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クマのコスモポリタン紀行

第15回 過去と未来が交錯する街――サンクトペテルブルグ紀行 【前編】

  9月15日から1週間にわたってサンクトペテルブルグを訪れた。初めて行われた「サーカス演出フェスティバル」に招待されて訪問したのだが、私にとっては15年ぶりのサンクトペテルブルグの旅は、充実したものとなった。最も新しい演出によるサーカスを5日間たっぷりと観覧できたこともあるが、なにより数多くの出会いがあったことが大きい。懐かしい友、会いたかった友と会えた。そして運命的な出会いもあった。こうした出会いをつくってくれた人たちへ思いを馳せることにもなった。そんないくつもの出会いを、この街が演出してくれたように思える。
 これはロシアと日本の、サーカスと漂流民の、そして私自身の研究の過去と未来が交錯した旅の記録である。


2010年9月15日

 アエロフロートのエアバスは、現地時間17時15分モスクワ・シェルメチボ空港Dターミナルに着陸した。気温は22度。外を見てびっくり、ターミナルの建物が新しくなっている。中に入って一番驚いたのは明るいこと。シェルメチボと言えば暗いイメージがついてまわるのだが、このDターミナルはそれを見事にくつがえしてくれた。

 パスポートコントロールも広い・・・のだが、開いている窓口は例によって少なく、長蛇の列ができている。どうやら外見は変わっても中身は同じのようだ。乗り換えの時間があまりないので、ちょっと焦る。これも例によってなのだが、列が出来始めたのを見て、やる気のなさそうな係員が3人ぐらいやってきて、仕方なさそうに窓口を開けはじめた。なんとか18時にここを抜け出す。国内線への乗り換え口に行くと、そんなに人はいないのだが、開いているカウンターはひとつだけ。皆さん夕飯休憩なのだろうか。日本人の団体が30人ぐらいやってきて、団体用の窓口が開く。ひとつのカウンターで孤軍奮闘しているお姉さん、要領が悪い。時計を見るとあっという間に18時20分。まだ4〜5人残っている。ここでまたやる気のない係員がやってきて仕方ないとばかりにカウンターを開ける。日本式だとそれまで待っていた一番前の人がそこに行くのだが、ここはロシア。目ざとく見つけた奴が行ってもいい。ということで自分は待っている4〜5人を無視してその開設したばかりのカウンターのトップバッターとなる。ここはロシアなのでロシア式でということだ。 なんとかチェックイン完了したのはいいが、もうひとつの難関、セキュリティーが待っていた。靴を脱ぎ、ベルトを外しと大変、ロシア人が「ウージャス(ひでえ)」と言っていたが、まったくだ。なんとかここも切り抜けて搭乗口に行くと、ほぼ19時。飛行機はアントノフという旧式飛行機、久しぶりに乗った。

 わずか1時間弱のフライトで、20時すぎにサンクト空港に着陸。気温は14度だという。迎えにきてくれたサンクトペテルブルグサーカスの外国部オリガさんの案内でホテルまで送ってもらう。サンクトを訪れるのは15年振りになる。その時の印象では空港から市街地までの間にはほとんど建物がなかったように思うのだが、いまはいろんなビルが建ちはじめている。中心地に入ると日本レストランの看板が目につく。ホテルはペテルブルグの目抜き通りネフスキイ大通りの近くで、便利がよさそうだ。それにしてもネフスキイ大通りがライトアップされているのにはちょっと驚いた。ソ連解体後一番変わったのは夜の街が明るくなったことかもしれない。

 通りを歩く人はコートとか、ジャンパーを着ている。昨日までの日本は連日30度を超す暑さ、まさに一挙に真夏から秋の世界に飛び込んできたようだ。22時近くにチェックイン。長い移動が終わった。

9月16日

ドーム・クニーギ
ドーム・クニーギ

 朝サーカスから電話があり、昼間は自由行動ということなので、天気もよさそうだし、市内を散策することにする。ネフスキイ大通りに出て、ネヴァ川を目指す。15分ほど歩き、ネヴァ川沿いに出た。以前来たときと比べて車の量が半端でなく増えている。青銅の騎士像、英国海岸通りを歩き、市立歴史博物館(旧ルミリャンツェフ邸)まで行って、ここでまた来た道を戻る。ネフスキイ大通りにある本屋を何軒か見学、やはりドームクニーガが充実している。カタログで読みたいと思っていたサーカスの本が見事に揃っている。両替して、水と寝酒用のコニャックを買って、昼飯。まる一日ぶりでまともな食事をとった。

セルゲイ・マカロフさん(右)
セルゲイ・マカロフさん(右)

