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クマのコスモポリタン紀行

第12回 秋田の旅

【後編】亀田――馬場為八郎を訪ねて

2008年7月8日(火)

本日の地図
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 6時目が覚める。天気予報では午前中は雨だったのだが、窓から外を見るかぎり晴れ、しかも青空が広がっている。秋田の天気は気まぐれなようだ。今日は、いよいよ秋田最後の日。今日は、男鹿線ではなく羽越線に乗り、秋田から南下し、羽後亀田駅を目指す。雨も降りそうもないので、大きな荷物に傘もしまいロッカーに預け、身軽になってから電車に乗り込んだ。今日の目的は、馬場為八郎が晩年過ごすことになった妙慶寺を訪ねることである。馬場為八郎はレザーノフが来航した時の通訳、レザーノフの『日本滞在日記』を訳していたときから気になっていた人物であった。

妙慶寺の門
亀田の町並み
妙慶寺の門
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 酒田行き9時56分発の電車に乗る。二つ目の駅をすぎたあたりから、日本海が見えてくる。昨日雨の中で海なのか空なのかわからなかったが、やっとはっきりと目にすることができた。ちょっと感動。羽後亀田駅の手前から電車は内陸へ入る。
 10時20分すぎに羽後亀田駅着。たんぼの真ん中にある駅。まわりには見事なぐらい何もない。改札のおばちゃんに、妙慶寺の場所を聞くが、亀田の町にいけばすぐわかるはずということで、町への行き方を教わる。20分ぐらい歩いたところで、町らしき家並みが見え、やがて妙慶寺まで0.6キロという道標が目に入る。これだとすぐにわかりそうだ。いい感じの町並みである。いま歩いている道はおそらくは旧街道筋だったのだろう。まもなく大きな門のお寺妙慶寺が現れる。大きなお寺であった。ここに馬場為八郎の碑があるはずである。

 馬場為八郎は、レザーノフが来日した時に応対した通詞のひとりなのだが、シーボルト事件に連座した罪で永牢を申し渡され、出羽亀田藩主岩城伊予守に預けられ、ここで生涯を終えている。レザーノフの滞在日記ではオランダ通詞たちの姿が生き生きと描かれ、これが読みどころのひとつになっている。なかでも当時小通詞だった馬場為八郎は、とりわけ魅力的に活写されている。応対にあたった通詞たちに対して不満を抱いていたレザーノフであったが、幕府の通商拒否の決定が出たあとも、幕府の秘密を打ち明け、再度日本に来航することを熱心に勧める馬場為八郎のことをかなり好意的に書いている。明るく親切に振る舞う馬場は、他の乗組員たちからも好かれていたようで、乗船していたふたりが彼のスケッチを描いている。
 この馬場為八郎が最晩年生活をした囚屋がこの妙慶寺の境内にあったのだ。そして現在はその場所に碑が建っているはずである。どこにあるのか案内板はない。さてどうしたものか、お寺の人に聞こうかとも思ったのだが、もう少しそれらしきものを探してみることにする。
 宝物殿の後ろに細い道があったので、そこを行くと、突き当たりに碑が建っていた。この碑が建立されたのは昭和28年とのこと、馬場が亀田藩の中で、愛され、親しまれ、それが代々この土地の人々に伝えられたからこそ、こうした碑が立つことになったのだろう。

馬場為八郎の碑1
馬場為八郎の碑1
馬場為八郎の碑2
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 碑文にはこう書かれている。

「和蘭大通詞馬場貞歴先生通称為八郎貞斎ト号ス 肥州長崎ノ人 資性俊敏ニシテ情誼二厚ク人ノ為二謁ツテ倦ムヲ知ラス
嚢二幕命二依リ松前二航シ対露交渉ノ重任ヲ膺リ 英艦闖入ノ事アル毎二克ク其ノ機先ヲ制シテ甲比丹ヲシテ危地ヲ脱シムル等国際紛争ノ解決二致セル先生ノ功洵二大ナリ
後年シーボルト事件二連坐シ文政十三年五月永牢申付ケラレ羽州亀田藩主岩城伊予守隆喜ニオ預ケノ身トナル
爾来岩城家ノ厚遇ヲ享ケ亀田人士ト交リ時二蘭書ヲ講ジ蘭医方ヲ授ケ家事食品二至ルマデ泰西文化ヲ我邦二伝ヘタル事蹟頗ル多シ
天保九年十月十九日七十歳ヲ以テ逝ク
法名 慈眼院貞斎日量居士
裁二有志相咨リ碑ヲ先生幽居ノ跡二建テ其ノ高風ヲ景仰セントス
なかさきの阿蘭陀通詞いくとせを住み巳びにけむこの岡の辺に  田口松圃
昭和二十九年六月二十日
   亀田郷土史会撰文
   吉田麗水榊 書」

 馬場為八郎の功績を伝えるだけでなく、永牢の身であったところ藩主の厚遇を得て亀田の人々に蘭学を伝え、さらには蘭医法まで教えていた馬場に、地元の人たちが感謝の気持ちを表しているというところに彼の人柄が偲ばれる。馬場にしてみれば華やかな長崎での生活から比べれば、この山間の小さな藩で退屈することも多く、さらには永牢という不名誉な処分を受け、気持ちは萎えることが多かったとは思うが、それでもこうしてまわりから親しまれ、大事にされたことは晩年の彼にとっては慰めとなったのではないだろうか。

