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【連載】サーカス漂流

第3回 素晴らしきクラウンの世界

 9年間務めた会社を辞めることになったのは、サーカスレストランのプロデューサーにならないかと誘われたからなのだが、その前から大きなサーカスではなく、もっと小さくても自分のやりたいサーカスを呼びたいと思うようになっていた。こんな時にやりたいことをやればいいじゃないかと、後押ししてくれたのが、当時サーカス文化の会事務局長で、現在私が務めている会社、アフタークラウディカンパニー社長の西田敬一だった。サーカスレストランの仕事も西田が紹介してくれた。
 この話がくる前年の1987年夏、銀座セゾン劇場で上演された『道化の世界』を見たことが、さらにサーカスの奥深い世界に足を踏みこませることになった。
 中央放送エージェンシーの仕事の関係で知り合った演劇評論家の故尾崎宏次先生に、クラウン(道化師)のことを研究するといいぞと言われたのがきっかけで、クラウンの文献を読みはじめたときだった。『道化の世界』の出演者のひとりディミトリーは、「キング・オブ・クラウン」と呼ばれたクラウンの第一人者。この芸が生で見られるというので、心をときめかせながら劇場にいった。しかし彼はこの時『ポーター』という作品の前半しか演じなかったのだ。期待が大きかっただけに、がっかりしてしまった。この公演のあと、一緒に見に行った西田と共に、居酒屋でディミトリーと話す機会があった。飲んだ勢いで彼に「『ポーター』ではいろんな楽器を演奏するのではなかったのですか」と聞いてみた。「主催者の意向で前半しか見せることができなかったのです。後半にいろんな楽器を演奏するのですよ、自分も『ポーター』を全編上演できなかったことが残念です」と答えた彼に、即座に「次は私たちが呼びますから、是非全部を見せにきて下さい」と宣言してしまったのだ。ディミトリーは、ちょっとびっくりしたようだが、隣に座っていた奥さんのグンダが、小さな名刺を渡してくれた。絶対にディミトリーを日本に呼んで『ポーター』全編をやってもらおう、帰り道、私はすっかり興奮していた。
 サーカスレストランで働く芸人を探しにヨーロッパにいくことになったとき、西田はディミトリーに会いに行くよう助言してくれた。あの夜彼は、スイスのベルシオという小さな村で演劇学校を主宰し、劇団も持っていると話していた。そこの生徒たちを紹介してもらうのがいいというのだ。幸いにも私には、彼の名刺があった。
 1988年の旅で、最初に訪ねたのは、ディミトリーがいるベルシオだった。ジュネーブからミラノ、そしてドモエッセラという駅で乗り換え、小さな電車に揺られイタリア国境を越え、山村にある小さな村ベルシオにたどりついた。ディミトリーもグンダも快く私たちを迎え入れ、自分の生徒を何人か紹介してくれた。もちろんこれも大きな目的ではあったが、大事なことは、あの時約束したディミトリー日本公演を実現する足がかりをつくることだった。ベルシオまで訪ねていったことで、ディミトリーも少しずつ私たちのことを信用してくれるようになっていた。そして2年後の1990年3月私と西田は、ディミトリーの『ポーター』全編を、『ディミトリーのクラウンパフォーマンス』と題して、東京と大阪で公演することになる。セゾン劇場で見た時とはくらべものにならない素晴らしい舞台であった。ディミトリーは、観客を圧倒したのである。アクロバット、ジャグリング、そしてセゾン劇場では見せなかった、さまざまな楽器をつかったパフォーマンスも素晴らしかったが、なによりも驚かされたのは、彼はそれを笑いに昇華させていたことだった。こんな豊かな笑いの世界があったのだ。見終わったお客さんが微笑を浮かべ幸せそうに劇場をあとにするのをみて、これだと思った。これこそまさしくクラウン芸だった。笑うことは爽快なことである、でもそれがひとときのものではなく、ゆっくりと心を潤してくれることをディミトリーは教えてくれたのだ。クラウンという素晴らしい世界があることを紹介していこう。サーカスと一緒に、もうひとつ、クラウンという世界が、私の心に火を灯すことになった。


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