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【連載】サーカス漂流

第2回 サーカス行脚の旅

 サーカスが人生の大きな一部になるのは、サーカスが旅とつながっていたからだと思う。サーカスの人々と旅することから始まったこの仕事なのだが、サーカスを追いかける旅をすることにより、舞台は日本から世界へと広がっていく。
 1988年7月、9年間世話になった中央放送エージェンシーを退職し、千葉県市川市にオープンしたサーカスレストランのプロデューサーの仕事をすることになった。ここで働く芸人を探しに、ヨーロッパを2週間旅することになった。スイス、フランス、イギリス、ドイツと、サーカスを追い求める旅は、国内をサーカス団と一緒に旅するのとはまたちがう楽しさがあった。前の会社では、ボリショイサーカスや東欧のサーカスと仕事することが多く、ソ連東欧のサーカスについてはかなり詳しくなっていたが、ヨーロッパのサーカスについてはほとんど知らなかった。スイスのクニーサーカスやモンティ・サーカス、ドイツのロンカリサーカス、フランスの国立サーカス学校、アニー・フラテリーニサーカス学校などヨーロッパを代表するサーカスや学校を実際に見ることにより、サーカスを見る目がひろがった。
 この旅がきっかけとなり、毎年のようにサーカスを求めて、各国を歩きまわることになる。ロシアには十回以上足を運ぶことになったし、アメリカ、ドイツ、フランス、ハンガリー、チェコ、デンマーク、オーストリア、ウクライナ、ベラルーシなど欧米の国々のほかに、最近ではモンゴル、カザフスタン、ウズベキスタン、中国、韓国といったアジア諸国まで足を伸ばしている。目的は、いいサーカスと会うため、いい芸人と会うため、そして「ツィルカッチ」(ロシア語でサーカス野郎という意味)たちと会うためだった。
 いまでは芸人たちからビデオやDVDを送ってもらうのは当たり前だし、インターネットもあり、世界のサーカス情報を瞬時に知ることもできるが、最初にヨーロッパを旅した時は、現地に行かなければ何もわからなかった。だからサーカス行脚の旅も、いきあたりばったりになってしまう。ひとつのサーカスを訪ね、そこで得た情報を手がかりに、次のサーカスを探しに、旅を続ける、そんなあてもない旅になった。そんな旅だから、どうしても珍道中になってしまうし、失敗も多かった。だからこそこれだと思う芸人やサーカスに会えた時の喜びは格別だった。
 旅の思い出は、失敗談も含めたくさんがあるのだが、なによりもの喜びは、サーカスをめぐる人々の輪がひろがっていったことだった。旅を重ねるたびに、この輪が大きくひろがっていく。日本で一緒に仕事をした芸人と、異国の地で再会し、そこで友だちを紹介してもらう、そんな風にして広がったネットワークが私の大きな財産になっている。サーカスをなりわいとし、サーカスを愛する「ツィルカッチ」たちの輪は、旅を続けるなかで、初めて生まれてくるのだと思う。
 そんな旅の原点となったのが、1988年のヨーロッパへの旅だった。ここで出会い、日本に呼んできたふたりのフランス芸人、クリストフとジュリスのふたりは、その後もうひとりの芸人ロロを加えて、「レ・クザン」という3人だけのサーカスグループをつくり、フランスを代表する一座として世界を舞台に活躍するようになった。有名になった「レ・クザン」を二回日本に招聘することができたのは、この時の出会いがあったからだ。知り合ってから15年近くになるが、いまでも最初に出会った時と同じように、会うたびにサーカスを肴に熱く語り合っている。彼らもまた「ツィルカッチ」であった。
 この旅で、私はもうひとり大事な人と出会うことになる。彼は、私の人生にとって重要な意味をもつクラウン(道化師)の世界を教えてくれた。


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