月刊デラシネ通信 > サーカス&パフォーマンス > 海を渡ったサーカス芸人 > 海を渡ったサーカス芸人列伝 > 第1回

【連載】海を渡ったサーカス芸人列伝

第1回 ヤマダサーカスと三人の日本人

 一九一○年から一九一四年までの約五年間、日本のサーカス団『ヤマダ・サーカス』がロシアを巡業、各地でセンセーションをまきおこした。このサーカス団は、座長の山田の親戚縁者を中心に、芸者、子供を含めて二十四人の日本人から編成されていたという。
 明治以来数多くのサーカス芸人が海を越え、海外で活躍したことは宮岡謙二の『旅芸人始末書』などに断片的に紹介されている。しかしこの『ヤマダ・サーカス』のように大編成のサーカス団が、五年ものながきにわたって海外を舞台に公演活動を続け、しかも大変な人気を得ていたという例は、いままで紹介されることはなかった。
 ロシア・ソビエト時代を通じ、広く民衆から愛されていた道化師ディミトリイ・アリペーロフは、『古いサーカスのアリーナで』という回想録を残しているが、これは革命前のロシア・サーカスを活写した第一級の資料として、現在でも高い評価を与えられている本である。実はこのなかに『ヤマダ・サーカス』のことが詳しく紹介されているのだ。アリペーロフは、一九一○年秋、白海の近くアルハンゲリスクで『ヤマダ・サーカス』と一緒に仕事をする機会があった。まずはアリペーロフの本をもとに、ヤマダサーカスの公演の模様を紹介することにしよう。
 フランス人イザコが経営するサーカス場と契約したヤマダサーカスは、第三部に登場した。番組は豪華な錦の衣装をまとった芸人が勢揃いするパレードから始まる。足芸や曲芸、空中技などはかなりレベルが高いものだったようで、どれも危険にみちた技から構成され、観客席は溜め息の連続だったという。芸と芸の合間には芸者たちの踊りや民族楽器(三味線か?)の演奏も披露された。しかしなによりも観客の度胆をぬいたのは、座長ヤマダが自ら演じた「ハラキリショー」であった。少し長くなるがアリペーロフの本から、ハラキリショーの模様を再現してみよう。

「ヤマダと四人の芸者、二人の子供が登場。芸者は楽器を弾き、子供は太鼓をたたく。ヤマダは、顔の表情で祈っている様子を表現した。祈りの最中に二人の日本人が長刀を持って客席を回り、この刀が本物でしかも良く切れることを証明する。これが終わると楽団が突然アップテンポな曲を演奏、ヤマダは素早く水の入ったコップを取り、上着を剥いで手に水をかけ、刀を手に刺す、そして血に塗れた手を見せながらアリーナの回りを走り回る。(中略)アリーナに少年が駆け込んでくる。二人の日本人がこの少年を捕まえ、テーブルに乗せ、押さえつける。血みどろになったヤマダが走り寄り、少年の上着を剥ぎ取り水をかける。そして刀で二度三度と腹から喉へ、喉から腹へと切りつけた。血塗れになった少年は、シーツにくるまれ運び去られる。観客は異常に興奮し、顔は青ざめ唇は震えていた。」

