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早稲田大学『ロシア芸術の現在』講義通信2005

第5回 【ロシア・エトランゼの系譜−ベルチンスキイとビクトル・ツォイ】
講義メモ

2005年6月28日

T.ベルチンスキイについて(1889−1957)

1. 伝記スケッチ

キエフに生まれる、貧しい少年時代。
俳優をめざし、モスクワに出る。
「黒いピエロ」のキャラクターをつくり、キャバレーシンガーのスターになる。
革命を南ロシア巡業中に迎える。やむを得ず亡命の旅へ。
 ベルチンスキイの自伝「ピエロの手記」「長い道」
   抄訳は一部「デラシネ通信」に掲載
流浪の系譜
 コンスタンチノーブル−トルコ−ルーマニア−ポーランド−ドイツ−フランス−パレスチナ−アメリカ−中国へ。
中国に滞在中にモロトフ外相に宛てて帰国嘆願。これが受け入れられロシアに帰国。
上海と映画「私の鶯」について−中国の亡命ロシア人

2. ベルチンスキイの唄

詩の重要性−ロシア大衆歌謡とロマンスの系譜
エキゾチズム、望郷、旅人の思い

 ベルチンスキイのアルバムから「異国の街」 「別れの晩餐」 「木蓮のタンゴ」を聞く

3.ベルチンスキイプロジェクトについて

ベルチンスキイと日本−石橋幸
 石橋幸と娘アナスターシャ・ベルチンスカヤの出会い
 カバレットチッタ第二回に出演、ベルチンスキイの曲を歌ってもらう
安西はぢめとのベルチンスキイプロジェクトについて

U.ビクトル・ツォイについて

1. キノとツォイについて

 「トロリーバス」を聞く

朝鮮人であった
ロシアの朝鮮人について(強制連行)−「天然の美」について
1961年6月21日生まれ
芸術専門学校に入学とともに、レニングラードに出る。ビートルズやローリングストーンズに影響を受け、自分でギターを弾きながら、唄を歌うようになる。ソ連共産党の歴史について教師と衝突し、学校を中退。熟練技術学校に入学。ここでロックバンドをつくる。
1981年トリオでデビュー、その2ヶ月後にデュエット・バンド「キノ」を結成。1982年レニングラードのロッククラブでデビュー、最初のアルバム「45」をだす。このなかの曲「時間はあるけど、金はない」などがヒット。この年初めてのモスクワ公演。1984年にメンバーチェンジ、4人組になる。この年レニングラードロックフェスに出演。センセーションを巻きおこす。次々にアルバムを出し、人気を不動のものとする。1986年には2本の映画に出演。特に『アッサ』で使われた「僕たちは変化を待っている」が大ヒット。1988年アルバム「血液型」が、年間最優秀アルバムに。アメリカでも発売される。オランダ、イタリア、フランスでも公演。1989年ソ連国内を長期巡業ツアー。
1990年7月24日モスクワのルシニキ・スポーツスタジジアムで公演(これがラストコンサートとなる)
8月15日ツォイ、休暇中レニングラード郊外で交通事故により死亡。

 亡くなる1ヶ月前に行われた最後のステージのビデオから
  「血液型」と「僕たちは変化を待っている」
  アルバート街のツォイ小路と壁について

V.元気いいぞうミニ・ライブ

 「元気いいぞう歌謡ショーのテーマ」
 「ダライ・ラマ」
 「オリジナル」
 即興「マイクを追って」
 「オナニー」


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