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特 集
レザーノフ復権に向けて

 日露交流史研究の第一人者中村喜和先生が、「レザーノフ復権」というエッセイを発表したことは、「デラシネ通信」でも紹介したが、去年から今年にかけて、目に見えないところでレザーノフ復権に向けて、いろいろな動きがまきおこっている。
 ここでそれを整理してみたい。

 ひとつは、レザーノフが半年あまり滞在していた長崎での動きである。
 長崎日ロ協会の松竹秀雄さんのことを知ったのは、偶然だった。長崎とロシアというテーマで原稿を書く必要があり、ネットを検索している時に、松竹さんのインタビューが掲載されていた西日本新聞の記事にヒットした。ご自分の故郷長崎の稲佐をめぐる日露関係のことを丹念に追いかけているという話を読んで、もしかしたらレザーノフのことも気になっているのではないかと思い、また図々しく手紙を書いてみた。
 すぐにていねいな返事をいただいたのだが、驚いたことに松竹さんは、レザーノフの『日本滞在日記』の訳注や、レザーノフをめぐるエッセイでも触れた、梅ケ崎にある「気球飛揚の地」の碑が立っている場所が、間違えていることを実証し、執拗に碑を建てた長崎市に抗議し、ついにはその場所を正しいところに移転させていたのだ。移動させた距離は300メートルというが、たかが300メートルというなかれ、地道な調査と、それを粘り強い交渉で実現させた行動力は、「郷土の正しい歴史を残したい」という松竹さんの執念が実った結果であり、パワーを感じさせる感動的な話といえる。
 この顛末については日本経済新聞2000年12月26日の文化欄に詳しく紹介されている。
 そしてさらに松竹さんは「文化元年(1804)レザーノフ使節上陸の梅ケ崎ロシア仮館跡」という案内板までつくっている。これは市ではなく、長崎日ロ協会という民間団体がつくったことに大きな意義がある。さまざまなレザーノフ来航に関する文献に収められている図版や、東京大学史料編纂所所蔵のレザーノフ来航絵巻などもおりまぜた、素晴らしい案内板である。
 長崎市民や長崎を訪れる観光客に、日本史の中であまり紹介されていない、ロシアと長崎、ロシアと日本の最初の接触を、知らしめるという意味での功績は大きい。
 レザーノフ来航という事実を、長崎に住む松竹さんが広く紹介しようとなさっていることに意を強くしている。
 レザーノフ来航という歴史的な事実の全貌は、まだ解明されていない。しかし「デラシネ通信」でも紹介している当時の長崎通詞の日記など、未公開の史料が埋もれたままな可能性がある。
 私が気になっているのは、レザーノフが通詞たちを窓口に渡したさまざまな品々の行方である。彼の日記を読むと、日本を去る直前にロシア人警護にあたった人々のために、レザーノフは、記念品として白い扇子になにか書き残したものを渡している。その数もひとつやふたつではない、かなりの数だと思われる。そのひとつでも見つかると、またちがった視点が生まれてくるかもしれない。
 それとレザーノフと幕府の間の交渉の窓口となった通詞たちの記録がまだほかに残っていることも考えられる。

 もうひとつの「レザーノフ復権」の動きは、レザーノフ終焉の地シベリアのクラスノヤールスクで起こっている。
 もともと私が訳したレザーノフの『日本滞在日記』は、クラスノヤールスクで出版された『コマンドール』という本に収められたものである。この本を編集した学者を中心に、レザーノフ基金が設立され、レザーノフ博物館をつくる準備をしている。
 この基金の存在を私に教えてくれたのは、クラスノヤールスクに住む日本人女性金倉孝子さんである。なんどかメールや手紙のやりとりをしながら、金倉さんを窓口にレザーノフ基金と連絡をとりあっている。
 日本に残されているレザーノフ来航資料(おもに図版が中心)を送ったりもした。さらには中村先生の「レザーノフ復権」が掲載されているナウカ社出版の『窓』も送っている。金倉さんはこの中村先生のエッセイをロシア語に翻訳し、レザーノフ基金に提供していた。
 クラスノヤールスクの地元新聞に、「『ナジェジダ号』の帆のもとで−日いずる国へのロシア使節の『日本滞在日記』がついに公刊」という、レザーノフ基金の主要メンバーのひとりユーリイ・アフデューコフの大きな記事が、掲載された。
 これは私が翻訳したレザーノフの『日本滞在日記』が岩波文庫で出版されたこと、そして金倉さんが訳した中村先生の「レザーノフ復権」を引用して(無断引用なのが問題なのだが・・)書かれたものだ。
 レザーノフ基金は、いま「新・コマンドール」の本を出版したいという計画を持っている。その中には、日本でのレザーノフ来航に関する資料も入れたい意向もあるようだ。


 レザーノフ復権に関して、ようやく機が熟しているような気がしてならない。
 何故レザーノフ復権をいまあえて問題にしなければならないのか、それは彼が初めて日本と接触を求めてきたロシア人であり、その時の真意を曲説することで、歪んだ日露関係の原型が提示されていることがあまりにも多いからである。
 彼は日本を理解しようとしていた、真摯な付き合いを申し出ていたのである。そこだけは多くの人たちに知ってもらいたいと思う。
 6月23日に市民学会「日本とロシア 歴史・交流・共生」が開催される。そのなかの一セッション「江戸期の日露関係」に私も、コメンテイターのひとりとして発言することになった。
 テーマは「レザーノフ復権」にした。
 長崎とクラスノヤールスクの動きを中心に、いまレザーノフ来航の意義をもう一度捉え直したいと思っている。

 日本とロシアの交流、庶民レベルで見直すと、いくらでも可能性があるように思えてならない。そのひとつのヒントがレザーノフを復権させることではないかと思っている。


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