの規模が日本とは違うことを想像して下さい。たんぽぽ畑と行ったら、地平線一杯たんぽぽが咲き乱れています。ヤナギランヤと言った、日本では高山植物で天然記念物ですが、雑草のようにいたるところに生え、キンバイソウ(シベリアのばら)が野原にたくさんある湿地と言う湿地を橙色の花で埋めます。ウワミズサクラやシベリアリンゴの白い花が街路樹に咲き、よい匂いがします。つい昨日まで、雪が積もっていたというのに、何と言う晴れがましさでしょう。
 でも、8月の終わりには、紅葉が始まります。初雪が降ることもあります。
 日本の伝統的な住宅は、冬の寒さを防ぐより、夏の蒸し暑さを和らげるよう工夫してあると聞いたことがありますが、シベリアの住宅は、もちろん寒さを防ぐためにできる限りのことをしてあります。確かに、蒸し暑くても生活はできますが、零下30度40度では、命に関わりますから、シベリアの都市はどこも、公共の暖房設備が整っています。
 つまり、個人個人が自分の家やアパートを暖房するのではなく、自治体が暖房工場でお湯を湧かして、地下深く埋めたパイプ(浅いと凍ってしまうから)で、各家庭に配送します。永久凍土帯でない限り、気温が零下40度以下でも、地下1メートル半にもなるとプラスの気温だそうです。
 クラスノヤルスク市などの道路下には2メートル以上の深さに3本のパイプが一緒にして埋めてあります。1本は、今述べた暖房用の熱湯が、あとの2本は、水道の冷たい普通の水と、台所や浴室用の熱湯が通っています。暖房用の熱湯の方は、循環して暖房工場に戻り、また熱して送りだすのだそうです。
 都市暖房はシベリアの住民にとって生活上の死活問題だけではなくの、それがストップすると生産もストップしてしまうような、戦略的にも重要問題ですから、暖房工場はしっかり運転しています。(ロシア経済が底辺にあった時は、アパートで寒さに震える住民の様子がテレビで放映されたこともありましたが。)
 自治体に支払う水道代、熱湯代、暖房代は、使用料に関わりなく、何人家族かで決まります。ですから、お風呂や、台所のお湯は使いほうだいです。メーターを全家庭に取り付けるには費用が掛かり過ぎるからでしょう。今のところ、これは、ロシアのいい点です。
 電気代の方はメーターがあって、使用料に応じて支払います。市内通話電話料の方は、最近メーターができて、住民に不評です。
 時々、12月1月の寒中に、寒気が弛んで、零下5度程度になることがあります。各家庭では暖房の調節ができないので、室内の温度を調節するには、窓(天井小窓)をあけて、暖気を空に逃がします。このエネルギー不足の折、勿体無い話です。
 ところが、冬になる前に、私のアパートの窓は、寒気を防ぐためきっちりと「目貼り」をしたので、開けるわけにもいきません。それで、できるだけ薄着をしています。それでも暑いので、時々、外へ涼みに出ています。
 どの建物でも、こんなに強力に暖房してくれるわけではありません。私のアパートのある10階建ての建物は、県庁の大物(昔の党幹部)がたくさん住んでいるので、特別に、暖房のサービスがいいのです。

 12月22日の冬至には、北緯66、33度以上の北極圏では、もう、一日中太陽が上らなくなりますが、クラスノヤルスクでは一応、顔を出します。でも、昼間でも、高くは上りません。太陽の南中高度は10度と、とても低いのであまり眩しくはありません。日光にあたっても暖かさが全く感じられないと言うのは不思議なことです。
 冬至の太陽は9時45分ぐらいに、遠く山の端から顔をだし、4時前には、遠く白樺林に沈みはじめました。つまり、太陽が南中するのは、正午ではなく1時間程遅れます。これは、東経約90度のクラスノヤルスクは、グリニッジ標準時からは6時間進んでいるはずですが、7時間進んだ時間帯に入れられているからです。ですから、東経135度の日本とは、3時間の時差があるはずなのに、実際は2時間しかありません。
 まだ、冬時間の時はいいのですが、夏時間のシーズンなどは、飛行機で合計約5時間も飛んでやっと着くような距離(約5000キロ)なのに1時間しか時差がありません。

