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クマのコスモポリタン紀行

第15回 過去と未来が交錯する街――サンクトペテルブルグ紀行 【後編】

承前

9月20日

 朝、わりと早く目が覚めたのだが、ベッドの中で、今日のシンポジウムで話す内容を、ロシア語でどう言うか頭の中でシミュレーションしてみる。朝飯を食べて、歩いてサーカス場へ。途中アフマートヴァ博物館を見つける。時間があったら行きたい。サーカス場の通用門のところで今日のシンポジウムの議長をするマカロフさんが立っていた。どうやら私を待っていたようだ。ロスカンパニーの方で今日のシンポジウムのため通訳を手配していたのだが、どうしても日本語の通訳が準備できない、どうしようという。それは想定内のことだったのでロシア語でやりますと答える。シンポジウム会場へ。まずは映像のデータが入っているUSBを用意されたパソコンに接続、チェック。完璧。
 シンポジウムの会場つくりのためいろんな人が準備しているのだが、よく見ていると映像関係の手伝いをしている中年女性の顔つきが日本人そっくり。彼女も日本人である私を見て、気になるようでチラッチラッと私の方を見ていた。声をかけるには、今日はあまりにも慌ただし過ぎた。

ロシアン・マジック『桃太郎伝説』
ロシアン・マジック『桃太郎伝説』

(公演の写真集にリンクしています)
ロシアン・マジック『桃太郎伝説』
講演のレジュメ

 今日のシンポジウムでは、一応一人10分、12人がレポートすることになっている。モンテカルロ・フェスティバルの代表、スペイン、イタリアなど、まずはヨーロッパのサーカス関係者が報告し、私の出番はコーヒーブレイクのあと、中国雑技協会の副主席の報告の次だった。メモはあえて日本語にしておいた。この方がフレキシブルに、聴衆の反応を見ながら対応できるかと思ったからだが、なにせロシア語で講演するのはほぼ初めての体験、最初は本当にどうなることかと思った。しかしまあ、乾杯の音頭でしゃれたことをいうよりは、楽だったかもしれない。
 私に与えられたテーマは、「日本のサーカスの演出の実際的な問題」。実際には日本のサーカスの現状、歴史などを中心に話し、最後に今年3月に犬山のモンキーパークで公演した『ロシアン・マジック桃太郎伝説』の映像を見せて締めくくった(詳しくはレジュメ参照)。

 講演を終えて片づけをしていると、イタリアから来た特別ゲストのアレクサンドロが、素晴らしい報告だと近寄ってくるではないか。彼はいまから5〜6年前にリトルで『スペインサーカス』をやった時のプロデューサー、よく覚えている。その後、ほかにも何人か近づいてきた人たちと名刺を交換する。映像で見せた早竹や一蝶斎が演じた幕末の錦絵に描かれた凄すぎる技の数々に驚いたのだろう。

 シンポジウムが終わって後片付けがはじまる。マカロフさんが、私のところに近づいてきて、「今日のあなたの講演はほんとうに興味深かったし、面白かった、きっと天国でスラフスキイが、こうして私たちが会っていることを喜んでいるでしょう」と感慨深げに語りかけてきた。この言葉を聞いてちょっと涙ぐんでしまった。

私のサーカスの師 スラフスキイ先生
私のサーカスの師 スラフスキイ先生

 30年ほど前になるのだろうか、前の会社に勤めていた時、私用で休みをとり、モスクワに行った。目的はスラフスキイと会い、ラザレンコの調査をすることだったのだが、スラフスキイ先生の自宅に3日間缶詰になり、ラザレンコの資料だけでなく、ロシアに渡った日本人サーカス芸人のさまざまな資料を見せてもらった。あの時見た資料がもとになって私の2冊目の本『海を渡ったサーカス芸人』が生まれたと言っても過言ではない。さらに若きサーカス演出家ワレンチンと出会ったり、サーカスの古本を大量に入手したり、サーカススタジオを訪れたりと、私にとっては大きな転換点となった旅となった。
 その滞在中、当時スラフスキイ先生が代表となっていたサーカス芸術アカデミーで日本のサーカスについて話すことになった。なにを話したのかまったく覚えていないのだが、この時のことを思い出すといまでも恥ずかしくなる。私の話が終わったあと聞いていた人たちはみんなぽかんとし、どうしたらいいか困っている風だった。私の無茶苦茶なロシア語がまったく理解できなかったのだろう。あれから30年、やっと自分もロシア語で講演できるようになったのだ。自分でいうのもなんだが、たいしたもんである。

