玉井喜作研究への誘い

玉井が編集発行していた『東亜』の目次が翻訳された。これを読み、今後の玉井喜作研究の可能性を考える。

玉井と若宮丸漂流民
明石工作のなかでの玉井の役割
日露戦争と玉井の活動
アレクサンドル・シーボルトとの関係
ドイツからのアプローチ

玉井と若宮丸漂流民

 最近また玉井のことが気になり出したのは、ひとつに去年たちあげた『石巻若宮丸漂流民の会』と関係がある。若宮丸漂流民については、まだ解明されていない謎がたくさんある。その鍵を解く可能性を持っているのが、玉井ではないかという気がしている。
 玉井はドイツ語で書かれた『シベリア隊商紀行』という本をベルリンで出版している(1898年)が、これに「百年前日本人シベリア経由世界周遊紀行」と題された若宮丸の漂流記を付録につけている。これは若宮丸漂流記をいちはやく欧州に紹介したもので、この意味でもこの本の意義は大きい。これについては、拙著『シベリア漂流』のなかで、若宮丸漂流記を初めて日本で活字で紹介した『世界周航実記』と、クルーゼンシュタインの『世界一周紀行』を参考にして書いたものではないかと、推論しているのだが、玉井がいつ、どこで、若宮丸漂流民のことを知ったのかについては、はっきりしたことがわからないでいる。
 玉井と若宮丸漂流民を結びつけたもの、それはイルクーツクではないかと思っている。若宮丸漂流民一行14名はイルクーツクに連れられ、日本に帰国した4名以外は、ここで暮らすことになる。玉井は漂流民たちがここに住みついてから、およそ百年後にイルクーツクにたどり着いている。もちろん漂流民たちはとっくの前に亡くなっているのだが、なにかをきっかけに彼らのことをこの町で知ったという可能性はある。
 そのひとつの可能性が、吉郎次の墓ではないかと思っている。玉井がベルリン時代に交流をした小宮判事が、帰国の途中イルクーツクに寄って、吉郎次の墓を発見しているのは単なる偶然ではないと思えてならない。
 小宮を墓に案内したのは、ムルケという、これもまた玉井がイルクーツク時代に世話になったドイツ人である。もしかしたら玉井が小宮よりも前に、イルクーツクに滞在中にこの墓を見ているかもしれないのだ。
 若宮丸漂流民と玉井をつないだものを見つけ出せないだろうかというのが、私にとっての一番の課題である。今回泉健氏が訳した『東亜』の全目次がヒントにならないかと思って、なんども読み返してみたのだが、直接的にその接点を裏付けるような目次のタイトルはなかった。だからといって『東亜』になにかこの関係をたぐりよせるような記事がまったくないということにはならない。
 どこかにヒントがあるように思えてならない。

明石工作のなかでの玉井の役割

 日露戦争前に、ロシア・ヨーロッパを舞台に陸軍大佐明石元二郎が諜報活動を行っていたことは有名である。ベルリンで玉井はこの諜報活動に協力したことになっているのだが、具体的になにをしたのかについてはなにもわかっていない。玉井の妻の証言で、明石がよく玉井の家に出入りしたこと、玉井が死んだときに明石が弔辞をのべたことで、その関係が語られているわけだが、『東亜』を読むことでその関係を裏付けるものがでてくるかもしれない。
 『東亜』の目次を読んでいくと、シベリアに関する記事がたくさんあることに気づく。初期のころは、「シベリア」とか「ロシアのアジア地域」といった連載ものがあるし、もうひとつ気になるのは、玉井がシベリア横断中にトムスクで世話になった、アレクサンダー・マグヌッソン署名の記事がいくつかあることだ。
 「『シベリア』という名称の由来1・2」(1900年1・2月号)
 「シベリアにおける『黄色人種』(1900年7月号)
 「トムスクからベルリンへの旅』(1900年8月号)
 これは玉井がシベリアで交流した人々と、ドイツに来てからも連絡をとりあっていたことを裏付けている。こうしたシベリアでのネットワークが、明石工作に役立ったということは十分考えられる。明石はロシアで革命を起こすためにさまざまな工作をするわけだが、もうひとつの大きな課題は、ロシアと戦争となった時に、極東までロシアが軍隊や武器をどう輸送するかを調べることであった。この時玉井がつくりあげたシベリアネットワークが、大きな役割を果たしていたのではないか、そんな気がする。

日露戦争と玉井の活動

 日露戦争勃発とともに、ベルリンにいた玉井は、シベリアから逃げ出してきた日本人たちの救済活動、遺族たちへの赤十字を通じた募金活動を大々的に展開していく。『東亜』でも、毎月こうしたアピール文がだされている。玉井はこの日露戦争をどのように見ていたのか、それは『東亜』のこの時期の記事を集中的に読むことで、わかると思う。
 ロシアという国に対して、玉井は必ずしも敵国という目だけで見ていたのではないと思う。ウラジオストックで官憲によって牢獄にぶちこまれたり、ロシアに対する恨みもあったことはあっただろうが、シベリアを旅するなかで、ロシア人たちの温情に触れながら、しかもなんども窮地から救ってもらっている。彼がこの戦争をどう見ていたか、こうしたことも『東亜』を読んでいくなかでわかるのではないだろうか。

アレクサンドル・シーボルトとの関係

 これは『シベリア漂流』でも言及したことであるが、シーボルト事件でおなじみのフランツ・フォン・シーボルトの長男アレクサンドル・シーボルトが、連載ものも含めて、かなり数の論文、回想録を『東亜』のために執筆している。実際に玉井とアクレサンドルがどのような交際をしていたのかは、わからないが、彼が『東亜』で果たした役割は大きい。アレクサンドルの著では幕末父とともに日本を訪れたときの回想録『シーボルト最後の日本旅行』が平凡社の東洋文庫のなかに入っているが、『東亜』で連載されている回想録のなかには、幕末から今度は明治にはいってからの話も含まれているようで、もしかしたら翻訳されるに値するものかもしれない。
 さらに日本という国の国情なり、特色なども紹介している記事と思わせるようなものもある。シーボルトを研究している人や維新研究という方面からだけでなく、別のアプローチも可能かもしれない。

ドイツからのアプローチ

 玉井という男に私が興味をもったのは、シベリアを無銭旅行しながら横断したその無茶苦茶さにある。それが『シベリア漂流』を書かせる動機になったわけだが、やはりドイツ時代でのジャーナリストとしての活躍ぶりについても本格的に知りたくなってきている。今回の泉健氏の『東亜』全目次翻訳を見ていくと、ベルリン時代の玉井喜作についても突っ込んで調べる価値があることを痛感している。しかしこの時その研究対象がドイツ語で書かれたものであることから、私にはとても手をだせないことも事実である。やはりドイツ語ができる人たちのなかで、玉井研究が進められていくべきであろう。
 いつもドイツ語でお世話になっている大塚仁子さんが、今度所属している「日本ドイツ文化協会・フォールムZ(若手有志の会)」の会報で玉井喜作のことを紹介してくれることになった。こうしたことを手始めに、ドイツ語をやっているかたのなかから、玉井喜作のこと、特に『東亜』を舞台としたジャーナリストとしての活動を研究してくれる人が出てきてくれたら、とてもうれしい。
 玉井喜作はまだまだ調べる価値がある男であることは間違いない。


さっそくこの呼びかけに答えて、大塚さんが「玉井喜作と『東亜』」と題した文を発表しました。


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