月刊デラシネ通信 > サーカス&パフォーマンス > パフォーマンス > ロシアエトランゼの系譜 > 第3回
革命の嵐の中亡命の道を選んだベルチンスキイは、祖国ロシアへ戻ることを願っていた。彼が書いた帰国嘆願の手紙の訳。
ここに紹介するのは、1943年3月7日上海から、モロトフ(スターリンの政策の忠実かつ冷酷な執行者、39年から外務人民委員として、スターリン外交の責任者となる)に宛てた帰国嘆願書である。
亡命者として転々としてきたベルチンスキイが、戦争の最中あえて帰国を望む、祖国への限りない愛着、祖国のために何かしたいという思い、そして自分の歌への誇りが、この短い手紙の中につめこまれているように思う。
「祖国から離れて20年になろうとしています。亡命、これは大きなそして思い罪です。しかし懲役には限度というものもあるはずです。無期懲役の罪でさえ、ときには控えめな行動と懺悔のために、減刑されることもあります。この罪は終わり近くになって堪えがたいものになります。いま祖国が血まみれになり、それを助けることができない時、祖国から遠く離れて生きること、これほど辛いことはありません。
ソビエトの愛国者たちは、その超人的な労働力、生活、蓄えすべてを犠牲にしています。
ヴャチェスラフ・ミハイロビッチ(モロトフのこと)、どうぞお願いです。私にまだ十分に残っている自分の力を犠牲することを許して下さい。必要であれば、私の生活を祖国のために犠牲したいのです。
私はアーティストです。50を越えています。でも私にはまだ十分に力があります。私の作品はまだまだ多くのことを与えることができます。かつて私の歌が頽廃的な傾向を持っていると非難されたことがあります。しかし私はいつも自分の時代の鏡であり、マイクであっただけなのです。もし私の歌が頽廃的だというのなら、それは私の罪ではないのです。革命前の頽廃し、澱み、歪んだ時代が悪かったのです。私の歌もいまはちがったものになっていますし・・・
どうぞ私を帰国させて下さい。私は、ソビエト市民なのです・・・
上海にて 1943年3月7日」
「ロシアエトランゼの系譜」第1回にベルチンスキイの写真を追加しました。(2001.05.05)
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