サーカス博物館
サーカス博物館

 無事シンポジウムも終わり後片付けで忙しそうなマカロフさんに、サーカス場の中にあるサーカス博物館の案内を手配してほしいとお願いする。快く引き受けてくれたマカロフさんが、エカテリーナという美人の館長さんを紹介してくれた。ただ彼女はイタリアのゲストを案内することになっており、我々(ヤクーツクサーカスのセルゲイも一緒になった)の案内は今年7月に入社したばかりのバリバリの若手学芸員アンナが担当することになった。ライブラリアンというよりは衣装とか、舞台とかに関心があるみたいだが、サーカスのことが好きそう。これが大事である。楽しみだ。
 前にも何度かこの博物館には来たことがあるのだが、これだけゆっくり見るのは初めてかもしれない。

タカシマの舞台道具
タカシマの舞台道具

左手前が撥、右手前が鞠、右奥はタカシマの写真

 ひとつ驚いたのはタカシマが実際に使っていた撥(ばち)と鞠(まり)という大神楽の道具が飾ってあったことだった(後日江戸大神楽の鏡味仙翁に写真を見てもらったら、まさしく大神楽の道具であった)。これはひとつの発見であった。

 ロシア語での初めての講演、タカシマについての新たな発見など、いろんな意味で濃い一日だったのだが、まだこれで終わりではなかった。過去と未来は、この博物館ツアーの最終地点に、「シマダ」の伝記を配置したことで、見事に繋がったといえるかもしれない。こんなことがあるのか、と思った。そこにシマダの伝記本があったのだ。まるで私が来るのを待っていたかのように。

シマダの芸「究極のバランス」
シマダの芸「究極のバランス」
アンドレイ・シマダの手記
アンドレイ・シマダの手記

 シマダグループ――日本から海を渡りロシアで活躍したシマダ・パントシの3人の子供を中心に結成されたこのグループは、いまでも伝説のように伝えられている驚異のバランス技『究極のバランス』をつくり、ソ連サーカスに旋風を巻き起こした。ロシアに渡った日本人サーカス芸人としては最も有名だったと言えるかもしれない。私がこのグループのことを追い求め始めてから、すでに30年以上の歳月が経っている。唯一の手がかりと言ってもよかったパントシの孫娘にあたるガリーナ・シマダが6年前に亡くなり、もう足跡をたどることは無理かと思っていたのに、今度はシマダが向こうから私のところへ近づいてきた。

 アンナにこの伝記を指さし、この本はどこで手に入ると少し興奮しながら尋ねると、彼女は作者のことをよく知っているというので、連絡先をすぐにメモして持ってきてくれた。さっそく電話し、明日サーカス場で会うことになった。

9月21日

夏の宮殿
夏の宮殿

 今日は8時半から夏の宮殿見学ツアー。ここは私が前に勤めていた会社(中央放送エージェンシー)でBDT(ボリショイドラマ劇場)を呼ぶ時に、取材を兼ねて早大露文の恩師水野忠夫先生と演劇評論家尾崎宏次先生たちと一緒に6月白夜の季節に訪れたことがある。その帰り、飛行機に乗る前に尾崎さんにラザレンコとロシアアヴァンギャルドについて書いたものを読んでもらえませんかと頼むと、先生は「読むものがなくなったし、ちょうどいいや」と言って私の原稿のコピーを受け取った。そして飛行機が離陸してから2時間もたたないうちに私の席までやってきた先生は『悲劇喜劇』に連載しようと言ってくれたのだ。この連載がきっかけになって、私の最初の本『サーカスと革命』が生まれたのだった。

 秋の宮殿も味わい深いものがあった。木々が色づき、まさに黄金の秋がはじまるところだった。ツアー中に昨日の自分の発表について、いままで会ったことがない人たちが何人か寄ってきて、とても面白かったと名刺を渡してくる。ひとりはシルクドゥソレイユの学芸担当であった。早竹虎吉の錦絵や、濱碇の絵ビラを見せたのが大きかったようだ。日本のサーカスについてはまったく未知ということもあったのだろう。

イスマル・マスリャノフ
イスマル・マスリャノフ

 午後5時半にシマダの本を書いたイスマル・マスリャノフと待ち合わせ。向こうの方から見つけてくれた。彼の書いた本を4冊持ってきてくれた。ちょっと高い。ルーブルがないので、セルゲイを探し出し、お金を立て替えてもらう。イスマル氏は今年69歳、シマダグループでは棒の上に登って逆立ちをしていたという。あの凄い技を演じた張本人、その人にまさかここで会えるとは。シマダがこっちに近づいてきたことを感じる。イスマルの話が少しくどいというか、繰り返しになっているがしかたがないだろう。
 そのうちにフェスティバルの最後を締めくくるガラ公演の開始を告げるベルがなる。ここでイスマルと別れる。まずは読んでみないと。

