月刊デラシネ通信 > ロシア > Back in the USSR/ロシア雑記帳 > 第1回

【連載】Back in the USSR

第1回 メイエルホリド粛清秘話
      −妻の誕生日に訪れた招かれざる客−

 革命直後のソ連で開花したロシアアヴァンギャルド運動の中心的存在、演出家メイエルホリドが粛清されたのは、1940年2月2日のことである。
 メイエルホリド粛清のかげで、もうひとつ陰惨な殺人が行われていたことは、あまり知られていない。彼の妻、女優ジナイーダ・ライヒが、メイエルホリドの逮捕直後に惨殺されていたのだ。
 モスクワの週刊誌「論拠と事実」3月9号に、「ジナイーダ・ライヒ−スカートをはいたハムレット」が掲載されている。彼女の惨殺の真相の一部がここで明らかになった。
 ここで抄訳紹介してみたい。


 1939年7月3日はジナイーダ・ライヒの45才の誕生日であった。いつもならたくさんの友人たちがブリューソフ通りにある自宅に集まり、夜遅くまでどんちゃん騒ぎするはずなのに、この日訪ねてくる者は誰もいなかった。ライヒにとって、ひとりぼっちで誕生日を迎えるのは、人生初めての経験であった。無理もない、2週間前メイエルホリドが逮捕されたのだ。
 しかしひとりぼっちの誕生日に、招かれざる客が訪れる。

 ドアをノックする音が聞こえた。一瞬ジナイーダは、たじろぐ。女中のリューダに、ドアのところに行くよう命じる。
 「こんにちわ、どなたに御用ですか? 奥様にですか、ジナイーダ・ニコラエブナにですか!」
 ライヒは椅子から立ち上がり、玄関に向かい、ふたりの招かれざる客に挨拶をした。ふたりとも若く、同じような灰色の服を来ていた。ライヒは応接間に案内した。
 ひとりの男が嬉しそうに微笑みながらかみつれの花束をライヒに渡した、そしてもうひとりの男は大きな封筒を手渡した。
 「これは、私たちの共通の知人から渡すように頼まれたものです」
 「たぶん、誕生日の贈り物なのではないですか」
 ふたりは謎めいた笑いを浮かべながら、こう言った。
 「手紙? メイエルホリドから?」
 うわずった声で、ライヒは尋ねた。
 「手紙ではありません。でもこの贈り物がメイエルホリドに関係することは確かです」
 ライヒは、大きな窓のところに行き、封筒を開けた。
 「1939年6月15日の全ソ演出家会議でのメイエルホリドの発言」と、ライヒは読み上げた。
 そして「このために彼は逮捕されたわけ?」とつぶやいた。
 「続けて読んで下さい」
 ふたりは声をあわせて、部屋を見回しながら、答えた。
 「演劇、これは芸術である! 芸術がなければ演劇とはいえない! モスクワの劇場に行ってみたまえ、そしてつまらない芝居を見てみればいい。どれも似たりよったりだ。
 ちょっと前までは創造的なアイディアがあったのに、いまあるものといったら、創造性を喪失した無能で陰鬱なものばかりだ。諸君は、こういう芝居がつくりたいのか? もしもそうだというのなら、諸君は恐ろしいことをしていることになる。汚い水を出そうとして、それと一緒に赤児までも流してしまっている」
 「ジナイーダ・ニコラエブナ、あなたもこ娘ではないでしょう。この発言が、野放しにできないことぐらい、おわかりでしょう。メイエルホリドには、懺悔をし、許しを請うチャンスはあったのです。劇場の閉鎖のあと、すぐに彼が逮捕されたのは、偶然ではありません。彼にはまだ行使していないチャンスが与えられました。そのために私たちはこうしてやってきたのです」
 「あなたたちは一体誰なの? 私たちはどこかで会ったことがあるの?」
 「それは重要なことではない。大事なのは私たちがあなたを助けるためにやって来たことです。間違いなく、あなたのところに捜査の手がはいるはずです。あなたや夫にダメージを与えそうな書類などを集めておいて下さい。一週間後に私たちはもう一度やってきます。そしてそれらの書類をお望みの場所に持ち運びましょう。
 それでは御機嫌よう。もう一度誕生日おめでとう」

 ふたりの若者は、実際に再びライヒとメイエルホリドの自宅に姿を現した。7月14日のことである。ライヒは息子を父の親戚の家に預け、娘を別荘へ行かせ、ひとりで客たちをもてなした。ふたりにお茶を出し、夜おそくまで書類、手紙や日記、回想メモなどを集めた。
 このあとこの部屋で何が起こったかは誰も知らない。
 翌朝屋敷番が、血だらけ(全身17か所の傷があった)のライヒを発見する。連絡を受けた医師が、治療しようとした時、ライヒは「ほっといて、私は死ぬわ」と答えたという。
 ライヒの惨劇があった1週間後、ブリューソフ通りのこの部屋に大工が来て、四つの部屋があったこの住宅を、二世帯用に改築した。そしてここに、ベリアの運転手と家族、若い女が住むようになった。

 ライヒは、詩人エセーニンの墓の近く、ワガーニコフスキイ墓地に葬られた。
 ライヒの惨殺のおよそ半年あと、銃殺されたメイエルホリドが葬られた場所は、いまだに明らかにされていない。


連載目次へ デラシネ通信 Top 次へ