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クマのコスモポリタン紀行

第13回 月潟村紀行――角兵衛兵獅子の故郷を訪ねる

 2009年9月19日。9時、新潟駅万代口駅前のバス停から出る月潟行きのバスに乗る。今日から5連休というシルバーウィークの最初の日。しかも新潟はまもなく「ときめき国体」がはじまるということで駅前付近でイベントが開催されるらしく、朝早くからたくさんの人が繰り出していた。この賑わいに反し、このバス停から月潟行きのバスに乗ったのは自分を含めて、わずか3人。途中古町などの繁華街を通過していったが、結局乗車したのは7、8人だけだったのでは・・・。
 バスは新潟市郊外のバイパスを通り、途中国道8号線と別れ、中ノ口川沿いを走るようになってから、稲穂たわむ田圃の間をぬいながら、のんびり走っていく。新潟といえば、豪雪地帯といわれ辺鄙な田舎を象徴していたはずだ。ところが気のせいだろうか、窓から見える家々の佇まい、道路の状態から貧しさなど一切感じることはない、むしろ豊かさを感じてしまう。
 10時10分すぎ終点の月潟に到着。立派な図書館とケアーハウスがあるところにバス停があった。かなり田舎のイメージを描いていたので、この立派な建物にちょっとびっくり。
 地図を持たず、ガイドブックなどあろうはずもなく、リュックも新潟駅のコインロッカーに置き、まったくの手ぶらの状態。どこへ行ったらいいものか。まあ小さな村なのだろうから、歩いているうちにわかるだろうとお気楽な感じで歩き出す。それにしても静かなもんである。人の気配がほとんどない。なんとなく歩いているうちに、いきなり今回の旅の目的地のひとつ角兵衛地蔵尊にぶちあたる。

角兵衛獅子地蔵尊

角兵衛獅子地蔵尊
角兵衛獅子地蔵尊

地蔵尊の本尊

 この地蔵尊は、角兵衛獅子たちの芸道上達と巡業中の安全を祈願するための守護尊で、織豊時代(1560-1600)に、本体がつくられたと案内板に書いてあった。そんな古いもんなのか、ちょっと意外であった。毎年祭礼日の6月24日には、全国から角兵衛獅子たちの一党が集まり、ここで奉納のため芸を披露したという。小さな境内には角兵衛獅子の慰霊塔も建っていた。これはわりと最近建立されたもののようで、角兵衛獅子の故郷として月潟をアピールしようという村の人たちの心意気が込められている。

旧月潟駅
旧月潟駅

 この地蔵尊の上が、かつて新潟交通電鉄の月潟駅だったところである。新潟県庁に近い東関屋駅から月潟まで信濃川の支流中ノ口川の堤防を右岸沿いに電車は走っていた。この線路が廃止されたのは、いまから10年前の平成11年4月4日のことである。ちょうど月潟図書館では、電車が走っていたときの写真展をやっていた。電車に乗りたかったな。風情のある電車の旅ができたはずである。この旧月潟駅が、角兵衛獅子の故郷を旗印にあげるこの村の観光センターのような働きをしている。駅舎をそのまま残すばかりか、当時走っていた電車もそのまま保存している。ホームには、「越後獅子の唄」の歌詞カードや、「中の口川の風を感じながら、角兵衛獅子の里を巡る」という観光マップが置いてある。

越後獅子の唄歌碑

越後獅子の唄歌碑
越後獅子の唄歌碑

 この観光マップを手にして、散策することにした。出発点のすぐ近くに、越後獅子の唄の歌碑が建っている。美空ひばりが越後獅子に扮し、主演した『とんぼ返り道中』(1951年、斎藤寅次郎監督)で歌ったのが、この「越後獅子の唄」だったという。歌碑の脇にあるボタンを押すと西條八十作詞、万城目正作曲のこの唄が流れてくる。なかなか切ない歌詞とメロディーである。しかもここに流れているのは、当時の美空ひばりの歌声である。14歳の少女の可愛らしさがかえって哀感を誘う。「越後獅子の唄」は、こんな歌詞である。

「笛にうかれて 逆立ちすれば
山が見えます ふるさとの
わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし
ながれながれの 越後獅子