 場内ではまず表彰式が行われた。それが終わってショーが始まったのが、ほとんどが見た番組ばかり。休憩のあとは席に戻らず、袖から見学。ガラだけのために出演したチンパンジーと人間のハンドツゥーハンドはヴィタリーの会社の演目ということで、ぜひ見ろと言われる。これが傑作。どれだけ笑ったか。それとよく会社に資料を送ってくれているウクライナ出身のドイツにいるクラウンも見る。
 この時昨日見かけた日本人のような女性を見かける。私が通路で見ているとき、この女性は人で一杯になってしまったこの通路を通り抜けようとしていたのだが、私の前を通りすぎるとき「すみません」と言っていた。ハッとしてあなたは日本人なのですかと聞こうと思ったときには姿を見失い、結局このあと彼女を見ることはなかった。

 通路のベンチに座っていたら、こちらに向かって笑いかける男が。なんとワレンチン・グニョーショフではないか。彼とはスラフスキイに会うためにモスクワに行ったあの旅で初めて会った。演出家としてまだデビューしたばかりだった彼は、その後ペレストロイカの波に乗って、パリやモンテカルロのサーカスフェスティバルで片っ端から賞をとる作品を演出し、注目を浴びる。そして単独のプログラムをつくり、アメリカ公演、日本公演(ドリームエンジェル)を敢行する。葉巻をくわえ、傲慢な態度を自分のスタイルとしたワレンチンは、フランス人の富豪の娘と結婚、世界を股にかけるビジネスマンとしても活躍するようになった。こうして会うのは何年ぶりのことだろう。抱き合って再会を喜ぶ。しかしすっかり太って昔の面影がない。ガラ公演のラスト、彼が演出したジャグリング「私のピエロ」の演技のあとで歌手がエンディングの歌を披露しているときにワレンチンは舞台に登場した。これはマカロフさんの演出のようだ。マカロフさんの話によるとワレンチンはアル中、そして薬もやっているらしい。あの太り具合、さらにはつやを失った肌、とても健康とはいえない様子はすぐにわかったが、薬にまで手を出しているとは・・・まだ世間に認められず、小さなアパートで若いアーティストたちと一緒に新しい演目をつくるために夢中になり、生き生きと、そして熱くサーカスを語っていた彼は何処に行ったのだろう? 考えてみると彼の転落の始まりは、成功だった。世間に認められ、世界に進出し、さらにはスポンサーまで手に入れ、あっという間に成功の頂点にのぼりつめたとき、そこで巨大な富を得たとき、転落がはじまったといえる。

 公演後場所を変えて、パーティー。これがまたすごい規模のパーティー。いつものようにアジア三兄弟とマカロフ、ヴィタリーと一緒のテーブル。今日はモスクワのサーカス学校の校長サービナさんも加わる。

 23時すぎに脱出。ホテル前でみんなとお別れ。マカロフさんが「スラフスキイがこうしてお前と会わしてくれたんだ、ぜひまた続けて交流していこう」と握手を求めてくる。彼のごつい手をしっかりと握りしめ、「自分もあなたと会えてとてもうれしい。スラフスキイ先生にはいろいろ教えてもらい、なにも恩返しができなかったが、あなたと出会ったことにより、なにかできるかもしれない。今後ともよろしく」と言ったら、大きな身体を覆い被せるようにして私を抱きしめてきた。

 スラフスキイ先生が最後に私にプレゼントしてくれた本には、「オオシマミキオへ いつの日かアジアサーカスの歴史を書くように ルドルフ・スラフスキイ」という献辞が書かれてあった。マカロフさんたちが去ったあと、ひとり道路に残された私は何気なく空を見上げた。そこにはペテルブルグでいままで見たことがなかったたくさんの星があった。
 いい旅だった。星空を見ていると、そんな思いがこみ上げてくる。

 確かに天国のスラフスキイ先生が導いてくれた旅だったのかもしれない。30年前スラフスキイ先生に会いにモスクワを旅してから、サーカスをめぐりさまざまなことが始まった。今回の旅は、また新たな出会いをつくり、そしてまたいろいろなことを起こすきっかけをつくってくれるかもしれない。
 サーカスをめぐる旅はまだ続く。


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