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編集後記

2001年11月号

 今月もまた慌ただしく過ぎていってしまいました。そしてもう歳末、ここんとこなんか時間に追われてばかりじゃないかとぶつぶつ言っていた時、テレビの番組欄を見たら、大好きな映画『冒険者たち』をNHK教育でやるというではないですか。
 見てしまいました。この映画がつくられたのは1967年、最初に見たのは高校二年の時、いまから二十年以上前のことです。あれから何回もこの映画を見ています。しかしここ十年ぐらいは見ていませんでした。見たいと思ったのは、きっと自分のなかでなにか涸れてしまい、それを補う栄養剤が欲しかったのだろうと思うのです。
 何度見てもいい映画です。久しぶりに見てあらためて主演のジョアンナ・シムカスの美しさに驚かされました。きっと監督のロベール・アンリコは、彼女のことが好きで好きでしようがなかったのでしょう。彼女の美しさを引き出すために、監督はまさになりふり構わずという感さえあります。この気持ちはよくわかります。レティシアなどと魅惑的な名前を与えているだけで、彼の一途な気持ちがわかるというものです。
 彼女の美しさが、彼女に恋をしたふたりの男、アラン・ドロン、リノ・バンチェラの夢の象徴だったのです。ふたりにとっては夢に賭けているその過程が、どんなに挫折を繰り返そうが、貧しくても、まさに青春の至福の時だったのです。だからこそそこに彼女もいたのです。夢が実現し、大金を手にした時、ふたりはレティシアを失います。そこからすべてが崩れ落ちるのです。もう追いかけるものがなくなってしまったからです。
 夢とは青春とは、追いかけるその過程が美しいのだと、ロベール・アンリコは語っているのかもしれません。そんなの、二十年前の青春ドラマじゃあるまいしと思われるかもしれませんが、それをてらいもなく、淡々と描くところにこそ、アンリコの実力があるのだと思うのです。大金を得たはずなのに、親友も愛した女も失ったリノ・バンチェラが慟哭する姿を俯瞰でとらえるラスト・シーン。ある意味でこんな残酷なことはないはずです。
 でもこの三人には、夢を追いかけた時が確かにあったのです。それだけは誰にも消すことができないのです。賭ける夢があり、それを夢中になって追いかけ、その代償として全てを失う、こんな青春のはなやかさとはかなさ。海に浮かぶ要塞の上で顔を覆い泣くリノ・バンチェラを捉えながら、波の音が優しくつつむ、このエンディングには、求めることと喪うことの美しさと悲しさが見事に調和されてます。
 『冒険者たち』は洋画の中で一番好きな映画です、そして余談ですが邦画で一番好きな映画は『けんかえれじい』です。二本とも青春映画の秀作です。まだまだ自分にとって青春は終わってないのかもしれません。(クマ)


 むむ、「冒険者たち」ですか。その映画は未見ですが、私にとっての「冒険者たち」といえば児童文学の傑作「冒険者たち−ガンバと15ひきの仲間」(岩波少年文庫)であります。「ガンバと仲間たち」というタイトルでずいぶん昔にアニメ化もされました。
 主人公のネズミが、助けを求めてきた海のむこうの島のネズミたちをイタチの魔の手から救うために闘うお話です。子供向けのおとぎ話でありながら、圧倒的実力差のある相手との決死の戦いの中で、常にどう生きるべきかの選択を迫られつづけるようなキビシイ物語でした。助けてって言われたから見ず知らずの島まで助けに来たのに、島のネズミたちからは「お前らが来たから襲われるんだ」的な扱いを受けたり、終盤、仲間の何人かは死んじゃったり。書かれた1972年という時代背景もあるんでしょうね。アニメのエンディングテーマ曲も「カモメはうたう夜明けの歌を、帆柱に朝日が昇る、けれども夕日はおまえと仲間のドクロを映す・・・」ってマイナーな曲調になって終わるし。いやああぁぁぁ。なんかトラウマなんすけど。
 むかしは子供もいまよりオトナだったんでしょうか。とっとこ走ってるだけで人気をとってるネズミを見てると、なんだか不思議な気がします。
 さて、デラシネ通信も月刊化1周年を迎え、クマ氏の筆もますます走りはじめているようです。来月もお楽しみに!(おおのやすよ)


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