 日本でいう自決のハラキリではなく、むしろ残酷さを強調したグロテスクな血なまぐさいこのショーは、時間にしておよそ三分間だったというが、とにかく大変なセンセーションを巻き起こしたことだけは間違いないようだ。しかもこのアルハンゲリスク公演ではハラキリショーをめぐって警察沙汰の騒ぎも起きている。
 ハラキリショーの二回目か三回目の公演の時、通路に立っていたアリペーロフの前をいつものように「惨殺された?」シーツにくるまれた少年が運ばれていった。この後ろを学生ぽいのがついてきて、興奮さめやらぬまま、アリペーロフに「あの子はどうなるの、助けが必要じゃないの」と尋ねてきた。アリペーロフは芸人のルールとして「ハラキリショー」の秘密を守るため、「あの子はサーカス場の棧敷の下に埋められるのさ。このために毎回日本から新しい少年を連れてくるのだよ。」と答える。この夜警察と役人がサーカス場に押しかけ、棧敷の下をスコップで掘り起こし、ハラキリで切り刻まれた少年の死体を探すという騒ぎがもちあがった。ヤマダも呼ばれ取り調べをうけることになった。事情を知ったヤマダは大声で笑い出し、ハラキリで使った刀を持ってこさせ、警官や役人の前で種あかしをしてみせた。ハラキリショーでは儀式のようにしばしば水をかけていたが、これがトリックであった。ヤマダの刀の柄には管が通ってあり、ボタンを押すと管を通って唐紅が砕け、水で湿った身体の一部に触れると、本当の傷のようになり、そこから新鮮な血が流れるように見えるという仕掛けだったのだ。この場はとりあえずうまくおさまったが、あとになってハラキリショーは知事命令で中止されることになる。
 いずれにせよハラキリショーは大変な話題になったことだけは間違いない。このあと『ヤマダ・サーカス』は、当時ロシアサーカスの中心となり、一流芸人が芸を競っていたことで知られるモスクワのニキーチン・サーカスに出演(一九一二年)するまでになっている。

 アリペーロフは回想録で『ヤマダ・サーカス』には、「空中を歩いているようにみえた」という素晴らしい空中軽業の芸人や、「熟練した足芸の芸人」がいたと書きとめているが、実はこの公演に参加した日本人芸人三人が、そのままロシアに残り、戦争・革命という歴史の荒波をこえ、ソビエトサーカス史にいまだ語り継がれる伝説的な芸を残しているのだ。三人の名前を「シマダ」、「イシヤマ」、「タカシマ」という。

シマダ

 一九三○年、ロスアンゼルス、ニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリン、モスクワ、シベリア、満州を経て日本へたどりつこうという三大大陸横断飛行の冒険に挑んだパイロット東善作は、イルクーツクでひとりの日本人と出会う。シマダと名乗るこの日本人は、もう三十年近くロシアに住み、いまはシベリアの渡り鳥として、各地を巡業してまわっているサーカス団の団長であった。別れのとき、シマダは東の手をしっかりと握り、「日本の人によろしく」といったという。(鈴木明『ある日本男児とアメリカ』)
シマダ・ファミリー(1970年代) シマダの名は「ニホンハシゴ」という芸と共に、いまでもソ連のサーカス芸人たちの記憶にしっかりと刻まれている。シマダの息子アンドレイ・シマダ(一九一七〜一九七七)は、のちにロシア共和国功労芸術家の称号を受けるバランス技の達人となった。しかもアンドレイは、父から受け継いだ日本古来の芸を自分なりに改良し、ソ連サーカス史上伝説に残る、凄い技をあみだしていたのだ。
 逆立ちする人間をのせたハシゴを肩に担いだままバランスをとるという、日本古来の芸「肩芸(さしもの)」を父とともに演じていたアンドレイは、妹弟や自分の息子たちと共に、『究極のバランス』という番組をつくりあげた。これは、逆立ちをする人間をのせた高さ七メートルの棒を、アンドレイが額でバランスをとりながら、ハシゴを昇り、さらには鉄線を渡って、鉄線の上で身体を三六○度回転させるという荒技であった。ハシゴを使った芸は、いまでもソ連では「ニホンハシゴ」と呼ばれている。

イシヤマ

イシヤマ・ファミリー 一九八九年ボリショイサーカス日本公演に、ゲオルギー・イシヤマという日系のジャグラーが参加、話題になった。ゲオルギーのお祖父さんイシヤマ・マサウラもまた、『ヤマダ・サーカス』のメンバーの一人であった。
 リゾート地ソチに住むゲオルギーは、一九五一年生まれ、十二才の娘がいるという。ゲオルギーは、「瞼の母の国」日本を訪れるにあたって二枚の写真を携えてきた。母から託されたというこの古い写真は、三代にわたるイシヤマ家の流転の人生を伝えてくれる。
 イシヤマ・マサウラは、第一次世界大戦の勃発を機に、他の団員が日本に帰国するをよそに、ロシアに留まり、その後ロシア人と結婚、男の子をもうける。革命後マサウラは、養護施設から幼い女の子をひきとる。そして親子四人で足芸のグループをつくり、混乱と動乱の渦巻く新生ソ連各地を巡業することになる。この少女こそ、やがてゲオルギーの母になる人である。ゲオルギーが母から託されてきた写真には、マサウラ、その奥さん、まだ四才のゲオルギーの母と少年だった父が一緒に写っているという珍しいものである。
 着物に帯をした四人の家族は、富士山と思われる絵をバックに仲良く写真に収まっている。マサウラの日本への望郷の思いがせつなく伝わってくる写真である。マサウラは孫ゲオルギーの顔を見ることもなく、一九四○年に亡くなった。