今日も今日とて 親方さんに
芸がまずいと 叱られて
撥(ばち)でぶたれて 空見あげれば
泣いているよな 昼の月 

打つや太鼓の 音さえ悲し
雁が啼く啼く 城下町
暮れて恋しい 宿屋の灯(あかり)
遠く眺めて ひと踊り

ところ変われど 変わらぬものは
人の情(なさけ)の 袖時雨(そでしぐれ)
ぬれて涙で おさらばさらば
花に消えゆく 旅の獅子」

月潟商店街

中ノ口川
中ノ口川

 このあと中ノ口川のほとりに出てみた。収穫をひかえた稲や梨をねらう雀を追い払うためなのだろう。ドカン、ドカンという空砲の音がひっきりなしに聞こえてくる。かつて角兵衛獅子たちが生まれた背景には、中ノ口川が氾濫を繰り返し、農作物がとれなくなったため、生活資を得るために子どもたちに芸を仕込んで、全国を旅させたと案内板に書いてあったが、いまの中ノ口川の流れはゆるやかなものである。遠くに見える山々、そして川の向こうに広がる田圃、これもまたのどかなものである。そして川端にコスモスの花やすすきの穂が川風に揺られているのを見ると、しみじみ秋を感じてしまう。明治21年新潟と燕間にこの川を川蒸気が往復し、それから月潟は宿場町のような賑わいをみせるようになった。この川幅30メートルほどの川を蒸気船が航行していたわけだ。
 歌碑のあるところから角兵衛獅子の里遊歩道がはじまる。かつての電車道を遊歩道にしたものだが、手入れがきちんとされている。目に留まったのは、遊歩道に植えられている木の根元に「結婚25周年を記念して」とか書かれた名前入りのプレートであった。月潟の住民の記念樹ということなのだろうが、個人の生活史を見るようであった。

月潟商店街
月潟商店街
月潟大道芸フェスティバルのポスター
月潟大道芸フェスティバルのポスター

 景色はすっかり秋なのだが歩いているうちに、今日は気温も高く、次第に汗がにじんでくる。1キロほど歩いて川の反対側にでると、そこは月潟商店街。かつてここは川を交通手段として物や人が行き交うところだったのだろう。さていまはというと、土曜日の昼下がりにもかかわらず、店のほとんどは閉店状態、人と出会うこともほとんどなく、まさにゴーストタウン状態である。昭和8年に電鉄が開通されると近くの村や遠く燕からも遊び客がくるようになり、最盛期には料亭34軒、芸者も30人いたと村誌にあると、清水邦夫は『月潟村柳書』で書いている。その面影は確かに残っている。田圃の真ん中にある農村には不釣合いな1キロ近くもあるこの商店街の長さがそれを物語っている。 ただ清水がこの地を訪れた1980年代初めも、人通りが少なかったと書いているから、こうした状態が30年近く続き、その中で人々は生活を営んできたことになる。麦わら帽子や長靴を売っているというか、置いてある開店閉業状態の店先には、3日後に行われる月潟大道芸フェスティバルのポスターが貼られてあった。その日は、この人気のない商店街にもきっとたくさんの人が押し寄せるのだろう。このゴーストタウンがその時どんな表情を見せるのか、興味がある。何カ所に架けられていたゲート看板には、角兵衛獅子の故郷と書いてあったし、畳屋さんの看板には消えかかった文字で角兵衛獅子印の畳なんてというのもあった。ともすれば児童虐待のイメージで捉えられかねない角兵衛獅子たちの故郷としているところに、この村の人々の角兵衛獅子たちへの思いがある。それも単なる観光キャンペーンなどではなく、もっと心の中にしっかりと根づいているものではないだろうか。

角兵衛獅子の故郷

 最近のことである。私がずっと追いかけていた海外で活躍したサーカスの興行師について、いろいろ資料や情報を提供してくれた縁戚の方から、この興行師について私が調べ、デラシネ通信に発表していた記事について、他の親戚からクレームがついたのでなんとかならないだろうかという相談をもちかけられた。彼に迷惑が及ぶのは心苦しかったので、この記事は読めないようにした。ただまだこんなことが続くのかと非常に悔しかった。親戚にサーカス出身者がいるということで取材を申し込んで断られたことがこれまでにも何度かある。かなりの遠縁であっても、縁戚にサーカスの人間がいるというだけで名誉を傷つけられるといって迷惑だと憤慨されたこともあった。それはなぜか。日本ではサーカスの芸人は、それだけ差別の対象であったのだ。シルクドゥソレイユやシャングリラなど、サーカスが新しいエンターテイメントとして定着しているように見えているいまでも、こんなことを言う人がいるのかと愕然としてしまい、かなり憂鬱な気持ちになった。
 角兵衛獅子といえば、まだ幼い子どもたちが街角で軽業を演じるもの。いまだに自分の縁戚にサーカスの人間がいるということを忌み嫌い、その痕跡を消そうと躍起になっている人がいるのに、街ぐるみでその角兵衛獅子を讃え、その遺産を守ろうとする人たちが、ここに息づいている。それはこの商店街を歩くだけでもわかる。何故なのだろうか、それを知りたいものだ。