7.レザーノフフォンドとの出会い

 こうして、クラスノヤルスク市で唯一の日本人として生活していると、日本と関係を持ちたいと言う人からの、連絡が時々あります。できる限り、それらの人たちの希望を叶えるようにしています。その人たちは、大学などを通じて私のことを知るようです。
 2000年の夏休みの前、私に電話をかけてきたレザノフ・フォンドのバヴラ氏(本職は外科医)も、その一人でした。彼は、レザノフに関するドキュメントなどをクラスノヤルスクのジャーナリスト達4人が編集した「コマンドール」と言う本を2冊と、「レザノフがナジェジダ号で世界一周したことチョコレート」と言う3段重ねのチェコレートの箱と、「レザノフ記念ヴォッカ」を一本持って、私に会いにきました。自分達は、アメリカのレザノフ研究者とは交流がある、日本の研究者とも交流したいと言うことでした。日本のレザノフ・フォンド(または研究者)にこれらの本、チョコレート、ヴォッカを贈りたいと言うのです。
 東京のユーラシア協会に、そんな方がいらしたのを思い出して、日本で連絡先を捜すことを、承知しました。でも、ハバロフクスで飛行機に乗り換えたりする長い帰国の旅を考え、ヴォッカは自分で飲んでしまい、チョコレートも美味しくいただいて、本は一冊だけ持ち帰ることにしました。ヴォッカのラベルはレザノフの肖像画や紋章、船など印刷してありましたが、お味は、普通のヴォッカでした。チョコも同じです。
 日本で、ユーラシア協会に電話しますと、大島幹雄さんと言う方を紹介されました。この方は、「コマンドール」に編集されているレザノフの「日本滞在日記」を翻訳された方でした。バヴラ氏は、日本では、あまり、レザノフのことは知られていないのではないか、まして「コマンドール」と言う本のことも知られていないのではないかと考えていたようですが、日本には江戸時代のロシアへの漂流人に関する研究が進んでいます。出版された本も少なくはありません。そのことは、それまで、私もあまり知りませんでした。
 秋に、クラスノヤルスクに戻り、さっそくバヴラ氏に連絡し、大島さんから預かってきた翻訳書を手渡しました。私のしたことに何か形があったらよいと思ったので、バヴラ氏に、大島さんへの手紙を書いてもらいました。それを、受け取った大島さんは、御自分のホームページ「デラシネ通信」に掲載して下さいました。これで一応連絡係の役は果たしたわけです。
 でも、その後も、バヴラ氏を通じて「コマンドール」の主要編集者でジャーナリストのアヴジュコフ氏と会い、日本側の提案を伝えたり、アヴジュコフ氏やバヴラ氏のロシア側の提案を大島さんに伝えたりしていました。バヴラ氏を通じて、「コマンドール」の言語面での編集者であるロシア語学のアンナ・スルニック先生(女性)とも知り合いになり、どのようにして、「日本滞在記」をレザノフの手記から印刷物までに仕上げたか、という苦労談も伺いました。スルニック先生を通じて、レザノフが日本から持ち帰ったかも知れない遺品が保管されている クラスノヤルスク郷土史博物館の館長(女性)とも知り合いました。
 レザノフは、ヴォスクレセンスカヤ寺院に葬られました。スターリンの30年代、その寺院は爆破されて、ソ連式の大コンサートホールが建てられました。レザノフのお墓のオリジナルは、行方不明になってしまったのですが、数年前、大コンサート・ホールの横に、小さな記念墓がたてられて、旅行案内書にも載っています。
 さらに、記念モニュメントを建て、レザノフ公園をつくるそうです。バヴラ氏を通じて、その記念モニュメントを作る予定の彫刻家とも知り合いました。


 ロシアは面白い国です。自然が、日本とは比較になりません。クラスノヤルスクが特にそうです。ですから、多分そんな風土で生活する人間も違うのでしょう。
 この頃、雪の積もったうっそうとした林の中を散歩するのが好きです。樹氷に被われた木々の美しいと言ったらありません。


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