 18時、今回の「サーカス演出フェスティバル」の主催者であるロスカンパニーの外国部長ボリス・マイフロフスキイが迎えにやってくる。今年7月にアルマトゥイサーカス40周年の時に知り合ったばかり、お父さんは有名なクラウンである。車にはすでに3人が乗っていたのだが、その中のひとりは、サーカス芸術アカデミー代表で、サーカス研究家のセルゲイ・マカロフさんであった。やっと会うことができた。サーカス学の大先生故ルドルフ・スラフスキイの愛弟子でもある。実は彼とも今年の7月、アルマトゥイにいた時に電話で話している。その時早く会いたいねと言って電話を切ったのだが、こんなに早く会えるとは思ってもいなかった。

サンクトペテルブルグサーカス場
サンクトペテルブルグサーカス場

 思えば今回このフェスティバルに招待されることになったのは、アルマトゥイでの出会いがきっかけになっている(詳細はクマのデラシネ日誌2010年7月22日28日)。そのとき名刺がわりに『アートタイムズ』6号(特集:サーカス学誕生)をプレゼントしたら大喜びしていた。スラフスキイの写真やクズネツォフの写真を見て、ずいぶん親しみを感じたようだ。
 フォンタンカ運河沿いに立つ白いサーカス場の建物が見えてきた。ここが今回のフェスティバル会場となるサンクトペテルブルグサーカス場である。このサーカス場はイタリアの興行師チニゼリが1877年に建てたもの、ヨーロッパでも最も古い伝統をもつサーカス場である。入り口にいくと、すでに人でごったがえしていた。主催者控室に案内される。自分が今回どんな立場でここに招待されているかわからなかったが、行ってびっくり。完全な特別ゲスト、VIP扱いであった。

 知っている顔がいないかなあと思っていたら、やっとカザフのハデルハーン・ディレクターがやってくる。びっくりしたのはウクライナのトランポブラザーズのリーダー、パーシャの奥さんエレーナが来ていたこと。はじめは誰かわからなかった。向こうも自分が来ているのでびっくりしていた。彼女は、ドイツのフリックフラックサーカスで演出したりしているので、今回のような演出をテーマにしたフェスティバルに関心をもったのだろう。

スダルチコフと
スダルチコフと

 さらに懐かしい顔が・・・私がサーカスの仕事をし始めて2年目か3年目の時に呼んだ『ボリショイ舞台サーカス』に出演していたスダルチコフが、私を見つけて、近寄ってきた。彼は当時、いまはそんなに珍しくなくなった衣装の早替え(クイックチェンジ)を奥さんのリューバさんと華麗に演じていた。人柄もおだやかで、特にリューバさんといつも仲よくしていたのが印象に残っている。確か3年ぐらい前にリューバさんが心臓発作で亡くなったという話を聞いた。そのことに触れると彼は寂しそうな顔をして、「芸は息子に譲ってひとりで暮らしている、リューバもいないし、寂しいね」と語る。本当に奥さんを愛していたのだろう。それにしても一緒に仕事してから20年以上は経っている。よく覚えていてくれた。

フェスティバルの招待状
サーカス演出フェスティバルの招待状
フェスティバルのプログラム
フェスティバルのプログラム

 開演前にVIP用のレセプションルームへ。フェスティバルを記念したプログラム、記念品、そしてゲストの顔ぶれは、モナコのモンテカルロ・サーカスフェスティバルの事務局長をはじめスペイン、ドイツ、イタリア、カナダ、アメリカのサーカスフェスティバル関係者、サーカス団の人たち、そしてウクライナ、ベラルーシなど旧ソ連所属の共和国のサーカス団からも大勢参加しているようだった。ロスカンパニーがかなり気合を入れて開催したフェスティバルであることがわかる。プログラムはAとBのふたつ、カナダ、ドイツ、フランス、ウクライナ、ロシア、カザフから30組近くのアーティストか出演している。今日はプログラムAの公演となった。開演前にセレモニー、自分も特別ゲストということで名前をコールされた。演目の間には、映像や写真でサーカスの演出についての歴史や演出家たちが紹介されるという趣向。プログラムには演者の名前だけでなく、演出家の名前が記載されている。コンテスト形式になっているのだが、審査員には、サーカス関係者はひとりもおらず、俳優や作家、エルミタージュ美術館の館長、キーロフバレエのプリマドンナなど、ペテルブルグの文化人たちが顔を揃えていた。技術という観点からだけでなく、演じられる芸を評価しようということらしい。

 カザフでも見たダスバトゥイリョフの娘アーラのストラップとフラフープをミックスした「ブッタ」がかなり受けていた。演出は日本にも何度か呼ばれている兄のダウレット、彼も大学で演出を学ぶなどいまやカザフサーカスの演出家として欠かせない存在にまでなったようだ。

 22時終演。サンクトサーカスのディレクターの誘いで、またレセプションルームで飲み直し。アルマトゥイで私のことを「見事なウォッカ飲み」と評したガラフコ翁も来ていた。ボリスの車でホテルまで送ってもらう。まずは第一日終了。

 

つづく


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