角兵衛獅子資料室

 観光マップを手に、次に角兵衛獅子の資料を保存しているという月潟郷土物産資料室がある月潟農村改善センターに向かう。地図で見ると月潟小学校と月潟中学校の間にあることになっている。梨園が目につく。このあたりは梨の産地、さらには天然記念物に指定されている「類型なし」もいまでも収穫されているという。それにしても小学校と中学校の立派さ、なにより校庭の広さに驚く。うちの娘たちが通った小学校の校庭の3倍ぐらいの広さがあるのではないだろうか。商店街からちょっと離れたところに、新築の家、さらには建設中の家が目立つ。まさかここで農業をしようという人が住み着いているのではないだろう。新潟や燕で仕事をする人たちが生活の場として選んでいるということなのだろう。やはり豊かさを感じてしまう。道路がとにかく立派だ。

月潟郷土物産資料室の庭
月潟郷土物産資料室の庭
美空ひばりの蝋人形
美空ひばりの蝋人形

 商店街から15分ほど歩いたところで、角兵衛獅子の演技を描いた彫刻した像が立ち並ぶ建物にたどりつく。ここが月潟農村改善センターであった。
 敬愛するサーカス学者阿久根巖さんもここを訪ねている。いまから14年前の1995年のことである。著書『逆立ちする子供たち――角兵衛獅子の軽業を見る、聞く、読む』の前書きで、この時のことをこう書いている。

「資料室の正面のガラスケース内の壁面に並ぶ、角兵衛獅子の軽業一座なるものの、掛軸に表装された六幅の絵看板や、陳列ケースに納められた、絵ビラ、版木などを見つめていると、かつて見物人たちを沸かせたであろう曲技の姿を彷彿とさせる。この軽業絵の内容がいまだに手つかずで読み解かれていないのであるから、改めて解明に取り組む意欲と楽しさを強く感じたのである。」

 阿久根さんがここを訪ねたときの高揚感が伝わってくる。
 玄関を入ると事務所から元気よく立ち上がった女性の方に、「資料室見学ですか」と声をかけられる。靴を脱いで、スリッパに履き替えている間に資料室の照明のスイッチがつけられる。月潟のもうひとつの名産物手打鎌の展示もあるが、ほとんどは角兵衛獅子に関したもの、阿久根さんが書いていたような絵看板や興業ビラなどの資料の他に、最近の資料もいくつか展示されている。村井さんと名札をつけたおばさんが、ちょっと説明させてもらっていいですかと、まずはひばりの蝋人形のところを案内してくれた。ここを訪れる人は、まずここで写真ということなのだろう。阿久根さんはこれは見ていないはずだ。

掛軸に表装された絵看板
掛軸に表装された絵看板
資料室の展示品
資料室の展示品

 どうぞごゆっくり見学なさってくださいという言葉に甘え、じっくりと展示物を写真(デジタルカメラを忘れたというか落としたらしく携帯電話での撮影になった)をとりながら見させてもらう。中央にあるガラスケースの中には、実際につかった道具(獅子頭、太鼓、笛、胸懸など)、免許状、往来一札之書の手形書3通などが展示されている。右手の陳列ケースには、3点の絵ビラと版木、正面のガラスケースの壁面には、掛軸に表装された6幅の絵看板が並び、その左には、角兵衛獅子の衣装が飾られていた。この中で阿久根さんが興奮して見たのは、絵ビラと版木、そして絵看板であったようだ。

「この絵看板、絵ビラこそ、その軽業の大一座、獅子あがりの大人(角兵衛獅子の適齢を終えた大人)たち、若親方たちによる軽業一座、軽業芸の実態を解明する唯一の実証資料である。」

