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クマの観覧雑記帳

『ミステリヤ・ブッフ』

演出・構成 加藤直
美術 串田和美
会場  神奈川県民ホール・ギャラリー
観覧日 2003年3月7日 19:00〜


2003年3月8日 土曜日 1:45a.m.

 『ミステリヤ・ブッフ』の初日を見る。正直あまり期待していなかったのだが、面白かった。デスクの大野君、見た方がいいと思うよ。
 ふたつの見どころがある。ひとつは、舞台空間。いわいる額縁舞台ではなく、ギャラリーをつかっているのだが、この舞台空間がとても刺激に富んでいる。演技する場所が頻繁に移動するので、客も移動しなければならないという仕掛けになっている。照明は特筆ものだった。最後にマヤコフスキイやメイエルホリドの顔写真が、フロアに映し出されたにはびっくり。演出家の加藤直、美術監督の串田和義の、この舞台で思い切り実験しようというただならぬ意欲を感じた。もうひとつの見どころは、ロシアアヴァンギャルドを学生のころやっていた自分にとっての大きな問題でもあったのだが、『ミステリヤ・ブッフ』という革命祝祭劇を、共産主義が幻想となった、ソ連解体後の「いま」上演される意義がどこにあるのか、ということだ。ブルジョワとプロレタリアの階級対立を、中世のミステリア(神秘劇)の構造を利用しながら、ブッフ(道化)で逆転させるという、この芝居が上演された時のエネルギーを、「いま」どう描くかが大きな問題だったはずだ。「革命」という力学を、「革命」が死語になってしまったいまどう描くのか。
 難しい問題だと思う。革命のエネルギーを感じ、それを伝えようというのは感じるのだが、それを思い切り、肯定的に描けない、そんな躊躇が感じられた。それはこんな時代なのだからしようがないのかもしれないが、見ているうちに、思い切っていまこそ革命の季節だ、立ち上がろうよ、と言ってくれたほうが、良かったのではとという気がしてきた。時代を気にするのではなく、時代を挑発する、そのエネルギーがいまこそ必要なのではないだろうか、遠慮なく時代に対して、叛旗を翻すぐらいのエネルギーを打ち出してもよかったのではないだろうか。
 そのなかに「いま」『ミステリヤ・ブッフ』を上演する意義があったはずである。
 ブルジョワとプロレタリアという構図は決して古くなっていないのである。イデオロギーは別として、貧富の差は、もしかしたら20世紀初頭よりひろがっているのかもしれない。その意味でもう少しつっこんでもらいたかったなあという気もしている。でもこの芝居は、一見の価値はある。ロシア行きが延期されてほんとうによかった。


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