月刊デラシネ通信 > サーカス&パフォーマンス > パフォーマンス > ロシアエトランゼの系譜 > 第4回
「知らざれるハルビン」という本に紹介されたハルビンでのベルチンスキイの公演模様から。
ヨーロッパ、アメリカと亡命者として世界を彷徨っていたベルチンスキイが、祖国ソ連に戻るまえにたどり着いたところ、それは中国の国際都市上海であった。前回紹介したようにこの街からベルチンスキイは、外務大臣モロトフに宛てて、帰国嘆願書を出している。
1930年代の上海。中国という眠れる大国を食いつくそうと、それぞれ思惑をいだきながら、世界中からコスモポリタンたちが群がり、まさに魔都と化していた。阿片、酒、ジャズ、陰謀、スパイ、欲望、密輸など、なんでもありの街だった。
中国大陸のなかで、もうひとつコスモポリタンたちが群がる街があった。ハルビンである。
「幻を追った男」神彰も青春時代を過ごしたこの街には、革命ソ連を逃れてきたロシア人たちと、「ハルビン学院」が象徴するような日本から来たロシアかぶれの日本人が、混じり合いながら、生きていた不思議な街でもあった。
この街に亡命ロシアの象徴ともいえるベルチンスキイがやって来たのは、1936年のことである。
エレーナ・タスキナが書いた『知らざれるハルビン』という、ハルビンで青春時代を送った女性が書いた回想録の中に、この時の思い出と、ベルチンスキイという歌手へのハルビンに住むロシア人の思いが綴られている。
今回は、これを紹介したい。
「ハルビンっ子たちの中で、特に熱狂を呼び起こしたのは、すでに人気者になっていたアーティストたちの公演だった。1936年にここで公演したベルチンスキイがそうだった。
ベルチンスキイが、ロシアエストラーダ(ヴァラエティーショー)の歴史の中で、特にユニークな現象であったことは、みんなが知っていた。彼のアーティストとしての運命そのものが、ユニークだった。彼は第一次世界大戦前にすでにロシアで人気者になっていた。しかし彼の栄光のピークは、亡命時代にやってきた。
ベルチンスキイが、歌手生活をスタートした頃、ピエロの衣装をまとい、気分だけで歌っていた悲しげな歌は、異国を彷徨うなかで、また違うニュアンスで歌われることになった。悲しみに満ちた彼の作品の中で、稼ぎを求めるボヘミアンたちの前にある非情な現実、永遠の放浪、故国へのどうしようもない愛着が、ぶつかりあうようになったのだ。彼がつくった多くの作品のなかに、この傾向を見出すことができる。
彼自身、回想録のなかでこんな風に書いていた。
「遠い国々で私が見た、シュロの樹や、日の出や日没、すべてのエキゾチックなもの、私が感動したものすべてを、故国での憂鬱で、雨の降る、涙に濡れたたった一日と交換したいのです」
外国でベルチンスキイは、洗練された詩人となった。聴衆に胸に秘められた感情を呼び覚ます吟遊詩人となった。ハルビンっ子たちの前でも、彼はそうふるまっていた。
ベルチンスキイの歌声は、たくさんのレコードにおさめられ、ハルビンの街で響きわたることになった。しかしいま思うと、気分的には彼は、私の両親の世代に近かったかもしれない」
連載目次へ | 前へ | 次へ |