 唯一と書いているところに阿久根さんの興奮ぶりがうかがえる。そしてこの本の中で調査した絵ビラと絵看板に描かれている芸を詳細に分析、サーカス一座と言ってもいいだろう、角兵衛獅子たちによって実際にどんな演技がなされていたのかを説き明かしていく。もちろん写真で撮影してあとで分析していったとは思うが、阿久根さんのことだ。食い入るように資料を見つめていく鬼気せまる姿が蘇ってくるような気がした。『逆立ちする子供たち』では、こうした分析をもとに、さらに阿久根さんが蒐集してきたさまざまな明治、幕末の図版資料と比較しながら、角兵衛獅子の演技に迫っていくのである。まさに阿久根さんにしかできない作業である。ここを訪れ、あらためて真のサーカス学者と言っていいだろう阿久根巖の凄さを感じることになった。

現代の角兵衛獅子たち

白山神社
白山神社
練習場になっている月潟農業改善センターの緞帳幕
練習場になっている
月潟農業改善センターの緞帳幕

 村井さんの話によると、現在も30人ちかくの小中学生が、角兵衛獅子の芸能を伝承しているという。子どもたちは全員が女子で、とにかくみんな熱心だという。毎週土曜日の18時から22時まで行われる練習には、修学旅行から帰ったばかりでも顔を出して、嬉々として練習に励んでいるという。卒業してサーカスとかに行く人もいるのかと聞いてみると、卒業したらもうそれで終わりとのこと。毎年6月の第4日曜日に開催される月潟まつり(月潟地蔵尊祭)と9月23日(秋分の日)に開かれる「大道芸フェスティバル」で公演するのがメインなのだが、いまでは県外からの出演依頼も多く、よく公演しているという。
 ここで保存会の子どもたちが演じる実際の角兵衛兵獅子の演技をビデオで見ることができた。さまざまな芸を見ることができて、たいへん参考になった。びっくりしたのはバックで流れている口上とお囃子。ずいぶんと古い録音だが、おそらくこれがあったからこそ保存会でこの芸能が伝承可能になったのだろう。このお囃子がなければ、いままた生音楽で再現するというのは難しかったはずだ。ビデオに出てくるのはこれも女生徒ばかり、派手にトンボを切ったり、バク転したりということはないが、健気さとしとやかさ、可憐さがなんとも清々しく、清楚な感じを漂わせているのが目につく。

 角兵衛獅子は明治の初め頃までに一度姿を消している。それを復活させるについてはやはり反対も多かったようだ。復活に熱心な人たちの熱意がその反対を押し切り、昭和11年6月、白山神社の境内での上演をもって、正式に角兵衛獅子保存会が発足する。そして昭和34年になってようやく、当時の村長青柳良太郎が、角兵衛獅子の芸能を子どもたちに伝承したいと提案し、当時の月潟小学校江部校長の理解と協力もあって父兄・児童の了解を得ることができ、現在のような芸の伝承体制が整ったのである。月潟が角兵衛獅子の故郷となるまではこれだけの長い年月が必要だった。

 こうなると実際の現在の角兵衛獅子の実演を見たり、子どもたちがどんな思いでこの芸能をやっているのか知りたくなる。年に2回の月潟での公演を見るか、実際の練習を見るかということになるのだろう。来年の春の地蔵尊祭はなんとか見たいものである。

 時計を見たらすでに13時を回っていた。この小さな村をおよそ3時間近く徘徊したことになる。小さな秋を感じ、そして日本サーカスの源流とも言える角兵衛獅子の軽業・曲芸の伝統をいまだに守り、伝え、それをシンボルとしている村がここにある、そんなことが身に沁みてわかり、気持ちいい旅となった。
 サーカスのシルクロードを訪ねる旅には、まだ断片的にしか行けていないのだが、この旅は、その延長にあったとあらためて思う。シルクロードを経て奈良の都にやって来たサーカス芸人や眩人たち、そして朝鮮半島を経てやって来た傀儡師たちの子孫たちが道の民として、軽業、曲芸、幻戯を演じていた。ずっと時代は飛ぶが、幕末海外で一番商品価値があると認められ、最初に輸出されたのはサーカス芸人だった。この中には月潟村出身の芸人が何人かいる。
 何故この月潟という田舎の町で、サーカス芸が熟成されていったのだろう。ここはもしかしたらシルクロードから渡来したサーカスを受けとめ、日本風にアレンジして、技を開発し、海外にたくさんの芸人を送り出すひとつの拠点となっていたのではないだろうか。
 そんな妄想が帰りのバスのなかでどんどん膨らんでいった。また来るしかないだろう。


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