タカシマ

日本人ジャグラータカシマ ロシアに留まった『ヤマダ・サーカス』のもうひとりの芸人タカシマ。彼の名は、思いがけなく、革命直後若い芸術家を中心に展開された前衛演劇運動の記録のなかに見ることができる。
 一九二○年ペトログラードにサーカスと演劇を合体させ、新しい民衆演劇をつくろうと、演出家セルゲイ・ラドロフをリーダーに『民衆喜劇座』が結成される。メイエルホリドを中心に当時世界の演劇界をリードしていた、ロシア・アヴァンギャルド演劇運動のなかで、サーカスは表現の新しい可能性を切り拓くものとして脚光を浴び、演劇のサーカス化と呼ばれる運動が展開されていた。『民衆喜劇座』は、演劇のサーカス化を意欲的に進めていた劇団であった。ペテログラードの学生や労働者に圧倒的な人気を誇り、作家ゴーリキイも絶賛したこの劇団の魅力は、なんといっても本物のサーカス芸人が出演、信じられないような芸を見せてくれたことである。こうしたサーカス芸人のなかで、一番の人気を博していたのが、結成当時からのメンバー、曲芸の名手タカシマであった。彼の舞台を見たひとりの演劇評論家は次のような論評を残している。

「銀の花柄のついた青いガウンを着たタカシマの演技は、我々に深い感動を与える、素晴らしいものだった。彼は悲しげに舞台に立っている。日本語で話しながら、目にとまらぬ早さで、小刀を操ってみせた。彼はまだ我々が知らない、東洋のまぎれもない、素晴らしい演劇芸術を披露してくれた。」

 一九二三年『民衆喜劇座』が解散したあとタカシマの行方はあとかたもなく消えてしまう。現代ジャグリングの礎を築いた天才ジャグラーとして、いまだにヨーロッパやアメリカのサーカス芸人たちのあいだで語り継がれているタカシマであるが、『民衆喜劇座』をあとにしたその後についてはいままで謎とされていた。しかし一九七六年バラノーフスキイというサーカスの舞台監督をしていた人の回想録が出版されたことにより、タカシマのその後をたどることができるようになった。その後とはいってもタカシマの最期についてであったが。

「死にぎわにタカシマは、遺言を残した。日本式に埋葬してくれと。第二の祖国ソ連でタカシマは多くのサーカスの仲間に見送られた。遺言どおり手を胸の前で交差させたまま、美しい着物を着たタカシマは、静かに埋葬された。」(『わたしはサーカスの舞台監督』)

 わずかに残されていた資料をつなぎ合わせて、まさに点と点を結びつけながら『ヤマダ・サーカス』のロシア巡業公演、さらにその後ロシアにとどまった三人の芸人の足跡を追ってみた。まだまだ空白の時間が多すぎて、彼らの漂泊生活がすべて明らかにされたわけではもちろんない。しかし交通網が発達していなかったあの時代に海を渡り、戦争、革命と動乱にみちた広大なロシアの大地を横断し、異国の観客の喝采を糧に生きていたサーカス芸人たちの歩いた道のいくすじかは、歴史の闇の彼方から呼び起こせたのではないかと思う。そしてそのなかでボーダレス時代といわれる現代、精神のなかに国境をもたず、自由に、そしてたくましく、したたかに渡り歩いたサーカス芸人の生き様は、わたしたちに何か重要なことを語りかけているようにも思えてくる。


連載目次へ デラシネ通信 Top 前へ | 次へ