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【連載】サーカス漂流

第4回 『サーカスと革命』

 ディミトリーの来日公演を実現した1990年の4月、私は平凡社から『サーカスと革命』という本を出している。私にとっては、最初の本である。あの時あのひとことがなかったら、この本は生まれなかっただろう。

 呼び屋の仕事をはじめて5年ぐらい経った頃だった。会社で公演するプログラムに原稿を書いてもらうため、尾崎宏次先生の家を訪ねることになった。いろいろ話しをしているうちに、私がロシア演劇を勉強していたことを知った先生は、「クラウンのことをちゃんと研究する人がいないんだよなあ、君やってみないか」と言いだしたのだ。尾崎先生は、演劇評論家として高名であるが、『日本のサーカス』という本も出していたし、サーカス文化の会の代表理事もつとめる、日本で数少ないサーカス通のひとりだった。『日本のサーカス』のあとがきで、チェーホフやゴーリキイらと同じ芸術家墓地に葬られているドゥーロフというロシアの有名なクラウンの墓を見たことが、この本を書くきっかけとなったと書いておられる。ロシアのクラウンが、先生をサーカスに導いたことにちょっと驚いたのだが、さらにこの時、意外なことを教えてくれた。「僕に、サーカスをやれって言ったのは、林達夫なんだよ」と。大学時代に読んだ本で一番刺激を受けたのは、林達夫と久野収の対談集『思想のドラマトゥルギー』(平凡社)だった。その林達夫が、尾崎さんにサーカス、そしてクラウンをやるように託したのだ。たぶんこの時から、仕事だけでなく、サーカスやクラウンのことを本気で調べてみようという気になったのだと思う。
 サーカスやクラウンを調べ始めたころ、ロシア語専門書店で、革命時代のソ連で活躍したクラウンの伝記『ビタリー・ラザレンコ』という本を見つけ、辞書をひきながら貪るように読むことになる。なによりもおもしろかったのは、ラザレンコが、私が大学時代に研究対象にしていたロシアアヴンャギャルド芸術家たちと同時代を生きた道化師であり、しかもマヤコフスキイ、メイエルホリドといった人たちと一緒に活動をしていたことだった。サーカスという道を選びながら、ロシアアヴンャギャルドにまだ未練をもっていた自分にとって、とても魅力的な本だった。この本を読みながら、どんどん知りたいことがでてきて、いってもたってもいられなくなり、著者のスラスキイに思い切って手紙を書いてみた。返事などあてにしていなかったのだが、一カ月後にモスクワから手紙が届く。そこには「モスクワへ来たら、全部教えよう」と書いてあった。
 1989年2月私は、一週間休みをとってモスクワに行く。ここでスラフスキイの家に通いながら、段ボールに収められた写真や古い雑誌をひっくりかえしながら、食事をするのも忘れ、ラザレンコやサーカスについて語り合った。そしてこのモスクワ滞在で、スラフスキイに教えてもらったこと、自分なりに調べたことをもとに、「ラザレンコとロシアアバンャギャルド」について、原稿を書きはじめることになる。
 この年6月、演劇関係者を集めてレニングラードへ行くことになり、尾崎先生も参加されていた。この時私は、書きためていた原稿をトランクに入れていた。ツアーが終わり、モスクワから飛行機に乗り込む前に、尾崎先生に「先生に言われ、クラウンのことをいろいろ調べてみて、ちょっと書いてみました、原稿を読んでもらえますか?」とおずおずと切り出した。「ちょうどいいや、読む本がなくなったところだ、読んでみよう」と快く原稿を受け取ってくれた。飛行機が空港を飛び立って2時間もしなかったと思う。先生が私の座席のところまでやってきて、「面白かったよ、『悲劇喜劇』という雑誌に連載しよう、原稿は預かっておくよ」と言ってくれたのだ。まさかその場で、自分の書いたものが雑誌に連載されることが決まるなど、夢にも思わなかった。
 こうして『悲劇喜劇』という演劇雑誌に3回にわたって、私の原稿は連載され、それが平凡社の編集者の目にとまり、『サーカスと革命』という本になったのである。
 尾崎宏次先生と、スラフスキイというふたりの人に出会わなければ、この本は生まれなかった。
 この本のあとがきで、私はこう書いている。
「この本を書きながら、わたしはいつのまにか、サーカスとともに生きていこうというひとつの決断をしてしまったようである。いままで文化史のなかで、ともすればエピソードとしてしかとりあげられなかったサーカスを軸に、文化を語っていきたいし、その視点から自分の手でサーカスをプロデュースしていきたいと思っている」
 確かにこの本を出したことで、私のサーカスの世界はまた大きなひろがりをもつことになった。


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