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【連載】クラウン断章

第4回 幕間の詩人たち

ステージにクラウンを出して−クラウンたちは幕間をつなぐ詩人でもあった


 『センド・イン・ザ・クラウンズ』という、美しいバラードがある。あるアメリカのクラウン(道化師)がこの歌を聞くといつも涙がでてしようがないといっていたが、確かに静かに胸にせまるものがある曲だ。日本でも三十年以上前に『青春の光と影』をヒットさせたジュディ・コリンズが歌っている。歌詞の内容を考えれば、『ステージにクラウンを出して』という日本訳になるかもしれない。三番まである歌詞の大意はこんな風になるだろうか。

 サーカスでペアを組み、空中アクロバットを演じていたカップルがいた。演技の最中、女性のほうが、誤って手をすべらせ落下する。彼女は、薄れていく意識のなかで、自分の過去や恋人のことをふりかえる。でも大事なことは、ステージに穴をあけないこと。彼女は哀しく誰かによびかける。『クラウンはどこ? 早くクラウンたちを舞台に呼んできて!』

 サーカスで働くクラウンたちがこの歌に、あるいとおしさを感じるのは、ここでクラウンの使命が切なく歌われているからなのだろう。

 クラウンの使命−それは人を笑わせ、楽しませることにあるのは勿論なのだが、もうひとつ忘れてはいけないのは、幕間の進行役という仕事である。次々にテンポ良く展開するサーカス、道具の準備などで時間をとっていたらお客は退屈してしまう。この時ステージに現れ、客の関心をひくことによって番組の間にできた隙間をうめること、これがクラウンの最も大事な仕事だといっていいかもしれない。

 ボリショイサーカスでおなじみのソ連では、クラウンのことを『カビョール』という名で呼んでいる。『カビョール』とは、ロシア語でカーペット、絨毯のことである。何故カーペットがクラウンなってしまうのか。
 サーカスの円い舞台は、リンクまたはアリーナと呼ばれているが、このリンクは砂やおがくずなどで作られていることが多い。もともと曲馬ショーから始まったサーカスの名残りともいえるのだが、動物ショーなどで、動物たちが駆け回ったりするのには、木製やコンクリートなどの舞台では危険であり、こうしたリンクは不可欠となる。カーペットは、こうした動物ショーが演じられていないとき、つまり人間技が演じられているときに、このリンクに敷きつめられることになる。見栄えということもあるし、安全面からいっても、カーペットはサーカスでは重要な舞台道具のひとつといえよう。動物芸や人間技のモンタージュからなるサーカスのショーの中で、このカーペットの出し入れは、ひとつのショーで何回となく行われる。この時できる時間の空白をうめるのにクラウンが活躍したことから、クラウンが「カビョール」=カーペットと言われるようになったのだ。
 ロシアでクラウンがカビョールとよばれるようなったのは、一八七○年代のことだったというが、クラウンがその時から番組のあいだをつなぐようになったというわけではない。サーカスが誕生した時から、すでにクラウンは、幕間の進行役として活躍していた。

 世界最初のサーカスがオープンしたのは、いまから二百年以上も前、一七七○年のことであった。元軍人のアストレイが、ロンドン郊外につくった「フィリップ・アストレイ乗馬学校」は、曲馬ショーだけでなく、アクロバットや綱渡りなど、当時人気のあったミュージックホールの芸人たちを雇い、総合的なエンターテイメントをつくりあげたことで、大評判を呼んだ。アストレイの成功は、いままでバラバラに演じられたものをひとつのプログラムとして構成したところにあったが、彼が苦心したのは、どうやって番組と番組のつなぐかということであった。アストレイは曲馬ショーのあとに、ポーターとフォーチュネリーというふたりのヴォードビリアン(寄席芸人)を雇い、下手な曲乗りのパロディを演じさせた。「ビリー・ボタン」という名付けられたこのコミックショーは、大変な好評を博した。そしてこのあとヨーロッパ各地に次々に生まれたサーカスで、同じようなパロディーはエンエンと演じられるようになったという。

 このようにクラウンは、サーカスにとってなくてはならないキャラクターとして生まれ、ジャン・バチスト・オリオール、トム・ベーリング、フラッテリーニ兄弟、エメット・ケリー、カランダーシュなどの天才たちによって、さらにその芸域をひろげることになった。音楽をつかったミュージカル・クラウン、ボケと突っ込みという二面性を仮面化した「白いクラウン」と「オーギュスト」など、さまざまなクラウンが生まれていくことになる。クラウン芸が多種多彩になっていくなかで、変わらなかったこと、それはいつでもクラウンが、幕間の進行役であったことだ。

 しかし新しい息吹とともに、クラウン芸のなかで、いま大きな地殻変動がおきているようだ。カナダの「シルク・ド・ソレイユ」、ドイツの「ロンカリ・サーカス」、フランスの「アルカオス」という新しいサーカスがいま人気を集めている。人気の秘密、それはこうしたサーカス団が、ひとつひとつの芸をつなぐ演出力、アートディレクションによってサーカスを、よりファッショナブルなスペクタクルにしたことである。そして注目すべきは、いままでのサーカスでつなぎの役を果たしていたクラウンたちが、幕間から退場したことだ。幕間を演出するのは、クラウンの芸ではなく、音楽や光であったり、あるいはパントマイムであったりする。ではクラウンはどこにいったのか? クラウンは、サーカスのメイン・ヒーローになったのだ。「ロンカリ・サーカス」で、トリをとり、全体の番組の柱の役を果たしていたのは、ペーター・シューブというクラウンであった。彼は、寸劇を演じるというのではなく、前半と後半たっぷり一五分ぐらいの時間をとり、時には客も巻き込みながら、場内を爆笑の渦にしていた。「シルク・ド・ソレイユ」でも指揮者のパロディーを演じたクラウンが、大変素晴らしかったということらしいし、クラウンをサーカスショーのメインにという流れは、いま確かに大きな流れになっているようだ。

 幕間の詩人として、番組と番組の隙間をうめていくなかで、クラウンたちは、ひとつの芸だけではなく、多彩なテクニックを磨いていく必要に迫られた。こうした芸を幕間に演じるだけでなく、自分なりに構成し、ひとつのショーとして見せようという道を歩いているクラウンたちもいる。
 一九九〇年日本でも公演をし、クラウン芸を存分に見せてくれたスイスのクラウン、ディミトリーは、幕間寸劇だったクラウン芸を、劇場用に、綿密に構成したひとつドラマへと変えたといえよう。日本でも上演された「ポーター」という出し物は、アクロバット、曲芸、さらには楽器の曲弾きなどが見事にミックスされた、素晴らしいパフォーマンスであった。また同年秋、日本で初公演、大きな話題を呼んだソ連のクラウン劇団「ミミクリーチ」は、平均年令二四才という若いグループであったが、ダイナミックな動きと意表をつく構成で、いままで我々が見たことのない斬新なお笑いの世界を見せてくれた。(今年の秋再来日するというから、お見逃しなく)

 幕間の詩人であったクラウンたちは、いま新しいドラマを求め、サーカスの中で、さらにはジャンルを越え、いま新しい旅を始めようとしている。


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