 この地で亡くなったのだから、墓もあるのではなかろうかと気になり、やっぱり住職さんに聞こうと思って、玄関のベルを鳴らす。外で草を刈っていたおばちゃんが、手を横に振って、「いま病気で寝ているから」と教えてくれたので、それは諦め、持参した妙慶寺の案内資料に出ていた由利本庄市教育委員会に電話して聞いてみる。
 墓はなくて、遺物の何点かは、天鷺村の中にある歴史史料館にあるとのこと、天鷺村はここから遠くないところにあるというので、さっそくそこへ向かう。

天鷺城
天鷺城
天鷺城から見える町並み
天鷺城から見える町並み
亀田城
亀田城

 街道筋は、静かなもの、道で出会う人たちに挨拶される。5分ほど歩いたところで突き当たり、そこを右に曲がったところに、立派なお城が見えてくる。史跡保存伝承の里『天鷺村』の施設のひとつ天鷺城の天守閣であった。
 この『天鷺村』は、亀田藩の城下を現代によみがえらせたもので、武家屋敷や水車小屋、鍛冶や織物、竹細工などを実演する家があるほか、亀田藩の歴史をジオラマで展示した歴史館、売店やレストランがある天鷺城などがある。地方都市によくある無理やりつくられた観光施設ではなく、この亀田の町の歴史や文化をきちんと紹介しようという姿勢が見える。この町が育ててきた文化への自信や誇りが感じられる。

 入場料500円を払って、まずは歴史史料館へ。お目当ての馬場為八郎の遺物はすぐに見つかった。ガラス製の醤油差し、酒瓶、水差しとコップ、ギヤマンのコップと、馬場直筆の辞書のような書き物と、シーボルトの肖像画が展示されている。ガラス製品は長崎を去るときにここまで持ってきたものであろう。妙慶寺の宝物殿にも残されているということだが、そこには何があるのだろう。宝物殿を見られなかったのは残念であった。

 平日の昼下がり、ほとんど入場者はいないなかゆっくりとこの天鷺村を見てまわることができた。この天鷺の由来となっているのは、西暦800年天鷺山に居を構えていた豪族天鷺速男(あまさぎはやお)という伝説の人物にちなんだもので、彼は坂上田村麻呂と闘って破れたことになっている。昨日訪ねた八坂神社はこの坂上田村麻呂が創建したもの、東北を歩くと、東北を征圧したこの男がつきまとうことになる。
 最近東北のことを強く意識するようになっている。それは東北が背負ってきた敗北の美学に惹かれているからではないかと思っている。坂上田村麻呂に最後まで戦いを挑んだアテルイ、頼朝に追われて平泉で亡くなる義経、さらには戊辰戦争の白虎隊が象徴するように、勝てる相手ではないのに、どうしても屈したくない、たとえ敗北しかないとしても、その道に殉じるしかないという行動原理に、美学を感じている。この山間にある小さな亀田の土地にも、同じようにその美学に殉じたヒーローをいまだに語り継いでいることが、なんとなくうれしかった。
 天守閣の上に登ってみる。あらためて美しい家並みに目を奪われる。二万石と藩としては小藩だったが、これだけ美しい家並みが残り、立派なお寺があちこちにあり、豊かな町であったことがしのばれる。どこか小京都といってもいいような趣をもっている町であった。

 秋田に行く汽車の時間まではまだ小一時間ぐらいあったので、天鷺村を出て、もう少し町の中を歩こうかと思った矢先、雨が降り出してくる。亀田に入ったあたりで雲行きはあやしくなってきたのだが、まさか雨になろうとは。傘はロッカーに置いてきたままだ。こうなるとタクシーで駅に戻るしかない。由利本庄市の岩城出張所が近くにあったので、聞いてみたらすぐにタクシーを呼んでくれた。10分ほどでタクシーが来る。車だと駅まで5分たらず。駅に着いた頃は雨も小降りになっていた。来たときにいた窓口のおばちゃんもおらず、無人状態。駅のベンチに座って、後はぼうーっと電車が来るのを待つだけ。
 聞こえてくるのは鳥のさえずりとカッコーの声。いいもんである。自然の音だけにつつまれるというのも悪くない。予定で動くことより、今回はこんな感じで待つ時間が多いのだが、全然苦にならない。雨もすっかりあがったので近くを散歩。やがてさっきのおばちゃんがまた駅に入るのが見えてきた。この近所に住んでいるのだろう。そろそろ汽車の時間ということで駅をのぞくと、おばちゃんが窓口で居眠りしていた。のどかな風景である。ホームで汽車が来るのを待つ。また雨が降ってきたので、改札の方に戻ると、おばちゃんが、秋田行きの汽車に乗るのなら、階段を渡った向こうのホームだよと教えてくれた。
 12時56分、時間通りに秋田行きの電車が到着、秋田へと向かう。

 馬場為八郎の碑だけ見に、わざわざ亀田まで行くのもどうかと思ったのだが、ずっと心にひっかかっていて、秋田に来たついでにということで来てみたのだが、正解だった。来て良かった。
 馬場が晩年およそ10年ほど住んだというこの町の雰囲気を味わえたことが一番だし、本来であれば国禁を犯した罪人であるはずの馬場為八郎への町の人々の暖かい思いがよくわかったこともうれしかった。亡くなった後、長崎へ帰りたいという気持ちを酌んで、和田三折夫妻がわざわざ遺骨を持って長崎まで届けたという。馬場へのここの人たちの思いが伝わってくる。そしてこの山間にあった亀田藩のことを少しでも知れたのもうれしかった。
 2泊3日の秋田の旅は羽越本線の電車が秋田駅に着いたところで終わった。


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